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夫に見せない顔を、元彼に見抜かれた夜

カテゴリ: 官能小説の館    掲示板名:女性向け官能小説
ルール: 女性目線のエロス、恋愛要素を含むなど、女性向けの小説をご投稿下さい
  
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1:夫に見せない顔を、元彼に見抜かれた夜
投稿者: なみきち ◆e6Mv2w7nzY
夫は、私が髪を切ったことに気づかなかった。

夕食の味付けには気づく。味噌汁が少し濃いとか、焼き魚の皮が今日は焦げていないとか、そういう小さなことには何気なく反応する。

けれど、三センチ短くなった前髪には何も言わなかった。

「今日、遅かったんだ」

夫は箸を置きながら、テレビの画面を見たまま言った。

「うん。少しだけ」

「飲み会?」

「昔の友達と。久しぶりに集まるって」

「へえ。楽しんできなよ」

その言い方は優しかった。責めるでもなく、疑うでもない。だからこそ、胸の奥に生まれた小さな寂しさを、私は誰のせいにもできなかった。

夫は悪い人ではない。

結婚して十二年。大きな喧嘩もなく、生活は穏やかで、休日には一緒に買い物にも行く。家に帰れば灯りがついていて、冷蔵庫には明日の朝食がある。

それで十分だと思っていた。

十分なはずだった。

でも鏡の前で少しだけ髪を整えた私は、ほんの一瞬、誰かに気づいてほしかった。

似合うね、と。

変わったね、と。

まだ女として見られるのだと、誰かに確認してほしかった。

そんなことを思う自分が、少しみっともなく感じた。

もう三十八歳だ。

若い頃のように、髪型ひとつで誰かの視線を期待する年齢ではない。妻として、社会人として、きちんと日々をこなしていれば、それでいい。

そう思うことに慣れていた。

その夜、同窓会の店へ向かう電車の窓に映った私は、少しだけ知らない顔をしていた。

淡い色のブラウス。普段より丁寧に引いた口紅。首元に小さなネックレス。

派手ではない。けれど、誰にも気づかれないまましまい込むには、少しだけ惜しい格好だった。

同窓会は、思っていたより賑やかだった。

久しぶりに会う友人たちは、それぞれ年齢なりの変化をまとっていた。子どもの話、親の介護、仕事の愚痴、健康診断の数値。学生時代には想像もしなかった話題で笑い合う私たちは、確かに大人になっていた。

私は何度か笑い、何度か相槌を打った。

楽しくなかったわけではない。

ただ、どこかでずっと、妻の顔をしていた。

「美咲」

店を出たところで、その声がした。

一瞬、時間が巻き戻ったのかと思った。

その名前の呼び方を、私は知っていた。

振り向くと、蓮が立っていた。

最後に会ったのは二十一歳の頃だった。もう十七年も前になる。細かった輪郭は少し大人びて、目元には浅い皺ができていた。けれど、こちらを見る時の静かな視線だけは、昔のままだった。

「……蓮?」

自分の声が、思ったより小さく出た。

「久しぶり」

「来てたんだ」

「遅れて。顔だけ出した」

そう言って、蓮は私をまっすぐ見た。

夫でも、友人でも、同僚でもない視線だった。

昔の私を知っている人の目。

そして今の私を、初めて見る人の目。

「髪、短くしたんだな」

たったそれだけだった。

たったそれだけの言葉に、喉の奥がつまった。

「……今日ね」

「似合ってる」

「そう?」

「昔より、今のほうがいい」

胸の奥で、何かが小さくほどけた。

夫が気づかなかったことに、蓮は気づいた。

誰にも見せていないつもりだった期待を、彼は何でもないことのように拾い上げた。

「少し飲み直す?」

言われて、すぐに断るべきだった。

私は結婚している。夫は家にいる。夜も遅い。明日も仕事がある。

断る理由なら、いくつも浮かんだ。

けれど、口から出たのは別の言葉だった。

「少しだけなら」

蓮は笑わなかった。

ただ、私がそう言うことを最初から知っていたように、静かにうなずいた。

二軒目に選んだのは、駅から少し離れた小さなバーだった。

照明は暗く、カウンターの奥でグラスが低く光っていた。店内には古いジャズが流れていて、会話を急かさない空気があった。

私たちは端の席に並んで座った。

距離が近い。

そう感じた瞬間、私は少しだけ姿勢を正した。

「緊張してる?」

蓮がグラスを持ったまま聞いた。

「してないよ」

「嘘が下手なのは変わらないな」

その言い方に、昔の記憶が少しだけ戻ってきた。

蓮は、私が無理をしている時にすぐ気づく人だった。怒っていないふり。寂しくないふり。平気なふり。そういう薄い膜を、彼はいつも指先でそっとめくるように見抜いた。

「幸せそうには見える」

不意に、蓮が言った。

私はグラスの縁を指でなぞった。

「何、それ」

「ちゃんと生活してる顔だと思った」

「褒めてるの?」

「半分は」

「もう半分は?」

蓮は少し間を置いた。

その沈黙だけで、私は聞かなければよかったと思った。

「満たされてる顔ではない」

心臓が、嫌な音を立てた。

「失礼だよ」

「そうだな」

「結婚してるし、普通に暮らしてる」

「うん」

「夫とも、別に悪くない」

「だろうな」

否定するたびに、自分の声が頼りなくなっていく。

蓮は責めなかった。口説いているふうでもなかった。ただ、私が見ないようにしていた場所を、静かに照らしてくる。

「悪くないことと、寂しくないことは違う」

その言葉は、胸の奥に深く入った。

私は笑おうとした。

でも、うまく笑えなかった。

「そういうこと、簡単に言わないで」

「簡単には言ってない」

蓮の声が、少し低くなった。

「美咲がそういう顔してたから」

名前を呼ばれるたびに、妻でいるための薄い殻が軋む気がした。

夫は私を名字で呼ぶことが多い。家では「ねえ」とか「ちょっと」で済むことも増えた。名前で呼ばれないことに慣れていた。

だから、蓮の口から出る「美咲」は、ひどく危うかった。

店を出ると、雨が降っていた。

細い雨だった。傘を差すほどではないのに、歩けば確実に肩を濡らすような雨。

「送る」

蓮が言った。

「いいよ。電車で帰れる」

「終電、少し遅れてる」

「でも」

「嫌ならここで別れる」

蓮は私を見た。

「無理には誘わない」

その一言で、かえって逃げ道がはっきり見えてしまった。

帰ればいい。

今ならまだ何も起きていない。

少し飲み直しただけ。昔の恋人と再会して、懐かしい話をしただけ。そういう夜にできる。

なのに、私は動けなかった。

蓮は車の助手席のドアを開けたまま、私の答えを待っていた。

待たれることに、胸が痛くなった。

急かされるのではなく、選ばせられている。

だからこそ、自分の本音から逃げられなかった。

「……途中まで」

私がそう言うと、蓮はただうなずいた。

車内は雨音だけがしていた。

フロントガラスを流れる水滴が、街の灯りを滲ませている。赤信号で止まるたび、沈黙が少しずつ濃くなった。

私は膝の上で指を組んだ。

左手の薬指には、結婚指輪がある。

それを隠すつもりはなかった。蓮も見ているはずだった。

それでも彼は、何も言わなかった。

「帰りたい?」

静かな声だった。

「帰らなきゃ、とは思ってる」

「帰りたいかは聞いてない」

私は答えられなかった。

信号が青に変わったのに、蓮はすぐには車を出さなかった。

「美咲」

また、名前。

「そういう顔、昔から隠すの下手だった」

「どんな顔」

聞き返した自分の声が震えていることに、私は気づいていた。

蓮は少しだけこちらを向いた。

「誰かに見つけてほしい顔」

胸の奥が熱くなった。

恥ずかしさなのか、怒りなのか、期待なのか、自分でもわからない感情が込み上げる。

「やめて」

小さく言った。

「本当にやめてほしいなら、やめる」

蓮の手が、ハンドルから離れた。

触れられたわけではない。

ただ、その気配だけで、私は息を止めた。

「でも、まだ帰りたくない顔してる」

否定しなければならなかった。

私は妻で、彼は元彼で、この夜は間違っている。

なのに、間違っているとわかるほど、心のどこかが静かに目を覚ましていく。

夫に見せない顔。

見せる必要がないと思っていた顔。

もう誰にも見せることはないと、しまい込んでいた顔。

それを蓮は、十七年ぶりの夜に、まるで昨日まで知っていたみたいに見抜いた。

「旦那に、そんな顔見せたことある?」

私は唇を噛んだ。

「……ない」

声にした瞬間、何かが決定的に変わった。

蓮は私の手に触れた。

強く握るのではなく、逃げようと思えばすぐ逃げられるくらいの触れ方だった。

だから私は、逃げなかった。

「ないなら」

蓮の声が、雨音に混じった。

「今夜だけ、俺に見せて」

私は、帰れるはずだった。

断れるはずだった。

夫の顔を思い出し、指輪を見て、ここで終わりにすることもできた。

それでも、蓮の手を振りほどかなかった。

流されたのではない。

誰かのせいにできるほど、私は子どもではなかった。

自分が何を望んでいるのか、もうわかってしまっていた。

「……今夜だけ」

そう言ったのは、私だった。

蓮はすぐに動かなかった。

私の言葉が本心かどうかを確かめるように、指先だけでそっと手の甲を撫でた。

その慎重さに、胸がさらに苦しくなった。

欲しかったのは、乱暴に奪われることではなかった。

私が隠していたものを見つけられて、それでも汚いもののように扱われないことだった。

女として見られること。

名前で呼ばれること。

寂しかったのだと、言葉にしなくてもわかってもらえること。

車が静かに走り出した。

どこへ向かっているのか、私は聞かなかった。

聞かなくても、もう引き返せないことを知っていた。

窓の外で、雨に濡れた街灯が流れていく。

私はその光を見つめながら、胸の奥で長く眠っていた自分が、ゆっくりと目を開けるのを感じていた。

翌朝、雨は止んでいた。

洗面台の鏡の前で、私は少し乱れた髪を指で整えた。

口紅は落ちていた。目元には眠れなかった夜の色が残っていた。

それでも、鏡の中の私は、不思議とみっともなくはなかった。

妻の顔ではなかった。

母でも、仕事をする大人でも、家の中で穏やかに笑う女でもなかった。

そこにいたのは、誰かに見つけられてしまった私だった。

夫に見せない顔。

ずっと忘れていた顔。

彼だけが覚えていて、彼だけが引き出した顔。

スマートフォンが震えた。

画面には、蓮の名前があった。

短いメッセージだった。

『無事に帰れた?』

私はしばらく、その文字を見つめた。

返信すれば、また何かが始まってしまう。

返信しなければ、昨夜のことは一度きりの雨の夜として閉じられる。

わかっていた。

それなのに、指はゆっくりと画面に触れていた。

『帰れたよ』

そこまで打って、少し迷った。

そして、もう一行だけ足した。

『でも、まだ少し、帰ってきてない気がする』

送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で何かが甘く痛んだ。

私は鏡の中の自分をもう一度見た。

夫が知らない顔をした私が、そこにいた。
 
2026/05/10 22:42:45(OslooN98)
2
投稿者: なみきち ◆e6Mv2w7nzY
ID:namikichi
第2話 夫の隣で、元彼からの返信を待っていた


送信ボタンを押したあと、私はしばらくスマートフォンを伏せられなかった。

『でも、まだ少し、帰ってきてない気がする』

自分で打った文字なのに、画面の中に残ったそれは、私のものではないように見えた。

こんなことを送る女だっただろうか。

夫が起きてくる前の洗面所で、私はスマートフォンを握ったまま、鏡の中の自分を見ていた。

髪は整えた。口紅も塗り直した。ブラウスの襟元もいつもの位置に戻した。

それなのに、どこかが戻っていなかった。

昨夜、蓮に名前を呼ばれたときの声が、まだ耳の奥に残っている。

低くて、急かさなくて、それなのに逃げ道の真ん中に立っているような声。

私は蛇口をひねり、冷たい水で指先を濡らした。

薬指の指輪が、朝の光を小さく跳ね返した。

結婚して十二年。毎朝見ているはずのそれが、今日だけ少し重く見えた。

寝室のドアが開く音がした。

「おはよう」

夫の声だった。

私はスマートフォンの画面を伏せて、いつもの顔を作った。

「おはよう」

「昨日、遅かったんだね」

夫は寝癖のついた髪を片手で押さえながら、キッチンへ向かった。

怒っている様子はなかった。疑っている様子もなかった。

その普通さに、私は少しだけ救われ、同じくらい少しだけ傷ついた。

「久しぶりだったから、話が長くなっちゃって」

「楽しかった?」

「うん」

「よかったね」

夫は冷蔵庫を開け、牛乳を取り出した。

何も知らない横顔。

それを見ていると、胸の奥に小さな罪悪感が広がる。けれど、その罪悪感の隙間から、昨夜の記憶が指先のように入り込んでくる。

蓮の目。

私の名前を呼ぶ声。

「帰りたいかは聞いてない」と言ったときの静かな強さ。

思い出すだけで、呼吸の位置が少し変わった。

「今日、買い物行く?」

夫が言った。

「え?」

「午後。洗剤なくなりそうだったから」

「あ、うん。行こうか」

何でもない会話。

何でもない土曜日。

この家の中では、私はいつも通り妻だった。

なのに、スマートフォンが震えるのを待っている自分がいた。

朝食を作りながらも、テーブルを拭きながらも、夫のシャツを洗濯機に入れながらも、私は耳の奥で通知音を探していた。

来ない方がいい。

そう思った。

来なければ、昨夜は本当に一度きりになる。

雨のせいにして、懐かしさのせいにして、少し飲みすぎたせいにして、胸の奥にしまい込める。

でも、来てほしかった。

その矛盾が、私を一番苦しめた。

夫がリビングでテレビをつけた。

朝の情報番組の明るい声が流れる。天気予報。週末の行楽地。高速道路の渋滞。

世界はあまりにも普通で、私だけが昨夜の雨の中に取り残されているみたいだった。

スマートフォンが震えた。

指先が、勝手に反応した。

夫に気づかれないように画面を見る。

蓮だった。

『帰ってきてないなら、まだ無理に戻らなくていい』

たった一行。

それだけで、胸の奥にしまい込もうとしていたものが、また静かにほどけた。

私は返信画面を開いた。

何度も文字を打っては消した。

『昨日のことは忘れて』

違う。

忘れてほしいわけではない。

『もう会わない方がいい』

それも違う。

会わない方がいいとは思う。でも、会いたくないわけではない。

『あんなこと、言うべきじゃなかった』

これも違う。

本当は、言ってしまって少し楽になっていた。

私は画面を閉じた。

返信できないまま、スマートフォンをバッグの中にしまう。

「どうしたの?」

夫がテレビから目を離さずに聞いた。

「何が?」

「ぼんやりしてる」

「ちょっと眠いだけ」

「昨日、飲みすぎた?」

「そんなに飲んでないよ」

夫はそれ以上聞かなかった。

聞かれないことに安堵して、同時に、どうしようもなく寂しくなった。

蓮なら、そこで終わらせなかったかもしれない。

「眠い顔じゃない」と言ったかもしれない。

「何を隠してる?」と聞いたかもしれない。

そんなことを考えてしまう自分が、もう十分に危うかった。

午後、夫と買い物に出た。

スーパーの通路を並んで歩き、洗剤と卵とヨーグルトをカゴに入れる。夫は特売のコーヒーを見つけて、少し得意そうに私を呼んだ。

「これ、安いよ」

「ほんとだ」

私は笑った。

きっと自然に笑えていたと思う。

夫の隣は安心だった。

長く暮らしてきた人の匂いがした。靴の選び方も、レジで小銭を探す癖も、車のキーを右ポケットに入れるところも、私は全部知っている。

その安心を、嫌いになったわけではない。

ただ、安心だけでは触れられない場所が、私の中にまだ残っていた。

蓮はそこを見てしまった。

そして私は、見られたことを嫌だと思えなかった。

帰宅して、買ったものを片づける。

夫はソファに座り、スマートフォンでニュースを見ていた。

私はキッチンの隅でバッグから自分のスマートフォンを取り出した。

蓮から、もう一通来ていた。

『返事を急かすつもりはない』

その下に、少し間を置くように次の文が続いていた。

『でも、昨夜の顔をなかったことにはしない』

息が止まった。

昨夜の顔。

夫には見せない顔。

見せるつもりもなかった顔。

蓮は、それを軽く扱わなかった。

一夜の出来事として消そうともしなかった。

私はキッチンのカウンターに手をついた。

胸の奥が、苦しいほど静かに震えていた。

「美咲」

夫の声がして、私は肩を揺らした。

「なに?」

「今日の夜、何食べる?」

普通の質問。

けれど、名前を呼ばれたことに、一瞬だけ反応してしまった。

夫の声の中の「美咲」と、蓮の声の中の「美咲」は、まるで違っていた。

夫のそれは、家の中の呼び名だった。

蓮のそれは、私自身を見つける声だった。

「簡単なのでいい?」

「うん。なんでも」

「じゃあ、鍋にしようか」

「いいね」

会話は続く。

日常は崩れない。

だからこそ、私の中だけがひどく乱れていることを、誰にも知られなかった。

夜、夫がお風呂に入っている間に、私は寝室へ行った。

カーテンを閉め、ベッドの端に座る。

スマートフォンを開く。

蓮のメッセージが、そこにあった。

私はようやく返信を打った。

『なかったことにした方がいいと思う』

送る前に、しばらく画面を見つめた。

そして、その下に続けてしまった。

『でも、そうしたいと思えない』

送信した瞬間、顔が熱くなった。

自分の本音を、また彼に渡してしまった。

すぐに既読がついた。

蓮からの返信は短かった。

『会って話す?』

心臓が強く鳴った。

私は夫の気配を探した。

浴室の水音が聞こえる。

「だめ」

声には出さず、口の中だけでそう言った。

だめだ。

会えば、また戻れなくなる。

昨夜のことを終わらせるためなら、会う必要なんてない。むしろ会わない方がいい。大人なら、それくらいわかっている。

でも、私は大人だからこそ、言い訳の作り方も知っていた。

終わらせるために会う。

ちゃんと話すために会う。

一度だけ、区切りをつけるために会う。

いくらでも理由は作れた。

本当の理由は、ひとつしかなかったのに。

『少しだけなら』

私はそう打った。

第1話の夜と同じ言葉だと気づいて、指が止まった。

少しだけ。

その言葉は、いつも自分をだますために使っている。

少しだけ飲む。

少しだけ話す。

少しだけ近づく。

でも本当は、少しだけで済まないことを、私はもう知っていた。

蓮から場所が送られてきた。

駅から少し離れた、川沿いの小さなカフェだった。

明日の夕方。

人目がないわけではない。密室でもない。逃げようと思えば逃げられる場所。

そういう場所を選ぶところが、蓮らしかった。

無理に引きずり込まない。

けれど、私が自分で足を向ける余白を残す。

その余白が、ずるいと思った。

浴室のドアが開く音がした。

私はスマートフォンを閉じ、枕の下に滑り込ませた。

夫が寝室に入ってくる。

「明日、夕方ちょっと出るね」

自分でも驚くほど、自然な声だった。

「友達?」

「うん。少しだけ」

「わかった」

夫はそれ以上、何も聞かなかった。

その夜、夫は私の隣で眠った。

穏やかな寝息が、暗い部屋の中にゆっくりと落ちていく。

私は天井を見つめていた。

隣に夫がいる。

けれど、頭の中では蓮の声がしていた。

無理に戻らなくていい。

昨夜の顔をなかったことにはしない。

私は目を閉じた。

終わらせに行く。

そう自分に言い聞かせた。

けれど、胸の奥では別の声がしていた。

もう一度、あの目で見られたい。

もう一度、名前を呼ばれたい。

もう一度、夫に見せない顔を見抜かれたい。

翌日の夕方、私は鏡の前で長く迷った。

派手に見えない服。

でも、何も期待していないようには見えない服。

その加減を探している自分に気づき、思わず苦く笑った。

終わらせに行く女が、こんなに襟元の形を気にするだろうか。

口紅を塗り、少しだけ指で押さえる。

髪を耳にかけ、すぐに戻す。

私は何をしているのだろう。

答えはわかっていた。

夫に「少し出てくるね」と言った声は、昨夜よりずっと落ち着いていた。

「気をつけて」

「うん」

玄関の扉を閉める。

その瞬間、家の中の空気が背中から離れた。

私は深く息を吸った。

夕方の風は少し冷たく、頬に触れるだけで、昨夜の雨を思い出させた。

終わらせに行く。

何度もそう言い聞かせながら、駅へ向かった。

けれど改札を抜けたとき、スマートフォンが震えた。

蓮からだった。

『待ってる』

たった四文字。

それだけで、足元が少し頼りなくなった。

私はスマートフォンを胸元に押し当てるように持った。

終わらせるためではない。

本当はもう、気づいていた。

私は、終わった夜の続きを確かめに行くのだ。

妻の顔をして家を出たはずなのに。

蓮の待つ場所へ近づくたび、私の中で、あの夜の顔がまた目を覚ましていった。
26/05/10 22:47 (OslooN98)
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