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夫は、私が髪を切ったことに気づかなかった。
夕食の味付けには気づく。味噌汁が少し濃いとか、焼き魚の皮が今日は焦げていないとか、そういう小さなことには何気なく反応する。 けれど、三センチ短くなった前髪には何も言わなかった。 「今日、遅かったんだ」 夫は箸を置きながら、テレビの画面を見たまま言った。 「うん。少しだけ」 「飲み会?」 「昔の友達と。久しぶりに集まるって」 「へえ。楽しんできなよ」 その言い方は優しかった。責めるでもなく、疑うでもない。だからこそ、胸の奥に生まれた小さな寂しさを、私は誰のせいにもできなかった。 夫は悪い人ではない。 結婚して十二年。大きな喧嘩もなく、生活は穏やかで、休日には一緒に買い物にも行く。家に帰れば灯りがついていて、冷蔵庫には明日の朝食がある。 それで十分だと思っていた。 十分なはずだった。 でも鏡の前で少しだけ髪を整えた私は、ほんの一瞬、誰かに気づいてほしかった。 似合うね、と。 変わったね、と。 まだ女として見られるのだと、誰かに確認してほしかった。 そんなことを思う自分が、少しみっともなく感じた。 もう三十八歳だ。 若い頃のように、髪型ひとつで誰かの視線を期待する年齢ではない。妻として、社会人として、きちんと日々をこなしていれば、それでいい。 そう思うことに慣れていた。 その夜、同窓会の店へ向かう電車の窓に映った私は、少しだけ知らない顔をしていた。 淡い色のブラウス。普段より丁寧に引いた口紅。首元に小さなネックレス。 派手ではない。けれど、誰にも気づかれないまましまい込むには、少しだけ惜しい格好だった。 同窓会は、思っていたより賑やかだった。 久しぶりに会う友人たちは、それぞれ年齢なりの変化をまとっていた。子どもの話、親の介護、仕事の愚痴、健康診断の数値。学生時代には想像もしなかった話題で笑い合う私たちは、確かに大人になっていた。 私は何度か笑い、何度か相槌を打った。 楽しくなかったわけではない。 ただ、どこかでずっと、妻の顔をしていた。 「美咲」 店を出たところで、その声がした。 一瞬、時間が巻き戻ったのかと思った。 その名前の呼び方を、私は知っていた。 振り向くと、蓮が立っていた。 最後に会ったのは二十一歳の頃だった。もう十七年も前になる。細かった輪郭は少し大人びて、目元には浅い皺ができていた。けれど、こちらを見る時の静かな視線だけは、昔のままだった。 「……蓮?」 自分の声が、思ったより小さく出た。 「久しぶり」 「来てたんだ」 「遅れて。顔だけ出した」 そう言って、蓮は私をまっすぐ見た。 夫でも、友人でも、同僚でもない視線だった。 昔の私を知っている人の目。 そして今の私を、初めて見る人の目。 「髪、短くしたんだな」 たったそれだけだった。 たったそれだけの言葉に、喉の奥がつまった。 「……今日ね」 「似合ってる」 「そう?」 「昔より、今のほうがいい」 胸の奥で、何かが小さくほどけた。 夫が気づかなかったことに、蓮は気づいた。 誰にも見せていないつもりだった期待を、彼は何でもないことのように拾い上げた。 「少し飲み直す?」 言われて、すぐに断るべきだった。 私は結婚している。夫は家にいる。夜も遅い。明日も仕事がある。 断る理由なら、いくつも浮かんだ。 けれど、口から出たのは別の言葉だった。 「少しだけなら」 蓮は笑わなかった。 ただ、私がそう言うことを最初から知っていたように、静かにうなずいた。 二軒目に選んだのは、駅から少し離れた小さなバーだった。 照明は暗く、カウンターの奥でグラスが低く光っていた。店内には古いジャズが流れていて、会話を急かさない空気があった。 私たちは端の席に並んで座った。 距離が近い。 そう感じた瞬間、私は少しだけ姿勢を正した。 「緊張してる?」 蓮がグラスを持ったまま聞いた。 「してないよ」 「嘘が下手なのは変わらないな」 その言い方に、昔の記憶が少しだけ戻ってきた。 蓮は、私が無理をしている時にすぐ気づく人だった。怒っていないふり。寂しくないふり。平気なふり。そういう薄い膜を、彼はいつも指先でそっとめくるように見抜いた。 「幸せそうには見える」 不意に、蓮が言った。 私はグラスの縁を指でなぞった。 「何、それ」 「ちゃんと生活してる顔だと思った」 「褒めてるの?」 「半分は」 「もう半分は?」 蓮は少し間を置いた。 その沈黙だけで、私は聞かなければよかったと思った。 「満たされてる顔ではない」 心臓が、嫌な音を立てた。 「失礼だよ」 「そうだな」 「結婚してるし、普通に暮らしてる」 「うん」 「夫とも、別に悪くない」 「だろうな」 否定するたびに、自分の声が頼りなくなっていく。 蓮は責めなかった。口説いているふうでもなかった。ただ、私が見ないようにしていた場所を、静かに照らしてくる。 「悪くないことと、寂しくないことは違う」 その言葉は、胸の奥に深く入った。 私は笑おうとした。 でも、うまく笑えなかった。 「そういうこと、簡単に言わないで」 「簡単には言ってない」 蓮の声が、少し低くなった。 「美咲がそういう顔してたから」 名前を呼ばれるたびに、妻でいるための薄い殻が軋む気がした。 夫は私を名字で呼ぶことが多い。家では「ねえ」とか「ちょっと」で済むことも増えた。名前で呼ばれないことに慣れていた。 だから、蓮の口から出る「美咲」は、ひどく危うかった。 店を出ると、雨が降っていた。 細い雨だった。傘を差すほどではないのに、歩けば確実に肩を濡らすような雨。 「送る」 蓮が言った。 「いいよ。電車で帰れる」 「終電、少し遅れてる」 「でも」 「嫌ならここで別れる」 蓮は私を見た。 「無理には誘わない」 その一言で、かえって逃げ道がはっきり見えてしまった。 帰ればいい。 今ならまだ何も起きていない。 少し飲み直しただけ。昔の恋人と再会して、懐かしい話をしただけ。そういう夜にできる。 なのに、私は動けなかった。 蓮は車の助手席のドアを開けたまま、私の答えを待っていた。 待たれることに、胸が痛くなった。 急かされるのではなく、選ばせられている。 だからこそ、自分の本音から逃げられなかった。 「……途中まで」 私がそう言うと、蓮はただうなずいた。 車内は雨音だけがしていた。 フロントガラスを流れる水滴が、街の灯りを滲ませている。赤信号で止まるたび、沈黙が少しずつ濃くなった。 私は膝の上で指を組んだ。 左手の薬指には、結婚指輪がある。 それを隠すつもりはなかった。蓮も見ているはずだった。 それでも彼は、何も言わなかった。 「帰りたい?」 静かな声だった。 「帰らなきゃ、とは思ってる」 「帰りたいかは聞いてない」 私は答えられなかった。 信号が青に変わったのに、蓮はすぐには車を出さなかった。 「美咲」 また、名前。 「そういう顔、昔から隠すの下手だった」 「どんな顔」 聞き返した自分の声が震えていることに、私は気づいていた。 蓮は少しだけこちらを向いた。 「誰かに見つけてほしい顔」 胸の奥が熱くなった。 恥ずかしさなのか、怒りなのか、期待なのか、自分でもわからない感情が込み上げる。 「やめて」 小さく言った。 「本当にやめてほしいなら、やめる」 蓮の手が、ハンドルから離れた。 触れられたわけではない。 ただ、その気配だけで、私は息を止めた。 「でも、まだ帰りたくない顔してる」 否定しなければならなかった。 私は妻で、彼は元彼で、この夜は間違っている。 なのに、間違っているとわかるほど、心のどこかが静かに目を覚ましていく。 夫に見せない顔。 見せる必要がないと思っていた顔。 もう誰にも見せることはないと、しまい込んでいた顔。 それを蓮は、十七年ぶりの夜に、まるで昨日まで知っていたみたいに見抜いた。 「旦那に、そんな顔見せたことある?」 私は唇を噛んだ。 「……ない」 声にした瞬間、何かが決定的に変わった。 蓮は私の手に触れた。 強く握るのではなく、逃げようと思えばすぐ逃げられるくらいの触れ方だった。 だから私は、逃げなかった。 「ないなら」 蓮の声が、雨音に混じった。 「今夜だけ、俺に見せて」 私は、帰れるはずだった。 断れるはずだった。 夫の顔を思い出し、指輪を見て、ここで終わりにすることもできた。 それでも、蓮の手を振りほどかなかった。 流されたのではない。 誰かのせいにできるほど、私は子どもではなかった。 自分が何を望んでいるのか、もうわかってしまっていた。 「……今夜だけ」 そう言ったのは、私だった。 蓮はすぐに動かなかった。 私の言葉が本心かどうかを確かめるように、指先だけでそっと手の甲を撫でた。 その慎重さに、胸がさらに苦しくなった。 欲しかったのは、乱暴に奪われることではなかった。 私が隠していたものを見つけられて、それでも汚いもののように扱われないことだった。 女として見られること。 名前で呼ばれること。 寂しかったのだと、言葉にしなくてもわかってもらえること。 車が静かに走り出した。 どこへ向かっているのか、私は聞かなかった。 聞かなくても、もう引き返せないことを知っていた。 窓の外で、雨に濡れた街灯が流れていく。 私はその光を見つめながら、胸の奥で長く眠っていた自分が、ゆっくりと目を開けるのを感じていた。 翌朝、雨は止んでいた。 洗面台の鏡の前で、私は少し乱れた髪を指で整えた。 口紅は落ちていた。目元には眠れなかった夜の色が残っていた。 それでも、鏡の中の私は、不思議とみっともなくはなかった。 妻の顔ではなかった。 母でも、仕事をする大人でも、家の中で穏やかに笑う女でもなかった。 そこにいたのは、誰かに見つけられてしまった私だった。 夫に見せない顔。 ずっと忘れていた顔。 彼だけが覚えていて、彼だけが引き出した顔。 スマートフォンが震えた。 画面には、蓮の名前があった。 短いメッセージだった。 『無事に帰れた?』 私はしばらく、その文字を見つめた。 返信すれば、また何かが始まってしまう。 返信しなければ、昨夜のことは一度きりの雨の夜として閉じられる。 わかっていた。 それなのに、指はゆっくりと画面に触れていた。 『帰れたよ』 そこまで打って、少し迷った。 そして、もう一行だけ足した。 『でも、まだ少し、帰ってきてない気がする』 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で何かが甘く痛んだ。 私は鏡の中の自分をもう一度見た。 夫が知らない顔をした私が、そこにいた。
2026/05/10 22:42:45(OslooN98)
第2話 夫の隣で、元彼からの返信を待っていた
送信ボタンを押したあと、私はしばらくスマートフォンを伏せられなかった。 『でも、まだ少し、帰ってきてない気がする』 自分で打った文字なのに、画面の中に残ったそれは、私のものではないように見えた。 こんなことを送る女だっただろうか。 夫が起きてくる前の洗面所で、私はスマートフォンを握ったまま、鏡の中の自分を見ていた。 髪は整えた。口紅も塗り直した。ブラウスの襟元もいつもの位置に戻した。 それなのに、どこかが戻っていなかった。 昨夜、蓮に名前を呼ばれたときの声が、まだ耳の奥に残っている。 低くて、急かさなくて、それなのに逃げ道の真ん中に立っているような声。 私は蛇口をひねり、冷たい水で指先を濡らした。 薬指の指輪が、朝の光を小さく跳ね返した。 結婚して十二年。毎朝見ているはずのそれが、今日だけ少し重く見えた。 寝室のドアが開く音がした。 「おはよう」 夫の声だった。 私はスマートフォンの画面を伏せて、いつもの顔を作った。 「おはよう」 「昨日、遅かったんだね」 夫は寝癖のついた髪を片手で押さえながら、キッチンへ向かった。 怒っている様子はなかった。疑っている様子もなかった。 その普通さに、私は少しだけ救われ、同じくらい少しだけ傷ついた。 「久しぶりだったから、話が長くなっちゃって」 「楽しかった?」 「うん」 「よかったね」 夫は冷蔵庫を開け、牛乳を取り出した。 何も知らない横顔。 それを見ていると、胸の奥に小さな罪悪感が広がる。けれど、その罪悪感の隙間から、昨夜の記憶が指先のように入り込んでくる。 蓮の目。 私の名前を呼ぶ声。 「帰りたいかは聞いてない」と言ったときの静かな強さ。 思い出すだけで、呼吸の位置が少し変わった。 「今日、買い物行く?」 夫が言った。 「え?」 「午後。洗剤なくなりそうだったから」 「あ、うん。行こうか」 何でもない会話。 何でもない土曜日。 この家の中では、私はいつも通り妻だった。 なのに、スマートフォンが震えるのを待っている自分がいた。 朝食を作りながらも、テーブルを拭きながらも、夫のシャツを洗濯機に入れながらも、私は耳の奥で通知音を探していた。 来ない方がいい。 そう思った。 来なければ、昨夜は本当に一度きりになる。 雨のせいにして、懐かしさのせいにして、少し飲みすぎたせいにして、胸の奥にしまい込める。 でも、来てほしかった。 その矛盾が、私を一番苦しめた。 夫がリビングでテレビをつけた。 朝の情報番組の明るい声が流れる。天気予報。週末の行楽地。高速道路の渋滞。 世界はあまりにも普通で、私だけが昨夜の雨の中に取り残されているみたいだった。 スマートフォンが震えた。 指先が、勝手に反応した。 夫に気づかれないように画面を見る。 蓮だった。 『帰ってきてないなら、まだ無理に戻らなくていい』 たった一行。 それだけで、胸の奥にしまい込もうとしていたものが、また静かにほどけた。 私は返信画面を開いた。 何度も文字を打っては消した。 『昨日のことは忘れて』 違う。 忘れてほしいわけではない。 『もう会わない方がいい』 それも違う。 会わない方がいいとは思う。でも、会いたくないわけではない。 『あんなこと、言うべきじゃなかった』 これも違う。 本当は、言ってしまって少し楽になっていた。 私は画面を閉じた。 返信できないまま、スマートフォンをバッグの中にしまう。 「どうしたの?」 夫がテレビから目を離さずに聞いた。 「何が?」 「ぼんやりしてる」 「ちょっと眠いだけ」 「昨日、飲みすぎた?」 「そんなに飲んでないよ」 夫はそれ以上聞かなかった。 聞かれないことに安堵して、同時に、どうしようもなく寂しくなった。 蓮なら、そこで終わらせなかったかもしれない。 「眠い顔じゃない」と言ったかもしれない。 「何を隠してる?」と聞いたかもしれない。 そんなことを考えてしまう自分が、もう十分に危うかった。 午後、夫と買い物に出た。 スーパーの通路を並んで歩き、洗剤と卵とヨーグルトをカゴに入れる。夫は特売のコーヒーを見つけて、少し得意そうに私を呼んだ。 「これ、安いよ」 「ほんとだ」 私は笑った。 きっと自然に笑えていたと思う。 夫の隣は安心だった。 長く暮らしてきた人の匂いがした。靴の選び方も、レジで小銭を探す癖も、車のキーを右ポケットに入れるところも、私は全部知っている。 その安心を、嫌いになったわけではない。 ただ、安心だけでは触れられない場所が、私の中にまだ残っていた。 蓮はそこを見てしまった。 そして私は、見られたことを嫌だと思えなかった。 帰宅して、買ったものを片づける。 夫はソファに座り、スマートフォンでニュースを見ていた。 私はキッチンの隅でバッグから自分のスマートフォンを取り出した。 蓮から、もう一通来ていた。 『返事を急かすつもりはない』 その下に、少し間を置くように次の文が続いていた。 『でも、昨夜の顔をなかったことにはしない』 息が止まった。 昨夜の顔。 夫には見せない顔。 見せるつもりもなかった顔。 蓮は、それを軽く扱わなかった。 一夜の出来事として消そうともしなかった。 私はキッチンのカウンターに手をついた。 胸の奥が、苦しいほど静かに震えていた。 「美咲」 夫の声がして、私は肩を揺らした。 「なに?」 「今日の夜、何食べる?」 普通の質問。 けれど、名前を呼ばれたことに、一瞬だけ反応してしまった。 夫の声の中の「美咲」と、蓮の声の中の「美咲」は、まるで違っていた。 夫のそれは、家の中の呼び名だった。 蓮のそれは、私自身を見つける声だった。 「簡単なのでいい?」 「うん。なんでも」 「じゃあ、鍋にしようか」 「いいね」 会話は続く。 日常は崩れない。 だからこそ、私の中だけがひどく乱れていることを、誰にも知られなかった。 夜、夫がお風呂に入っている間に、私は寝室へ行った。 カーテンを閉め、ベッドの端に座る。 スマートフォンを開く。 蓮のメッセージが、そこにあった。 私はようやく返信を打った。 『なかったことにした方がいいと思う』 送る前に、しばらく画面を見つめた。 そして、その下に続けてしまった。 『でも、そうしたいと思えない』 送信した瞬間、顔が熱くなった。 自分の本音を、また彼に渡してしまった。 すぐに既読がついた。 蓮からの返信は短かった。 『会って話す?』 心臓が強く鳴った。 私は夫の気配を探した。 浴室の水音が聞こえる。 「だめ」 声には出さず、口の中だけでそう言った。 だめだ。 会えば、また戻れなくなる。 昨夜のことを終わらせるためなら、会う必要なんてない。むしろ会わない方がいい。大人なら、それくらいわかっている。 でも、私は大人だからこそ、言い訳の作り方も知っていた。 終わらせるために会う。 ちゃんと話すために会う。 一度だけ、区切りをつけるために会う。 いくらでも理由は作れた。 本当の理由は、ひとつしかなかったのに。 『少しだけなら』 私はそう打った。 第1話の夜と同じ言葉だと気づいて、指が止まった。 少しだけ。 その言葉は、いつも自分をだますために使っている。 少しだけ飲む。 少しだけ話す。 少しだけ近づく。 でも本当は、少しだけで済まないことを、私はもう知っていた。 蓮から場所が送られてきた。 駅から少し離れた、川沿いの小さなカフェだった。 明日の夕方。 人目がないわけではない。密室でもない。逃げようと思えば逃げられる場所。 そういう場所を選ぶところが、蓮らしかった。 無理に引きずり込まない。 けれど、私が自分で足を向ける余白を残す。 その余白が、ずるいと思った。 浴室のドアが開く音がした。 私はスマートフォンを閉じ、枕の下に滑り込ませた。 夫が寝室に入ってくる。 「明日、夕方ちょっと出るね」 自分でも驚くほど、自然な声だった。 「友達?」 「うん。少しだけ」 「わかった」 夫はそれ以上、何も聞かなかった。 その夜、夫は私の隣で眠った。 穏やかな寝息が、暗い部屋の中にゆっくりと落ちていく。 私は天井を見つめていた。 隣に夫がいる。 けれど、頭の中では蓮の声がしていた。 無理に戻らなくていい。 昨夜の顔をなかったことにはしない。 私は目を閉じた。 終わらせに行く。 そう自分に言い聞かせた。 けれど、胸の奥では別の声がしていた。 もう一度、あの目で見られたい。 もう一度、名前を呼ばれたい。 もう一度、夫に見せない顔を見抜かれたい。 翌日の夕方、私は鏡の前で長く迷った。 派手に見えない服。 でも、何も期待していないようには見えない服。 その加減を探している自分に気づき、思わず苦く笑った。 終わらせに行く女が、こんなに襟元の形を気にするだろうか。 口紅を塗り、少しだけ指で押さえる。 髪を耳にかけ、すぐに戻す。 私は何をしているのだろう。 答えはわかっていた。 夫に「少し出てくるね」と言った声は、昨夜よりずっと落ち着いていた。 「気をつけて」 「うん」 玄関の扉を閉める。 その瞬間、家の中の空気が背中から離れた。 私は深く息を吸った。 夕方の風は少し冷たく、頬に触れるだけで、昨夜の雨を思い出させた。 終わらせに行く。 何度もそう言い聞かせながら、駅へ向かった。 けれど改札を抜けたとき、スマートフォンが震えた。 蓮からだった。 『待ってる』 たった四文字。 それだけで、足元が少し頼りなくなった。 私はスマートフォンを胸元に押し当てるように持った。 終わらせるためではない。 本当はもう、気づいていた。 私は、終わった夜の続きを確かめに行くのだ。 妻の顔をして家を出たはずなのに。 蓮の待つ場所へ近づくたび、私の中で、あの夜の顔がまた目を覚ましていった。
26/05/10 22:47
(OslooN98)
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