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1:淫獣達の艶かしき戯れ24
投稿者:
彩未
◆sPqX4xP/g6
徹の講演活動は次第に活発になった。
地方への講演が月に複数回入った。 東北や近畿ならば飛行機で日帰りが可能だ。 が、北海道や九州での連続講演となると2~3泊を要した。 講演の内容は全て性愛に関するものだった。 徹は加奈子との性交や性愛教での性交を通じて「異性の肉体や異性との性交を讃美する思想」を全国に広めていた。 性愛教のような違法運営は賛同しかねるが「性愛の快楽を謳歌する」という教義自体は徹は大いに賛同した。 明治から昭和にかけてわが国に根づいた「性欲のタブー視」の撤廃を目的として講演活動を始めたのだった。 人間の三大欲求「睡眠欲」「食欲」「性欲」の内、前者二者は公的に堂々と話題にできる。 が、「性欲」のみ私的な部分でしか話題にできないのがわが国の文化だ。 「美味しいものを食べたい」がために食文化は発展した。 これは国籍や時代や性別を問わず大いに研究され語られてきた。 一方「性交で気持ちよくなりたい」がために性文化が発展してきた。 が、これは秘密裏に研究され裏で陰で受け継がれてきた。 いずれも全人類にとって大いに興味がある内容でありながら何故その扱いに関してこれほどまでに差異が生じるのか。 徹はその疑問を講演活動を通じて全国民に投げ掛けていた。 「性欲をタブー視せず、自己の性欲に素直に向き合い、不自然に抑制せず大いに性愛の快楽を愉しむべき」というのが徹の持論だった。 三大欲求の目的は、生物学的には……、 睡眠で心身を休める、 食事で空腹を満たし栄養補給する、 性交で性欲を満たし生殖を図る、 ……とされる。 が、人間の文化はその目的に付加価値をつけた。 睡眠では心身を休めるために「より快適な環境」を追究してきた。 安心できる静かな部屋、快適な寝具(ベッドや布団やパジャマ)等々。 親や縫いぐるみがいないと眠れないという幼児を別とすれば、一般的には複数の者達で寝るより一人で寝る方が快適な睡眠が得られる。 食事の場合はどうか。 本来の食事の目的に加え、より美味しく食べること追究されてきた。 より食べ易く、より美味しくなるよう、食材や調理法が研究された。 より美味しく感じられる食事環境や食事マナーも研究された。 一人で黙々と食べる方が良ければ環境やマナーは問題にされない。 他の動物と異なり、人間は複数の者達でお喋りしながら食事する方がより美味しく感じられると考えた。 では、性交はどうか。 三大欲求の目的の中で、「睡眠で心身を休める」「食事で空腹を満たし栄養補給する」の2つは人間にとって必要不可欠の要素ばかりだ。 が、「性交で性欲を満たし生殖を図る」は実践しなくても命に別状はない。 必要不可欠な要素ではない。 時に「性欲を満たす」必要は感じても「生殖を図る」必要など一生感じない者も数多い。 そこで人間は性交の目的を生殖ではなく快楽に重点を置いた。 性交でいかに強く深い快楽を得るかを追究してきた。 性交は一人ではできない。 心通わせた特定の異性と秘密裏に行う性交が最も快楽を得られる。 心が通わない強姦や乱交や自慰で得られる快楽より強く深い。 そのために秘密裡に安心して安全に性交できる環境が求められる。 より強烈な快楽、より濃厚な快楽を得る為の体位が追究された。 但し、2人の性交を決して公にしてはならない。 性交する男女の姿態は極めて卑猥で淫らだ。 他人には見せられない。 性交する男女の悶声は極めて破廉恥だ。 他人には聞かせられない。 と言って、理性で統率された生真面目な性交では快楽は半減する。 心通わせた信頼できる2人の間だからこそ、卑猥で淫らで破廉恥な性交を繰り広げることができるのだ。 卑猥で淫らで破廉恥な性交に興奮して深い快楽が得られるのだ。 一般に、性愛や性交による快楽が睡眠や食事による快楽のように堂々と公的に語られないのは、このような理由があるからだろう。 性愛や性交の快楽には食事と違って卑猥さや猥褻さが伴うのだ。
2021/03/20 06:58:53(rhMdEHLB)
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彩未
◆sPqX4xP/g6
徹は講演『性交論』で倉田百三の評論を引いて持論を展開した。
倉田は評論『地上の男女』において次のように述べている。 ******************** 肉体的要求を悪と見做す思想が排斥され、近代教養人は官能の要求に価値を認めた。 男女の肉体の交わりは「夫婦の間に於いてのみ正しい」とされた。 道徳は社会制度の規定により生ずるものではない。 たとえ「夫婦間の肉交のみが正しい」としても、夫婦という社会制度を根拠とせず夫婦関係に特在する事情によるものでなければならない。 また「恋愛する男女の肉交は正しい」とする思想。 私はこの思想に対して疑問をもつ。 他にも一般に肉交を是認する思想がある。 「肉交は人間が与えられた生理的要求」だからだという。 が、これは道徳とは何の関係もない単なる事実に過ぎない。 愛が最高潮に達する時に肉交へ到達する。 即ち相愛の男女の心と心の抱合を象徴する肉交は善いのだという。 私も嘗つてはこの思想を信じた。 だが今はこの思想を疑う。 私はそのことを考えると羞恥と後悔の念に駆られる。 肉交は愛の必然的結果ではない。 愛と別物、いや愛の反対だ。 愛を「善」と見るならば肉交は「悪」だ。 互いに愛する男女は決して肉交してはならない。 以下に理由を挙げる。 第一にキリスト教的の霊と肉との調和とは別事だ。 聖書に拠れば性欲は悪い。 故にその象徴なる肉交は悪い。 即ちキリストによれば性欲と肉交とは初めより終わりまで肉である。 その何処にも霊はない。 第二に肉交は愛の象徴ではない。 肉交は何等かの精神的要素の象徴には相違ない。 私は肉交が性欲の象徴であることは認めるが、愛の象徴ではない。 肉交は愛の要求からは起きずに性欲の要求から行われる。 愛とは何の本質的関係もない。 肉交の要求が生ずるときは愛の緩んでいる時だ。 2人が真に愛している時は感謝と涙がある筈で、肉交にはならない。 肉交している最中は2人は少しも互いに愛してはいない。 肉交の快楽の頂点にある時、2人は全く何の関係もなく互いを忘れて快楽に溺れている。 この状態は「心と心との抱擁の証明」だと誤って認識される。 第三に肉交のエクスタシイは愛のエクスタシイではない。 肉交はキリスト教的には肉のみの楽欲に過ぎない。 そのエクスタシイは男女が互いに相手の運命を忘れて自分の快楽だけに溺れる時に起こる。 相手の運命と自分の運命との抱合ではなく相手を「物」として扱う時に生じるエクスタシイである。 ある人は言う、「強姦や売春の場合はそうかも知れないが、全ての肉交がそうではない。 相愛の男女の肉交は愛のエクスタシイだ」と。 2人の逢引した時の情景を想像して見よ。 2人は純粋に愛している間は性欲は起きない。 起きるのは感謝と涙だ。 が、愛が緩んだ時には愛と性欲が混じって働く。その愛は不純だ。 次第に愛が退き性欲が中心となる。 そして肉交に及びクライマックスになる。その時は全く愛はない。 例えば相手の躰の具合が悪い時でも肉交の要求は起こる。 もし肉交の途中で相手の生命に危険を及ぼすような出来事が生じても、肉交は終わりまで達しなくてはなかなかやめられぬだろう。 このように相手の運命を考えない状態が果たして愛のエクスタシイと言えるか。 第四に肉交したために愛がインニッヒ(心底からのもの)になるとは限らない。 肉交の愛とは別事だ。 ある人は言う、「肉交したる2人は以前よりインニッヒになる」と。 必ずしもそうではない。 肉交したために却って離れる愛人もある。 肉交せねばインニッヒになれないことはない。 私はいかなる場合でも(夫婦の間でも相愛の間でも)肉交は絶対に悪だと信じる。 「愛のない肉交はしたくない」とは屡々聞く言葉だ。 が、愛があっても肉交してはいけない。 仏者が女人を禁じたのは肉交そのものが悪だからだ。 ある人は「それでは子孫が出来ない、人類は絶滅するではないか」と言う。 しかしたとえ人類が絶滅しても悪は悪だ。 殺生が悪であるのと同じ理屈だ。 私は人生に2つの害悪があると思う。 一つは肉交しなければ子供が出来ないこと、他の一つは殺生しなければ生きていけないことだ。 異性に対して性欲を起こす時は、相手を祝福していない。 故に罪だと言える。 喰おうとする時の心境に似ている。 その証拠には性欲を興奮させるものは全て呪いを含む感情のみだ。 性欲を起こす時とはどういう時か。 「この女は処女だ、私は聖らかなものを涜すのだ、しかも私は昨夜は他の女と寝たのに」 こう思う時、性欲は興奮する。 「この女は美しい玩具だ、男に身を任せるために生まれて来た」 こう思う時性欲は興奮する。 「じたばたしてももう私のものだ」 強姦するものは女が抵抗するだけ性欲が興奮する。 猫がネズミを食う前に弄ぶ時の心境と、男が自分の犯す女を肉交する前に色々と弄ぶ心境は似ている。 すべての征服の意識は性欲を興奮させる。 屡々手淫する人は出来るだけ残酷な肉交を思い浮かべなければ性欲の興奮を感じなくなるという。 これに反して異性の運命を想う時の心には性欲は生じ難い。 美しい感情にはそれを証明する感謝がある筈だ。 性欲には感謝が伴わない。 躰の交わりの直後に抱き合って泣くこともある。 けれどそれは性欲への感謝ではない。 純潔な男女がある異常な鋭い接触をしたために感動して泣くのだ。 肉交に慣れた男女が何の感動もなく、互いに辱めたことも感ぜず、自堕落な心で寝入るさまを想像して見よ。 殺人と肉交と甚だ酷似した罪悪だ。 しかも肉交は殺人よりもっと質の悪い罪と言える。 互いに恋する男女は肉交を避けるべきだ。 恋の本質は性欲ではない。 とはいえ、人間の恋には必ず性欲が働く。 それは何故なのか、私には分からない。 たとえ恋に性欲が伴うことはやむを得ないことであっても、性欲を「善」と見てはならない。 或る人は言う、「性欲を無視しては男女間における恋愛の要求をみたすことが出来ない」と。 生まれてきた子供は限りなく美しく愛すべきものだ が、善からぬ原因によって生を享けたが故にその素質の中に既に不幸と邪淫の種を植えられているのではないか。 ******************** 以上が、倉田の『地上の男女』の大要だった。 倉田が生きた時代は「性交」を「肉交」と称した。 「性交」は「性器を交える」の意味だが、「肉交」は「肉体を交える」だ。 「肉交」の方が生々しい。
21/03/20 07:00
(rhMdEHLB)
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彩未
◆sPqX4xP/g6
徹は倉田百三の『地上の男女』に於ける以上の見解に対して次のような評論を展開した。
倉田百三がこの評論を発表したのは1918年1月15日。 26歳の時だ。 この評論に於ける倉田の主張には様々な論理的な矛盾がある。 性欲や性交を「悪」だと激しく断罪しつつ、この評論を「私は性欲を肯定する。 だがそれは性欲をそのままに「善」と見る方法によってではなく、一度「悪」として斥け、その後にその「悪」にも存在の理由を許す宗教の道に依ってだ」なる不可解な文で結ぶ。 旧制一高で首席を争うほど頭脳明晰であった倉田が何故このような論理的矛盾に満ちた評論を書いたのか。 これには事情がある。 実は倉田自身は同世代の学生に比べて性欲が人一倍強い男だった。 その葛藤の一端は有名な『出家とその弟子』や友人への書簡『女性の諸問題』にも見られる。 結核性痔瘻にも苦しんだが性の欲望の強さにも苦しめられた。 後年には女性関係で世間から批判を受けたこともある。 その倉田が一高時代の校友会雑誌に『異性の内に自己を見出さんとする心』を投稿した。 そこには次のようにある。 ******************** 私の心には昔より異性を慕い求めるやるせない憧れが潜んでいた。 私は性の問題に想い至ればすぐに胸が躍った。 私は男性の霊肉を引っ下げて直ちに女性の霊肉と合一するとき、最も崇高なる宗教は成立するであろうと思った。 真の宗教はSEXの中に潜んでいる。 私は女よ、女よと思った。 恋は女性の霊肉に日参せんとする心である。 その魂の秘祠に順礼せんとする心である。 ああ前進の顛動するような肉のたのしみよ! 涙のこぼるるほどなる魂のよろこびよ! まことにSEXの中には驚くべき神秘が潜んでいる。 ******************** このような内容が上級生達の怒りを買った。 いわゆる「鉄拳制裁」の対象となった。 倉田はその時の苦々しい思いとその後の幾許かの反省をもとに『地上の男女』を書いた。 この評論について 「純潔なる青年が漫然たる霊肉一致の思想によって純潔を失うことを防ぐ為に書いた」 「一度失った純潔は永久に還らざるが故に精緻を欠く思索にも関わらず急いでこれを書いた」 ……と付記している。 従って本人もその論理の甘さや一貫性の乏しさは自覚していたものと見える。 倉田百三が所属した旧制第一高等学校はナンバースクールのトップとして全国の精鋭達が集うエリート集団の学校だった。 寮生活の中で上級生達から様々な思想や流儀を仕込まれた。 「鉄拳制裁」「ロー勉」「ストーム」「デカンショ節」など独特の用語はここが発祥地だ。 同級生達と切磋琢磨(というマウントの取り合いを)しつつ大正教養主義の波に乗って観念的な理想論を演説し投稿した。 一方、18~19世紀にかけてパリの学生がグリセットを弄んだように、一高の学生の中にも遊郭通いする者は多かった。 高尚な理想生活と卑俗な現実生活とのギャップに悩んだ。 倉田が書いた 「ああ前進の顛動するような肉のたのしみよ!」 「涙のこぼるるほどなる魂のよろこびよ!」 「まことにSEXの中には驚くべき神秘が潜んでいる」 に対しては、多くの一高生が本音としては同感しただろうし、自分が言えない本音をよくぞ明言してくれたと快哉を叫んだことだろう。 一方で、我々は全国屈指のエリート集団だという意識がある。 我々は高尚なる理想生活を追求するエリート学生だという意識がある。 倉田のこのような文章が一高の学生紀要たる「校友会雑誌」に掲載されたことで、「高尚なる理想生活を目指す一高生」の品位が崩れる、悩み迷う一般学生を低俗な方向へ誘導しかねない、という批判が理想主義の学生達の間に沸き起こった。 その結果が「鉄拳制裁」だった。 ……とする一般的な見方に加え、私は次の点も指摘したい。 倉田の書いた文章が単なる「個人の本音」に過ぎないならば「鉄拳制裁」には至らなかったろう。 強靭な理性で性欲を抑制し(自慰すら許さず)、国家発展の為に学問一筋へと突き進む一高生も(僅かであろうが)存在した筈だ。 彼らは倉田の文章を読んでも何とも思わない。 「自分とは無関係」、「低俗な学生がいるものだ」程度の感覚で無視するだろう。 「鉄拳制裁」を加えようとした学生達は、倉田と同様、低俗とされる性欲の誘惑に日々負け続け、しかし他の学生に嘲笑されたくないから相談もできずに一人で悩む、という現実があったからこそ、倉田の文章を読んで強い羞恥心と自己嫌悪を催したのではないか。 「校友会雑誌」に掲載されたことで一高の学生達が個々に秘密にしておきたかった「共通の本音」を無断で暴露された感覚に陥ったのではないか。 それに対する復讐が「鉄拳制裁」になったのではないかと思われる。 観念的な理想論は当時の一高生を初めとして大正教養主義が蔓延した時代に流行したスタイルであった。 これらは向学心旺盛な若者の勉学意欲を掻き立てる思想だった。 その先導者の代表格が倉田百三だ。 否、倉田百三に限らない。 一高の校長を務めた新渡戸稲造の影響を受けた学生達、即ち阿部次郎、和辻哲郎、安倍能成、河合栄次郎、天野貞祐、武者小路実篤、亀井勝一郎など、同様の理想論や観念論を展開した者は枚挙に暇がない。 「人はどう生きるか」、「青春をいかに生きるか」、「人生論」、「青春論」、「恋愛論」なる標題の書物が彼らの著書を中心に多数出版された。 それが当時の旧制高校の学生達の向学心を煽った。 従って、この時代の日本に、「性愛論」、「性欲論」、「いかに性交すべきか」なる標題の書物は存在しない。 誰もが興味をもつ内容であったにも拘らず、教養主義の流行で性愛は隠蔽されたのである。 日本は古来、奔放な性愛を描き肯定してきた国だ。 『古事記』、『今昔物語集』、『古今著聞集』、『宇治拾遺物語』、『日本霊異記』、『我身に辿る姫君』等、性愛を描いた文学は数多く見られる。 宗教や祭事にも性愛や生殖を楽しみ祝う文化としてわが国の土壌に根づいている。 これが変化したのはキリスト教が輸入されたためだ。 キリスト教思想はイエス降誕譚に見られるように処女信仰が厚い。 露骨な性欲や性交を忌避する。 明治以降の欧米化政策でこれが更に強化され(西欧諸国と対等に付き合う為には日本人の奔放な性意識を矯正する必要があった)、性愛を謳歌し表現することは恥だとする文化が根づいてきた。 性欲や性交に対する興味が薄らいだ訳ではない。 これを公の場に晒すことに対して強い羞恥心を感ずるようになったのだ。 性愛や性交を堂々と愉しみ表現する者を次第に強く非難し取り締まる習慣が生じてきた。 日本人が西欧人と対等な立場に立つには、日本人一人ひとりが本能や感情に任せた行動を慎み、精神の向上に努め高尚な人格たるを目指さなければならない。 特に、国家の将来を背負い、国民の指導者を期待されるエリート即ち旧制高校の学生達への期待は、一層強くなった。 教養主義はそのような時代の波に合致するものだった。
21/03/20 07:01
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彩未
◆sPqX4xP/g6
以下『地上の男女』に於ける見解を少し検討してみよう。
まず「人生には2つの害悪がある、一つは人は肉交なしに生まれぬこと、他の一つは人は殺生なしには生きられぬこと」という倉田の主張から……。 この主張の根拠は、仏教では殺生を禁じ、キリスト教では生殖目的でない性交を禁ずるところにある。 倉田はこの評論で宗教を引き合いに出し、それを根拠として述べた。 私はこれ(宗教的教義)の検討の前に、あるがままの自然界をまず観察することにしたい。 自然界の動植物は、各々自己が属する種族の生殖増殖の為に環境に適応し、必要な養分を摂取する。 その際、例えば、草の葉を飛蝗が捕食し、飛蝗が蟷螂を捕食し、蟷螂を小鳥が捕食し、小鳥を鷹が捕食し、……といった具合に異種生物を捕食し捕食される食物連鎖がある。 水中でも同様に、植物プランクトンを動物プランクトンが捕食し、動物プランクトンを鰯が捕食し、鰯を烏賊が捕食し、烏賊を海驢が捕食し、海驢を鯱が捕食し、……という具合の繋がりがある。 彼らは自己が属する種族の生殖増殖のために必要な分を捕食する。 他の種族を己の種族に帰属させて生命を繋いでいく。 生命を繋ぐ目的以外に他の生物の生命を彼らが脅かすことはない。 自らの生命を脅かす行為に遭遇した場合は応戦するが……。 例えば、縄張りを荒らされたり自分を捕食せんとして攻撃を仕掛けてきたりなど。 同様に人間も生命を繋ぐ為に他の動植物を捕食する。 人間も自然界の一つの生物である以上、これ自体は何ら問題視される行為ではない。 問題視すべきは、人間の生命維持に不必要な殺生だ。 例えば、象牙や毛皮を作って儲けるために象やミンクや兎や狸などを殺害すること、あるいは遊び半分で昆虫や蛙や猫などを虐待すること、等々。 人間の生活の安全性を脅かす(あるいは不快を齎す)ものとして、蚊や蠅や蜂やゴキブリを駆除すること、野犬や野生猿や野生熊を捕獲することなども(異論はあるだろうが)場合によってはやむを得まい。 「殺生」を倉田がどう定義するかは明記されていない。 が、自然界をあるがままに観察すれば、人間が生きるために他の動植物の生命を自らの生命維持に繋ぐ糧とすることは、「害悪」とは言えまい。 それでも「害悪」と断じてこれを禁ずるならば人類は絶滅する。 人類を絶滅に追い込むような宗教に何の価値があるか。 そのような「似非仏教」こそ人類にとって「害悪」ではないか。 また「人は肉交なしに生まれぬこと」を「害悪」とする倉田の主張は「生殖目的でない性交を禁ずる」キリスト教の教義に反する。 キリスト教は「子供を作る為の性交」を禁じていない。 旧約聖書の創世記第1章で神は「産めよ増えよ地に満てよ」と述べ、第2章では「人は父母を離れてその妻に会い2人は一体となるべし」と述べている。 子供を作るための性交を禁ずるならば人類は絶滅する。 人類を絶滅に追い込むような宗教に何の価値があるか。 そのような「似非キリスト教」こそ人類にとって「害悪」だ。
21/03/20 07:02
(rhMdEHLB)
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彩未
◆sPqX4xP/g6
『地上の男女』では倉田は「殺生」に関しては詳論していない。
従って本稿でもこれについては省く。 ここでは「肉交」に論点を絞る。 上記の通り倉田は「(誤解した)キリスト教の教義」を根拠として性交を「悪」と見做す。 これがこの評論の論理性を破壊させる原因だ。 倉田は(互いに愛していない男女は無論)「互いに愛する男女は決して肉交してはならない」と主張する。 理由は次の4点だ。 1.キリスト教的の霊と肉との調和とは別だ。聖書では「性欲は悪い」からその象徴である「肉交も悪い」。 2.肉交は愛の象徴ではなく愛とは本質的に関係のない性欲の象徴だ。愛は涙と感謝だが、肉交している間にはこれがない。 3.愛のエクスタシーと肉交のエクスタシーは同一ではない。後者は相手の運命を忘れて自己の快楽だけに溺れる肉の楽欲に過ぎない。 4.肉交したからといって愛が深くなるわけではない。肉交の愛とは別だ。肉交は絶対に悪である。 まず1.について。 既述した通り、聖書を誤解曲解しているため論点から除外する。 聖書には性欲を悪とする記述はどこにもない。 悪とされるのは、生殖の目的なしに性欲を抱く場合、生殖の目的なしに性交する場合だ。 前者としては例えばマタイ伝第5章に「色情をもって女を見るものは心のうちに姦淫したるなり」とある。 後者としては創世記第38章のオナンの物語に例がある。 また、4.については、肉交により2人が離れることもある、といった程度の根拠の薄い主張のため、やはり論点に挙げる価値をもっていない。 以下、2.と3.について少し私の考えを述べたい。 2.と3.に於いて倉田は「愛」という用語を持ち出す。 近代教養人のいう「愛が最高潮に達する時に肉交へ到達する、即ち相愛の男女の心と心の抱合を象徴する肉交は善い」を受けて、倉田は「肉交は愛の必然的結果ではない」と返す。 倉田は「愛」の定義を明確に述べていない。 が、倉田は言う……、 「2人は純粋に愛している間は涙と感謝がある筈で性欲は起きない」 「相手の運命を考えない状態が果たして愛のエクスタシイと言えるか」 「異性の運命を想う時の心には性欲は生じ難い、美しい感情にはそれを証明する感謝がある筈だ」 「異性に対して性欲を起こす時は、相手を祝福していない」等々。 これらの文章から推察するに、倉田が言う「愛」とは、「相手の運命を気遣い、相手に感謝し相手を祝福する心」と読み取れる。 これに対し、性欲は「自己の快楽のみに溺れた楽欲」即ち「自分の為の性的快楽=エクスタシーの追求」であると読み取れる。 即ち2.と3.の要点は「肉交は相手を気遣わない自己の性的快楽を目的とするから悪だ」ということになる。 ここで注意すべき点は、キリスト教の教義を(故意か本意か分からないが)誤解曲解して性欲や肉交を絶対悪と捉える倉田は、肉交なるものを「相手の気持ちや境遇を無視して自分だけの快楽を目的とする行為」と限定していることだ。 倉田は、「ある人は言う、強姦や売春の場合はそうかも知れないが、全ての肉交がそうではない、と」なる見解があるにも拘らず、最初から肉交を「女を犯す行為=強姦」と断定する。 肉交と強姦に差異があるのか否かでその後の議論が変わってくる。 強姦は己の性的快楽の為に「暴力で」異性の躰を利用する行為だ。 売春は己の性的快楽の為に「金銭で」異性の躰を利用する行為だ。 これらと、「愛し合う夫婦」や「恋い慕い合う男女」がなす「肉交」を同義とする倉田の定義は、普遍性をもちうるか。 ここで、議論の前提として「肉交=強姦」という定義を認めるならば倉田の主張は明快そのものだ。 確かに現代のフェミニストの中には「SEXは暴力だ」と公言する者もいる。 よほど不幸な性交を経験したものと思われる。 だが、一般的に愛し合う夫婦間または恋い慕い合う男女間に於ける性交の全てを強姦だとする定義は、現実に即したものではない。 鳥や野生動物のオスでさえ求愛した上でメスと交尾する。 いきなりメスに襲い掛かるオスはほとんどいない。 「強姦や売春としての肉交」が「愛し合う男女あるいは恋い慕い合う男女がする肉交とは異なる」なる主張ならば特に違和感はないが。 しかし、倉田は強姦や売春でなくても肉交は悪だという。 その理由を倉田は次のように述べる。 「例えば相手の躰の具合が悪い時でも肉交の要求は起こる。もし肉交の途中で相手の生命に危険を及ぼすような出来事が生じても、肉交は終わりまで達しなくてはなかなかやめられぬだろう」と。 性欲の強い倉田はそうであったかも知れない。 が、これこそ「強姦する者」の視点そのものではないか。 仮に、腹痛を訴えて苦しむ愛妻の乳房に欲情し、嫌がる妻を無理やり押し倒して性交を無理強いする夫がいたとすれば、これは妻の気持ちを無視した「強姦」に他ならない。 騎乗位で恋人に跨る女の下で男が脳梗塞を起こして意識を失ったにも拘らず自分が絶頂するまで腰振りを止められない女がいたとすれば、これは恋人の運命を無視した「強姦」(または「殺人未遂」)に他ならない。 愛し合う夫婦や恋い慕い合う恋人達にこのような行為があるか。 「強姦でない肉交」の例としては、全く的外れとしか言えない。 さらに倉田は、 「この女は処女だ、私は聖らかなものを涜すのだ、しかも私は昨夜は他の女と寝たのに」 「この女は美しい玩具だ、男に身を任せるために生まれて来た」と思う時、あるいは、強姦しようとする女が抵抗する時、性欲が興奮する」 と書く。 加えて、 「屡々手淫する人は出来るだけ残酷な肉交を思い浮かべなければ性欲の興奮を感じなくなる」 と書く。 「性欲の興奮を伴わなければ肉交が生じない」ことは事実だ。 だが、女を涜すことを目的とする肉交、女を玩具扱いにする肉交、抵抗する女を強姦する肉交などは、いずれも(最後のものに至っては倉田自身が断定している通り)やはり「強姦」であり、愛し合う夫婦や恋い慕い合う男女に見られる行為ではない。 従って「強姦でない肉交」の例として挙げるにはこれも不適切だ。 また「異性に対して性欲を起こす時は、喰おうとする時の心境に似ている。性欲を興奮させるものは全て呪いを含む感情のみだ」に至っては論理性の欠片もない。 「性欲を興奮させるもの」が「呪いを含む感情のみ」とはいかなる意味か。 「呪い」などという中世ヨーロッパにおける魔術妖術的な用語を持ち出してまでして倉田は読者に何を主張したかったのか。 不思議に思うのは、このような非論理的な強弁を駆使してまでして何故、倉田は男女の性交というものをかくまで忌み嫌い、唾棄すべき行為として扱き下ろすのか、だ。 倉田は『地上の男女』を「純潔なる青年が霊肉一致の思想によって純潔を失うことを防ぐため」「急いで書いた」という。 「肉交=純潔を失う行為」と定義するならば上の主張は明快だ。 が、この場合、「純潔を失うことを防ぐため=肉交を防ぐため」と同義となり、「急いで書」く理由にはなっていない。 上の定義が誤りならば、「肉交」で「純潔を失う」理由が何なのか、それを何故防ぐ必要があるのかを、倉田は明確にする責任がある。 要するに倉田は明確な理由や根拠なしに、議論の大前提として「性交=悪」だと断定しているに過ぎない。
21/03/20 07:03
(rhMdEHLB)
投稿者:
彩未
◆sPqX4xP/g6
人一倍強い性欲をもつ倉田は、その現実と教養主義の影響を受けた観念的な理想論とのギャップに悩んだ。
倉田に限らない。 後に作家となった武者小路実篤や経済学者となった矢内原忠雄、哲学者となった三木清など、一高出身のエリート学生達は皆、高尚な人格者なる理想と性欲に支配される俗物なる現実との狭間で悩み苦しんだ。 何故、これらの調和を追求せず「ギャップ」として「悩んだ」のか? 性欲や性交を「悪」と捉えたからではないか? エリート学生達にこの誤った観念を植え付けたものこそが「キリスト教」と「教養主義」だった。 「教養主義」に則った多くの学者や作家達が、未来の国家を担う学生達に向けて、(自分達が悩み抑制できなかった)性欲の疼きや性交の悦びに溺れさせないための啓蒙書を多数著した。 その中で、男女の恋愛をいかに純粋に保つか、肉欲に溺れずにいかに互いに高め合うかなどが熱心に説かれた。 と同時に、性欲や性交に対して低俗で悪だとするレッテルを貼りつけた。 向学心に燃え、人格向上を追求する学生にとっては、理想論としては「異性とは、互いの思慕と尊敬に基づき、互いに精神を向上させ合う恭しい存在」だ。 が、その一方、現実論としては「異性とは、甘い快楽を約束する肉体の結合へと誘惑する魅力的な存在」だった。 異性は崇拝すべき神であると同時に魅惑的な悪魔でもあった。 先に私はまず自然界の動植物を観察することから考察を始めた。 先入観や固定観念を排除するためだ。 「キリスト教」や「教養主義」は自然界の動植物には存在しない。 これらは人間が知恵や知識を身に着けた後に人間の手で創造されたものだ。 そこに束縛されて悩み苦しむならば、一度、自然界に目を向けてみる姿勢も必要なのではないか。 しかし倉田は自然界に目を向けることなく「キリスト教」と「教養主義」に浸って青年時代を過ごし、悩み苦しんだ。 倉田は一高中退後、元級友に充てた手紙の中で、 「私は時々私の女を見る目を純にするために、妻を持とうかと思う」 「性はエゴイズムの最も顕著な動物的要求」 「肉体の交わりは、愛に反する心持ち、動物が共食いするのと似たエゴイスチッシュなもの」 「愛の表現として性交を認めることはできない」 「この頃私には性の要求が堪えがたきほど強くなった」 などと書いている。 当時、倉田には想いを寄せる女性がいた。 が、その女性の肉体との交わりを罪と捉えていた。 理想論として「女性は崇拝すべき神」だからだ。 倉田は『地上の男女』において、「肉交は人間の自然に与えられた生理的要求だから」、「恋愛する男女の肉交は正しい」とする一般論を否定する。 「生理的要求」は「単なる事実」で「道徳とは何の関係もない」と。 自然界全般に見られる「事実」を根拠とせず、人間の創造物たる「道徳」を根拠とするならば、倉田にはその姿勢を肯定すべき理由をまず明示する責任が生ずる。 その姿勢に説得力をもたせられないからこそ、倉田の主張には論理の甘さや一貫性の乏しさが生じ、延いては単なる強弁に陥ることになるのだ。 倉田は「人間の恋には必ず性欲が働く、それは何故であるか、私には分からない」と書く。 自然界における「事実」として人間がそのように作られている以上、人間が考えて分かることではあるまい。 「私には分からない」と書く羽目になるのは寧ろ当然だろう。 分かるか分からないではなく「事実」を受け入れることが大切だ。 その「事実」を受け入れたくないと主張する倉田の頑な姿勢こそ、私には「分からない」。 頑なに性欲や性交に「悪」のレッテルを貼って拒否するからこそ、非論理的な意味不明の文章を書く羽目に陥るのだ。 「生まれたる子は限りなく美しく愛すべきものであるけれども、善からぬ原因によりて生を享けたものがなる故にその素質の中に既に不幸と邪淫の種を植えられている」なる結語に至っては嘲笑ものだ。 このような支離滅裂な文を書くくらいならば、 「肉交という親の邪淫の行為により生まれたる子供はやはり邪淫に満ちた存在だ」 と堂々と主張する方が、論理的にはよほど筋が通っている! 交尾や性交による生殖で生命が誕生し、子々孫々繁栄していく。 地球上で太古から脈々と受け継がれてきた生命の営みだ。 交尾や性交には快楽が伴う。 その快楽をより強く深くするために、動物も人間も互いに心通わせられる信頼できる異性を求めるのではないか。 そうして得た異性と性交して強く深い快楽に溺れるからこそ新たな生命が誕生するのではないか。 この「事実」を倉田は認知できない。 倉田の主張によれば、全ての動物の子供が「邪淫の種を植えられている」という。 魚の子供、蛙の子供、鳥の子供、犬の子供、全てにだ。 自然界の「事実」を無視して何の根拠もなくこう強弁する倉田の思想にこそ邪淫の種が植えられてはいまいか。 倉田は『地上の男女』において「肉交の快楽の頂点にある時、2人は全く何の関係もなく互いを忘れて快楽に溺れている」と言う。 自然界の動物を含め、生殖行為の最中は皆その快楽に夢中になる。 特に快楽の絶頂を迎える瞬間は恍惚として快楽に酔い痴れる。 「何の関係もなく」は兎も角、「互いを忘れ」た状態に陥る。 これは自然界の動物にも見られる「事実」だ。 この状態を倉田は「相手を「物」として扱う時に生じるエクスタシイ」と書く。 この解釈も誤りとは言えない。 性交では相手の躰を使いつつも自分の躰に対して快楽を得る。 これも全ての動物に共通する自然界の「事実」だからこれを「悪」だと断定する理由はない。 「悪」となるのは快楽を感じるのが自分の躰だけとなる場合だ。 即ち、相手が快楽を感じていない、または苦痛を感じている場合だ。 強姦や強制性交や性的虐待などがこれに相当する。 倉田は「屡々手淫する人は出来るだけ残酷な肉交を思い浮かべなければ性欲の興奮を感じなくなる」と書く。 性欲の興奮が悪ならば手淫も悪となる。 ここで何故、突然「手淫」が持ち出されたのか不可解だが、それは兎も角、異性の躰を要する「肉交」と自分の躰のみを要する「手淫」とは全く質が異なる。 「肉交」が「悪」であるのは「肉交の頂点にある時」、2人が「互いを忘れている」からではなかったか。 倉田が言う「愛」即ち「相手の運命を気遣い、相手に感謝し相手を祝福する心」がないからではなかったか。 「手淫」は相手を要しない。 従って「(相手に対する)愛」は存在しようがない。 「自分に対する愛」ならば存在するかも知れないが……。 単に「相手に対する愛」がないから「悪」だとするならば、食事や着替えや排泄や病気療養など、列挙しきれぬくらいのあらゆる行為が「相手に対する愛」がないという廉で「悪」となる。 その意味では倉田の主張は何の説得力もない。 一般的に、愛し合う夫婦や恋い慕い合う男女は、互いの肉体を求め合うことで互いに快楽が得られるからこそ性交を行うのではないか。 互いに異性の肉体に性的な魅力を感じ興奮するからこそ、性交が可能になるのであり、互いに快楽が得られるのではないか。 その結果、子供が生まれるのである。 私は、このように自然界が作られていることを「悪」どころかその美しさを心底から讃美したく思う。 実際「子供を作る行為が気持ちいい」とは何と素晴らしいことか。 生命の持続や繁栄に繋がるものは気持ちよく、生命の危険や終焉に繋がるものは苦しい、……よくできた自然の摂理だ。 生命誕生の際に母親が何故苦しむことになるのかは不思議だが。
21/03/20 07:04
(rhMdEHLB)
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