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1:『無題』二十
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
ジャイアンは出張中だった。 京都方面への出張だと言うので、お土産に八ツ橋を買ってきてほしい、と頼んでおいた。 八ツ橋と言っても、あの堅い煎餅のようなものでは無く、生八ツ橋だ。 めったに食べられないからか、あたしはあれが大好きなのだ。 一人で横たわるベットは、やけに大きく感じられる。 いや、一人ではないか。 そんなことを考えながら、ウトウトとまどろみ始める。 涼しくなったので、容易に深い眠りに落ちた。 枕元に置いた、携帯の着信音が、あたしの頭に響いた。 電話を取った。通話ボタンを押した。 小さな携帯の穴から、健ちゃんの声が聞こえた。 「もしもし…夢ちゃん…?」 タン、タン、タン、と聞き慣れた、靴音がする。 「健ちゃ…どこにいるの!?今、どこ…。ねぇ、いきなりいなくなるから、あたし…」 寝起きだというのに、芝生の上のゴムホースみたいに、言葉が勢い良く溢れだした。 そんなあたしとは反対に、健ちゃんの声は異様に落ち着きはらっていた。 「夢ちゃん、俺の人生って、きっとすっごくついてないんだと思うんだ。本当、ろくなことなかった。俺には少し、ちょっと、過酷すぎたな。」 「でもね、そう悪くもなかったよ。夢ちゃんの家の隣に住めた。夢ちゃんがいてくれた。だから、俺は生まれ変わっても、また俺になりたいって思える。本当だよ?何度だってお父さんに奪われてやろうじゃないか、って思える。何度だって、お母さんに失望されてやろうじゃないか、って思える。」 「夢ちゃんが、傘さしてくれたから、真っ暗だったけど、傘さしてくれたから、頭の上に青空をくれたから、俺は強いフリして生きてこれた。」 タン、タン、タン、聞き慣れた靴音。 階段を…登る音? 携帯を耳にあてたまま、あたしは駆け出した。 裸足のまま、玄関を飛び出した。 マンションの屋上に向かって飛ぶように走った。 十代もまだ半ばの少年が自分の人生について語ってしまうなんて、普通ではない。 一気に階段を駆け上がった。 不思議と、苦しさはまったく感じなかった。 凄く急いでいるのに、まるで水の底を歩いているみたいに、なかなか前に進めなかった。 それでも、走って、走って、ようやく屋上の扉を開いた。 もうすぐ、夜が明けるのだろう。 曇った空が、うっすら明るくなってきていた。 クリーム色の、貯水槽の上に、白い長袖のTシャツを着た、ほっそりとした人影があった。 電話越しに話かけてきた。 「来てくれたんだ?よく、わかったね。ここだって。」 と、落ち着いた、静かな声で言った。 あたしは、 「健ちゃん…戻ろうよ、うち。あたし、唐揚げ作るから。食べようよ、一緒に。」 と泣き出しそうな声で返した。 健ちゃんは、ゆっくりと首を横に振った。 笑った。 そして、言った。 「弱くて、ごめんね」 それから、前に倒れた。 ゆっくりと。 携帯は耳に当てたままだった。 あたしの耳に、声が聞こえた。電話越しに、声が聞こえた。 言葉にならない、もちろん文字になんかならない、声。悲鳴のような、叫びのような、意味を持たない、声。 ドン、と物凄い音がした。 地面に叩きつけられ、あっけなく壊れる。 電話が切れた。 足が勝手に動いた。柵に駆けよって、下を見た。 健ちゃんの手足が変な方を向いていた。 真っ赤な美しい血が、花が咲くように、いっぱい広がっていった。 顔はこっちを向いていた。 その目はあたしを見ていた。 あたしは、背に火がついたタヌキみたいに、すごい早さで、さっき駆け上がってきた階段を、一気に駆け降りた。 まだ誰も来てなかった。 コンクリートに仰向けに倒れた健ちゃんの体は、まだ生きていた。 ビクビクと動いていた。 その目は、まだ、空を見ていた。 頭が壊れても、背中が壊れても、その目は、まだ空を見つめていた。 健ちゃんが見ている空は、曇った灰色の空だった。 あたしは、空を見上げて、祈った。叫んだ。 神さまでも、なんでもいい、健ちゃんに、青空を、見せてあげてほしかった。 だって、まだ、生きてる。 お願いだから、ちょっとでいいから、見せてあげたかった。健ちゃんの空は、ずっと曇ってばっかりだったから。 最後に、見せてあげたかった。 だって、まだ、生きてる。 何度も何度もお願いしたのに、空は晴れなかった。 そして、健ちゃんは動かなくなった。 その目はもう、何も見てなかった。 空の灰色が映って、その目は、曇りはじめた。 たくさんの美しい赤い血が、ゆるゆると広がって、乾いたコンクリートに静かに染みをつくっていった。 真っ赤な花が咲いた。 そして、いろいろが散らばっていた。 健ちゃんのズボンのポケットから、何か紙のようなものがはみ出していた。 ひっぱりだしてみると、それは、原稿用紙だった。 汚い、へたくそな文字が並んでいた。 「20才になった、けん ちゃんへ はずかしくて、あんまり言えないけど、わたしは、けんちゃんをすきです。 けんちゃんと、ずっとずっと、いっしょにいたいです。 夢子」 馬鹿みたいな文章だ。 本当に、馬鹿みたいだ。 稚拙で たどたどしい、あの頃からずっと変わらない、あたしの気持ち。 健ちゃんは、二十歳になれなかった。大人にはなれなかった。 だって、曇り空が、大人が、健ちゃん自身が、健ちゃんを殺した。 あたしが殺した。 あの六月の雨降りの日、貯水槽の上で、膝を抱えて一人で泣いていた健ちゃんに、あたしは「我慢しろ、頑張れ」なんて、言った。 どれ程の痛みなのか、知りもしないで。 誰かが遠くで悲鳴を上げている。誰かが遠くで叫んでいる。 聞こえない。聞きたくない。何も。 健ちゃんが死んだ。 知らない、分からない、知りたくもない。 やっぱり、神さまなんかいないじゃないか。 助けてなんてくれなかった。 世界で一番、愛しい人が、死んだ。 今更、曇の隙間から、青空がのぞいた。 いつの間にか、あたし達の周りにはたくさんの人が集まってきていた。 死んだ健ちゃんを、新種のゴキブリでも見るような目でみている。 ちょっと好奇心と不快感と野次馬根性。 知らない人ばかりだった。 みんな、同じ顔をしていた。 健ちゃんの目は開いたままだった。長いまつげに、血が付いて、固まっていた。 薄いその胸に耳を当てた。 からっぽだった。 柔らかくて、白くて、傷だらけの美しい魂は、もうそこには無かった。 もう、健ちゃんと言葉を交せない。 もう、シャンプーの香りのする髪に触れることはできない。 もう、二人で砂場で遊ぶことはない。 もう、宿題を写させてくれない。 もう、二人であの桜並木を歩けない。 もう、あの貯水槽の上で一緒に歌えない。 もう、バレンタインの夜を一緒に過ごせない。 もう、一緒に夏祭りに行けない。 もう、あの壁を叩いても叩き返してくれない。 もう、可愛いって言ってくれない。 もう、握った手には温もりがない。 そういうことだ。 散らばったいろいろを、かき集めて、抱いた。 口を開くと、耳をつんざくような叫び声が溢れ出た。 自分の意識とは全く関係なく、勝手に溢れ出た。 止まらない。 頭がおかしくなりそうだ。 世界が、終わった、と思った。 たとえ、空が晴れたって、星空が美しかったって、そんなことはもうどうでもいい。 色を失った。 世界は、終わった。
2007/09/07 22:50:19(ojqnH1dh)
投稿者:
ゆう
絶望が深いほど鮮やかに蘇る輝かしい過去
決して空想だけでは描けない心の描写 書くことで自分を追い詰めていないか心配です。
07/09/08 14:47
(LYTFgJAn)
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
ゆう さん、書き込みありがとうございます。
今回の話(十九、二十)は、いろいろ難しく、遅くなってしまいました。。 ご心配、ありがとうございます。 でも、これは全て、私の空想、つくった話、なので大丈夫です。 頭の中に浮かんだ映像を、文字にしてるので。 全部ただの妄想ですね。 まだまだ頑張るので、最後まで読んで頂けたら嬉しいです。 ありがとうございました。
07/09/08 16:32
(TTYC3stA)
投稿者:
たぁ
今回はだぃぶ涙が出ました(:_;)せつないといぅか…かなしいといぅか…。前からなんとなく想像してたのに…。そぅいえば、わたしもこれがフィクションなのかノンフィクションなのか前から気になってました(>_<)妄想だと言っていましたが妄想なのにこの表現力はすばらしいと思います!!尊敬します!話は変わりますがわたしは健ちゃんには生きててほしかった…(´Д`)ジャイアンも好きだけど夢ちゃんには健ちゃんと最終的にはくっついてほしかったので残念です(:_;)うぅ…
07/09/08 17:34
(yAqrwQzx)
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
たぁ さん、ありがとうございます。
本当に大まかな流れだけは、始めから決めていたので。。 人それぞれ感想はあると思いますが。。 でも、とにかく、最後まで読んで頂けたら嬉しいです。 ありがとうございました。
07/09/09 00:25
(Cvmmcde/)
投稿者:
'A`)
(´;ω;`)ウゥッ
ひさしBURIにレスさせてもらいます。 ブワッと何とも言いがたい感情が胸に広がりました。 喩えるなら、飲み込むつもりの無い飴玉を誤って飲み込んで しまった時の…うわっあぶねっ!みたいな。 喩えには失敗しましたが、とにかく良質な味わいを感じました。 そろそろ物語が終わってしまいそうだ、喪失感・・・
07/09/11 19:10
(amwpSyWi)
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