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1:『無題』十六(後編)
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
雨は降り続いていた。あたしたちの青空は、どこへいったのだろう。 薄暗い室内。 健ちゃんの家のソファの上には、グレーのクッションがある。そのクッションに、まるで何か新種の植物のように、包丁が生えている。 部屋の隅に、健ちゃんのお父さんがいた。他には誰もいなかった。放心状態で壁にもたれ、座り込んでいる。何か独りでブツブツ言っている。 張りつめた空気。 お父さんを追い詰めた健ちゃんは、体をガタガタと震わすお父さんの喉笛に、包丁の歯をあてがった。スッと手前に引けば、すっぱり切れて、深紅の花がパッと咲くであろう。 でも、そうはしなかった。 健ちゃんは、相変わらず、かつてない程の激しい表情を見せていた。 だけれど、しっかりとした足取りで、サッと後退した。そして、包丁を握った左手の拳を、ソファの上に載っかっていたグレーのクッションを殴るように、おもいっきり叩き付けた。フカフカのクッションに、包丁が深々と刺さった。 未だに雨粒が、窓硝子を叩いている。 健ちゃんは、殆ど半裸だったあたしに服を着せ、手首を掴んで立たせてくれた。露になった胸など、あたしの身体には、目もくれなかった。 それから、トランクス一枚だった自身も服を着た。いつの間にか、トランクスの突っ張りはおさまっていた。 そのままあたしの腕を引っ張って、玄関へと駆け出した。 家に引きずり込まれたときに、健ちゃんのお父さんの爪が食い込んで出来た手首の傷を、健ちゃんの手が覆い隠した。 …あのドアを出て、二人で逃げよう… こんな状態なのに、ちゃんと財布と傘を持って出ようとするころが、いかにも健ちゃんらしい。 前を行く健ちゃんの、細くて綺麗な指が、玄関のドアノブに触れる。 雨音が更に激しさを増す。 雷が轟く。 それでも飛び出した。 バケツをひっくり返したような大雨だ。 前が見えない。 大粒の、強い雨が、容赦なく身体中につき刺さる。 刺さって弾ける。 そういえば、菊乃は、最近お肌がシャワーを弾かなくなった、と嘆いていた。弾かなくなったということは…水が染み込んでいるのだろうか。おぉ、そりゃ、確にやばいな。 一本の傘の中に、二人で身を寄せ、走った。 遠くへ、出来るだけ、遠くへ。 二人の頬を伝うは、雨なのか、涙なのか、もはや分からない。 雨がひどすぎて、傘をさしてもずぶ濡れになる。 頭上で揺れる傘の内側には、それは美しい青空があった。 それは、かつて、クリーム色の貯水槽の上で泣いていた健ちゃんに、あたしが差しかけた、あの傘だった。 あの頃よりも、身体はずっと大きくなった。 美しい、まがいものの青空。 あの頃と、いろいろな事が変わった。だけれど、何も変わってなかった。 やっぱり、雨ばっかり降っていた。 駅に着いたら、人がごったがえしていた。この雷雨で、電車が止まっているという。 雨が、雷が、あたし達をこの町から逃がさなかった。 行く手を阻み、脅しつけ、閉じ込めて、あたし達の内側にある丸くてやわらかいものを、削り盗り、少しずつ、確実に、奪う。 仕方がないので、駅の向こう側まで行った。 向こう側には、若干さびれた歓楽街がある。性風俗店が多く、ひいき目に見ても、治安が良いとは言えないので、学校では、近寄らないように指導されていた。 そろそろ、この歓楽街の、「昼」がやってくる時間だろう。 ネオンの明かりが、灯りはじめる。 雨に濡れ、とにかく寒かったし、疲れていた。肉体的にも、精神的にも。 それから、今になって、殴られた顔や、あちこちが痛くなってきた。 そんなあたしの様子を察したのだろう、健ちゃんは、とりあえず休める所を探してくれている。 こんな歓楽街に、洒落たカフェなどあるはずもなく、結局、小さなラブホテルに入った。 ホテルの従業員らしいオヤジは、明らかに未成年のあたしたちにも、普通に部屋のキーを渡した。金を払ってくれるなら、なんでもいいらしい。 小さな、煙草くさいエレベーターで、三階までいった。 健ちゃんとラブホテルに来る日が訪れるなんて、思ってもみなかった。 部屋に着いた。ホテル自体の外見同様、お世辞にも、綺麗、とは言えなかった。きっと古いホテルなのだろう。 部屋に入って、鍵を掛けて、健ちゃんと二人きりになると、あたしは何だかほっとして、そのままペタンと床に座り込んでしまった。 身体中の力が抜けて落ちてしまった。 今日はいろいろな事がありすぎた。 健ちゃんは、そんなあたしを抱き上げた。世に言う、お姫さま抱っこというやつだ。 あたしは、 「お、重いから。いいよ、自分で歩けるよ…」 と言ったのだけれど、 健ちゃんは、 「全然重たくないよ。大丈夫。俺だって、ちゃんと男の子なんだから」 などと言って、優しく笑んだ。 ベットまで運んでくれた。 ベットには、いかにも、というような、ど派手で下品なピンクのシーツがかかっていた。 ベットの隣には、大きな鏡があった。 健ちゃんには、少しでも可愛いと思ってほしかった。健ちゃんには、少しでも可愛いあたしを見せたかった。 だから、ブローしたり、化粧をしたりしたのだ。 鏡に写るあたしの顔は、とにかくひどかった。 頬には大きな痣がある、口の端には血が固まっている、目の上は腫れて、おかしな具合に変色している。 世にも珍しい深海魚、といったところだ。 健ちゃんはバスルームからタオルを持ってきた。雨に濡れて、凍える程であったので、身体を拭くためだ。 バスルーム自体は、使える雰囲気ではないと言う。 健ちゃんは、おとなしくベットに座っているあたしの髪や身体を、タオルで拭き始めた。 あたしは、顔を見られたくなくて、隠すようにうつむいた。 健ちゃんはすぐに察してくれた。 温かい両の手であたしの顔を包んだ。 「女の子なのに…。痛かったね。ごめんね。」 …なんで健ちゃんがあやまるの… あたしの顔を、優しくさすりながら、言う。 「夢ちゃんは可愛いよ。きれいだよ。少なくとも、俺にとっては世界一だ。あ、ちなみに二番は『美女と野獣』のベルね。」 それでもあたしがピンクのシーツばかり見つめていると、健ちゃんは、ホテルのルームキーを手に取り、キーに付いている金具で、自身の頬を強く傷つけた。 真っ赤な血が伝う。 あたしが驚いて顔を上げると、 「ほら、これで一緒。おそろいだね」 そう言って笑う。可愛いえくぼを見せる。 それであたしもようやく笑った。 健ちゃんは、雨でびしょ濡れのあたしの服を脱がして、バスルームに干した。 ブラも、パンツも脱いだ。 健ちゃんも服を脱いで、裸になった。 明かりを落として、ベットに横になった。 あたしの身体を抱き締める健ちゃんの肌は、温かかった。ジーンと熱かった。 あたしは、健ちゃんのお父さんに、殴られたけれど、犯されてはいない。そのことを健ちゃんにきちんと説明しよう、と思っていたのだけれど、やめた。その必要がなかった。あたし達には、無意味なことだ。 もう雨音は聞こえない。聞こえるのかもしれないけれど、あたし達には聞こえなかった。 健ちゃんの右太股の内側、かなり性器に近い部分に、傷があった。傷で文字が書かれていた。下品で、屈辱的な文句が書かれていた。 何度も何度も傷をつけて、彫り込むように書いたようだ。 どんなに痛かったろう。 だけれど、あたしはそのことにも気付かぬふりをした。 彼のプライドを、守ってあげたかった。 同時に、これ以上、深く知るのが恐かった。もう、あたしの理解の域を越えていた。 そうやって、あたしはいつも逃げてばかりだった。 ベットの中でしっかりと抱き合った。薄い健ちゃんの胸に耳を当てがうと、トクントクンと音がした。健ちゃんの命の音がした。中にちゃんと、入っていた。 身体が、心が、満たされていく。 互いの手を握って、温かい涙を流した。 必死に生きようとした。 もし、はたから見たら、ラブホテルのベットの上で裸で抱き合うあたし達は、もう絶対にそういう風に見えるだろう。まったく最近の子は早いものだ、と。 でも実際、そういうことは全くない。 裸で抱き合うあたし達の間に、性的な興奮や、欲望、いやらしさは一切なかった。 男だ、女だ、という区別すら、もはやどうでもよいことだ。 そこにあるのは、傷だらけの二つの魂。 ただそれだけだった。 触れ合う度に、静かに震える。 身体の交わりなど、特に意味をなさないような気がした。 それは目的ではないのだから。 愛しているから交わるのだ。 交わるために愛するのではない。 健ちゃんの問題に、薄々は気付いていたけれど、だからどうということはなかった。 あたしは、それでもかまわなかった。 …かまわなかったのに。 雨が止んで、そのうち歓楽街には「昼」がやってきた。 ネオンの明かりが、街を「昼」にする。 あたし達は、息を潜めて隠れるように、ただただ静かに抱き合っていた。 雨上がりの夜空に、星は一つも無かった。
2007/07/31 19:45:34(3vLjJqfb)
投稿者:
ゆう
菊乃さん ありがとう。
貴女の作品は心の奥まで染み入って来ます。 傷付いた時に見上げる空は暗くて高くて果てしなく遠かった… そんな事を思い出してしまいました。
07/08/01 06:39
(bcR92gGA)
投稿者:
'A`)
傘のくだり良いね。
傷文字の発想は只々すごい、その才能にS・H・I・T!!!(嫉妬) ここまでずっと読んでこの回はマジで震えた 菊乃スゲイよ!!!!
07/08/01 11:46
(MoJbzKdI)
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
ゆう さん、いつもありがとうございます。
そう言って頂けると、とても嬉しいです。 私、もうすぐ二十歳なんですよ。(物凄く個人的な事で申し訳ないですが。。) でも、二十年生きたからって、大人になれるわけではないのですね。現に、中身はまだまだガキです… 中身が年齢に追い付けるように頑張ります。 また読みに来てくださいね。ありがとうございました。
07/08/01 11:50
(Py18btKg)
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
いつもありがとうございます。
激しいコメントに菊乃感激!!(笑) また期待してますwww
07/08/01 11:57
(Py18btKg)
投稿者:
女神の鬼
タメやんけ。凄いな
07/08/01 23:04
(/Kbg1p6y)
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