築60年くらいになるであろう古い5軒長屋で、初めての一人暮らしを始めました。風呂もトイレも台所も、どこもかしこも小汚ないですが、『住めば都』です。
5軒長屋といっても、2軒は空き家になっていて、僕の他に2組が暮らしています。一つが『秋山さん』という70歳くらいのおばさん。
もう一部屋に『安藤さん』という夫婦が暮らしています。住んで長いのが、二人のおばさんはとても仲がよく、玄関先で立ち話をしている姿をよく見掛けます。
先に仲良くしてくれたのは、秋山さんでした。孫のような年齢の僕が一人で暮らし始めたため、少し気を使ってくれるのです。
おかげで、その隣の安藤さんとも話をするようになります。秋山さんよりも5~6歳は若いと思われ、ずけずけと男のように話をして来ます。
それに、肌は黒く、東南アジア系の顔をしているので、まあ女性としての魅力も乏しい、ただのおばさんでした。
ところが、その安藤さんに『兄ちゃん、ちょっと来なよ。』と家に呼ばれたのがきっかけとなります。御主人と3人での食事に招かれたのです。
居心地が悪い中、食事を頂きました。正直、家で一人でカップラーメンでも食ってた方が楽です。
それでも、ちゃんと僕のために三人分の食事を作ってくれているのですから、感謝をしなくてはいけません。
その席で、『兄ちゃん、趣味なに?』と聞かれます。最近始めたばかりの『競馬です。』と答えました。
すると、『テレビで観るけど、馬綺麗よねぇ~?』と話を広げて来るのです。困りました。僕だって、そんなに知っている訳ではないのですから。
浅い知識ながら、騙し騙し答えて行きます。そして、『今度行く時、言ってよ。連れていってくれん?』と言われてしまいます。
おばさんは、根本的なことを知りませんでした。馬がいるのは競馬場。僕が行っているのは場外馬券場、馬など1頭もいないのです。
それでも少し考え、『中央競馬場は無理でも、地方競馬場なら車で1時間かぁ~。』とその時は思うのでした。
家に帰り、地方競馬場のことを調べました。おばさんが『連れていってくれ。』と、もしものことを考えてです。
知りませんでした。狙った競馬場はナイター競馬のため、始まるのは夕方の3時くらいなのです。朝からやってないのです。
ある時、そのことを伝えました。ところが、『兄ちゃんもそれ見に行くんやろ?乗せていってくれたらいいやん。』とあっさりと言われてしまいます。
日曜日のお昼前。家の前に車を停めると、安藤さんが現れました。ベージュ色の丈の長いトレンチ風のコートを着て出てきました。
黒い肌の色と東南アジア系の顔の作りがあるため、やはり女性としての魅力もあまり感じません。『なら、行こか?』とおっさんのような言葉遣いです。
すぐに高速を走らせました。社内では『おじさんに怒らない?』と聞いてみました。いくら年齢が離れているとはいえ、男に女房が付いていったのです。
やはり僕も、心のどこかに引っ掛かるものがありました。しかし、『私がか?』と大袈裟に言ってくるのです。
『私が兄ちゃんとデートするって、おっさんが怒るってか?やめなよ、やめな。もうそんなのはとっくに終わってるわ。アハハハ…。』と笑い飛ばされました。
更に、『なら、私といいことしにホテル行ってみるか?行っても、おっさん怒らんと思うぞ。』とタジタジにされてしまいました。
午後2時、競馬場に着きました。僕も、生で馬を見るのは初めてです。パドックに行ってみると、あまりの小ささに驚きます。
やはり、ここは地方の競馬場。大きな中央競馬とは違うのです。しばらくして、第1レースの馬達が現れました。
正直、あまり綺麗とは思いません。ただの馬なのです。しかし、安藤さんは違いました。『あれ、綺麗やなぁ~。』と少し感動しているようです。
『おばさんに馬を見せることが出来た。』と少し満足感に浸っていた頃、『兄ちゃん、競馬は買わんの?』と聞いて来ました。
新聞こそ手に持っていますが、馬券の予想などこれっぽっちもしてなかったのです。おばさんに、『競馬、買お買お。』と急かされ、ベンチに座ります。
新聞を広げて予想を始めると、『どれがいいん?』と聞かれます。名前も知らない地方の馬達です。分かるはずもありません。
困っていた僕に、『私、7番の買って。』と言ってきます。安藤さんには、7番が綺麗に見えたようです。
マークシートに7番が記入をされて行きます。3連単なので、いっぱい買う必要があり、大変です。
レースが始まりました。8頭立ての寂しいレースで、7番の馬も結構な人気をしています。3コーナーになり、7番がドンドン上がっていくのは分かりました。
しかし、まさか一着でゴールを駆け抜けるとは…。『勝った?勝ったの?』と盛んに僕に聞くおばさん。勝ち負けも分からないようです。ビギナーズラックとは恐ろしいものです。
なかなかの高配当がつき、換金に行くと、更に恐ろしいものを見ます。いろいろ塗って買ったため、当たり馬券が被っていたのです。
いきなり、2万円近い換金をしてしまうことになりました。更にレースを続けると、適度に当たりを出し、4万円近くの黒字を出していました。
おばさんに馬を見せるだけのはずが、帰るに帰れなくなってしまうのでした。
メインレースが近づいて来ました。メインだけあって、出走数も多いです。その頃になると、『これ、いいんじゃない?』と新聞を見て答える安藤さん。
たった数時間で、知らなかった競馬にも慣れたようです。
女性と競馬なんてしたことがありませんでした。ベンチに並んで、一つの新聞で一緒に予想をするのがこんなに楽しいとは。当たれば尚更です。
頭や肩が触れても、恥ずかしさよりも楽しさが勝ってしまいます。おかしなものです。魅力のないおばさんでも、少し気になり始めてしまうのですから。
馬券を買って、馬場に向かいました。トレンチコートを着た、東南アジア系の顔をしたおばさんと手を繋いでいました。
『男でも勝てない、男勝り。』と思っていた安藤さんの手を持って、僕がグイグイと引っ張って行くのです。数時間前では考えられないようなことです。
更に面白いのは、引っ張られる安藤さんが、少し女の顔をしているところ。いつも、あれだけ強く話をする方が、少ししおらしくなっているのです。
腰の高さくらいはある、鉄のバーにもたれ掛かりました。腕を掛けて、ここでメインレースを見るのです。さすがは地方競馬、メインでも客は少ないです。
隣で馬場を見ている『男勝り』と思っていた安藤さんがおとなしくなっていて、どこか小さく感じます。
寒いのか、疲れたのか、それとも男にグイグイと来られてしまったせいなのか。『さあ~、最後やで~。』と言って、その勢いで安藤さんの肩に手を回します。
少し勇気のいった行動でしたが、おとなしくなってしまった彼女を元気づけようという意図もあったのです。
しかし、相変わらずおとなしく、『疲れた~?』と言って、調子に乗って更に肩を強く引き寄せました。
『元気やわ!』と無理して答えた安藤さん。カラ元気なのも分かり、『いいねぇ。』と言って、彼女の頭を2回、僕の胸にボンポンと傾けさせたのです。
すると、安藤さんの手が、僕の腰に回りました。腰に回した手には力が入り、体温が伝わるほどに、身体を密着させて来るのです。
女性として魅力のないおばさんとの変な雰囲気を作ったまま、メインレースが行われました。レースは見事に大荒れになり、買った馬券は紙屑になります。
『最後やで。』と言って望んだメインレースでしたが、心地よさを感じてしまったのか、二人は最終レースまで買ってしまうのです。
最終レースも同じ場所で、同じような体勢で見ていました。安藤さんも、しおらしい女の姿をしていました。
だけに、『兄ちゃん、遅くなってもーたなぁ~。おっさん、怒るわ。アハハハ…。』と元気を取り戻した彼女に違和感を感じるのでした。