貯蓄もあったのでしょう。60歳の定年を迎えた父は、40年働いた会社を退職し、早々に隠居生活をすることを選びました。
最初は家でゴロゴロしていた父でしたが、やはり理想とは少し違っていたのでしょう。あまりの退屈さから、すぐに出歩き始めることとなります。
そんな父が見つけたのは、町内の老人会でした。もちろん年齢的にまだ入れないのですが、いつの間にか世話役をするようになっていたのです。
60歳の父ですが、御老人の集まりに入れば『兄ちゃん』です。きっと可愛がられ、居心地もよかったのでしょう。輪の中に入って行ったのです。
そこにもう一人、世話役の女性がいました。父よりも3歳年上の『西本さん』でした。母親が老人会に入っており、付き添いがてら世話役をしていたのです。
母と別れて10年、父に春が訪れました。何度も会ううちに、二人は急接近をするのです。
とにかく、父の顔が変わりました。退職してから、どこか死んだような顔をしていたのに、生気が出ていました。
昼間はほぼ家にいることはなくなり、夜も帰りが遅くなり、まれに帰ってこない日もありました。父もまだまだ男なんですね。
ところが。
会社から帰ると、父の様子がおかしい。左足には包帯やサポーターが派手に巻かれ、松葉杖が傍らに置いてありました。アキレス腱断裂、全治3ヶ月。
何年もまともな運動などしていないのに、老人会で張り切ってしまったのでしょう。もう3日後には手術、入院が決まっていました。
父の手術の日。会社にお願いをして、午後3時に切り上げさせてもらい、父の元に向かいました。病室に入ると、ベッドにはりつけの父。
そして、その隣に見知らぬ女性が見舞いに来ていました。西本さんでした。同じ町内に住んでいるのに、僕はこの時初めて会ったのでした。
『父にいい人がいる。』と分かっていたので、その女性がその人だと直感的に分かりました。細身の真面目そうな方です。
適当に話を済ませ、僕はすぐに帰ろうと準備をします。ところが、『お前、西本さん送ってあげろ。』と父が僕に言うのです。
同じ町内で帰る方角は同じですが、初対面で気まずいでしょ。『ああ、私はタクシーで帰るから。』と西本さんも一度は断りました。
でも結局は父に押しきられ、彼女を乗せて帰ることになりました。エレベーターに乗り、駐車場まで知らない女性に頑張って話し掛けたりします。
年上、見知らぬ女性、父の彼女、僕にとっては何重苦か分かりません。やはり、父の彼女というのが最大のネックでした。
車に乗り込むと、今度は西本さんの方が話し掛けてくれました。長く主婦をされていた方です。その辺の会話は慣れたものです。
真面目そうで、実はとても気さくな方でした。話しも弾み、お互いに笑い声も出たりします。僅か10分程度の道のりが、残念とも思います。
話しながら、西本さんの顔を見ました。まともに顔を見たのは初めてかも分かりません。『昔は絶対にモテただろうなぁ。』と思わせる顔の女性でした。
明らかに、美人顔をしています。スタイルもいいし、真面目そうだし、面白いし、40歳も年下の僕がいうのもなんですが、『いい女』です。
父が2週間の入院生活に入りました。必然的に、僕はこの間一人での生活となります。夜は外食で済ませるため、帰宅は遅いものになっていました。
10日くらい経った頃、玄関のチャイムが鳴りました。開けると、西本さんが立っています。今でも覚えていますが、なんかメチャクチャ嬉しかった。
『これ食べる~?』とお皿にサランラップが掛けられていて、中身は手作りの中華料理でした。彼氏の子供なので、少し気を使ってくれたのでしょう。
外食をしてお腹一杯なのに、『いいんですか?』などと笑顔で答え、いただきました。優しく、『チンして食べて。レンジある?』と言ってくれます。
ところが、『おばちゃん、しようか?』と言ってくれ、一度は断ったのですが、なんだかんだで家に入って来たのです。
玄関での立ち話とは訳が違いました。家の中に入って、玄関が閉じられると空間が変わりました。僕は落ち着かずに、テーブルにも座れない状態。
西本さんも、この出来てしまった変な雰囲気を感じているのか、手にお箸を握り締め、電子レンジとにらめっこをしています。
きっと、『しまったぁ。帰ればよかった~。』と思っているに違いありません。そのくらい、僕が変な緊張感をかもし出していたと思います。
『チンッ!』とレンジが鳴ると、少し緊張感が和み、お互いにどこか『やれやれ。』といった感じになりました。
『出来たよ~。食べて。』と和んだ彼女が、変な雰囲気を打ち消すように笑顔で言ってくれます。僕もようやくとテーブルにつくことが出来ました。
てっきり、それで帰るものだと思っていた僕。しかし、西本さんは『お口に合うかしら?』と言いながら、冷蔵庫からお茶を出し始めたのです。
お茶を僕に出すと、『どお?』と言って僕の対面に腰掛けました。『うまぁ~。』と言ってあげると、『おばちゃん、中華料理得意なんよ。』と自慢気でした。
対面に女性を見ながら食事をするなんて、何年ぶりだったでしょうか。付き合っていた彼女よりも、母の記憶の方が甦ったかも知れません。
西本さんはほんと出来た方でした。食事をする僕を、退屈させないように世間話を交えて、楽しませてくれていました。
主婦ならではのテクニックでしょうか。言いはしませんが、『この人、すごいなぁ。』と思いながら、食事を済ませました。
洗い物を済ませると、『おばちゃん、帰るよ~。』と言われました。覚悟をしていたとは言え、どこか寂しい気持ちです。
別れ際に、『お父さんに「お大事に。」にって言っといて。』と言われ、父の彼女だったのを思い出しました。しかし、どこか割り切れない気持ちでした。