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継母

投稿者: ◆V6rElOo9Z6
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2015/09/25 22:31:08 (fCuldXzt)
私と今の母とは血が繋がっていない。
私を産んでくれた母親は、私が2才のときに進行性のガンで亡くなった。
40年も昔のことなので、今とは違い家庭用のビデオカメラなんてない時代のことだから、母の顔は写真でしか見たことがないが、写真の中の母はとても優しそうな顔をしていた。
父と母の間にはなかなか子供に恵まれなかったようで、私が生まれたのは結婚してから6年目、父が32才、母は父より年上で35才の時だった。
母が亡くなってから父が再婚するまでの間、私は父の実家に預けられたがその頃のとはほとんど記憶にない。

父が再婚したのは私が5才の時、相手の女性もやはりご主人と死別して子供はいなかった。
それが今の母だ。
継母とはいえ私に対してとても優しい女性で、父との間に子供ができなかったこともあり、私のことを本当の息子のように可愛がって育ててくれた。
他人が見れば美人とまでは言わないだろうが、私にはとてもきれいに思えたのも優しくしてくれていたからだと思う。

母は父よりも一回り若く、再婚した時は25才だった。
21才で最初の結婚をしたが、たった1年で前のご主人が他界してしまい、その後父の働いていた銀行で臨時雇いの事務員として働いていた時に、当時の上司の取り持ちもあって再婚したと聞いている。
しかし25才で再婚した途端に5才の子持ちとは、今から考えれば若かった母が少しか可哀想な気もするが、以来3人家族で仲良く幸せに生活していた。

銀行と言うのは転勤の多い職場で、父も3年おきぐらいに転勤させられていた。
小学生くらいまでは父が転勤になると家族も一緒に色んなところに行ったが、中学生くらいになると私の学校の問題で父だけが単身赴任するようになった。
中学までは公立の学校だったので、私は一緒に行ってもいいと思ったが、首都圏に家を買ったことと、私の将来を考えると首都圏の学校に通ったほうが後々のためだと言って、父は自分から単身赴任を選んだ。

中学生と言うのは、色々なことで複雑な年頃だ。
一番つらかったのは、小学生の頃は友達たちから母のことを言われたことがなかったが、それが中学生になると、「お前のお母さんは何で若いの?」と聞かれ、訳を話すと「お前って血の繋がってない女と一緒に住んでるんだ」とからかわれる。
陰ではもっと酷いというか下品なことまで言われていたのも知っていた。

悔しい思いをして家に帰っても、笑顔で迎えてくれる母に「友達にお母さんのことでからかわれた」とはとても言えない。
母は私のことを本当の息子のように思っているから遠慮と言うものがなく、私が裸に近い時でも平気で部屋に入ってくるし、裸同然の姿で俺の目の前を平気うろちょろしていた。
そんな母を本当は好きなのに、なんだか素直になれなくて辛く当たったり、ちょっとした親子喧嘩の時は母が傷つくような酷いことも言った。
母が涙を浮かべた悲しそうな目をしていたのを今でも覚えている。

性に関する興味や知識を持ったのも、中学生になったばかりの頃だった。
男性ならば覚えがあると思うが、女性の体のことに興味を持つと「好き嫌い」や「良い悪い」とは別に、身近にいる母親や姉妹の下着や生理用品のことが気になって悪戯した経験があると思う。
私も同様で、一番身近にいる母の下着や体のことが気になり始め、母の留守中洗濯物入れにあったこっそりと下着を広げてみたり、匂いを嗅いだり舐めてみたりした。

小さい頃に風呂に一緒に入っていた時のことや同じ布団で寝ていたことを思い出して、母の裸を思い浮かべたり、おっぱいを触った時の手の感触、悪戯した下着の匂いや味を思い出して興奮し、ついつい自分で自分を慰めたりもした。
しかし終わったあとが嫌だった。
母を思い浮かべながら射精したことで感じる背徳感や自己嫌悪感がたまらなく嫌だった。

母はそのことには気付かなかったようたが、おそらく私の視線や態度から察知したのか、裸や下着姿、無防備な服装でいるところを私に見せなくなったし、むやみやたらに私の部屋に出入りすることもなくなった。
但し普段の生活や会話などは、それまでと変わらず普通にしていた。
私の中で実の親子でないことを意識し始めたが、それがかえって母に対する遠慮や思いやりにつながったこともあり、親子関係は表面的にはとても良好なものだった。

その関係が変わり始めたのは、私が高校に進学した年のゴールデンウィークが明けて間もなくのことだった。
その前年の秋の人事で父が名古屋の統括支店長に昇進したために、戻ってくるのが最短で3年先、順調に行けば私が大学に入る頃になってしまい、私にとっては息苦しくもあり甘くもありの母と二人きりの生活を続けなければならなくなったことが大きな原因だった。
但し間に高校受験があったので、当たり前な話だが私は受験に集中していたので、父の転勤のことなど頭になかった。

なんとか第一志望の高校へ入ることができたが、受験勉強と言う呪縛から解かれたせいか、急に母のことを1人の女性として意識するようになっていた。
きっかけは合格発表から帰宅して、大きな声で「受かったよ!」と言った私を、母が嬉し涙を浮かべながらギュッと抱きしめてくれた時に感じた女性の体の温もり、胸の膨らみ、そして母の体から漂ってきた何とも言えない女性の甘い匂いだった。
「俺を抱きしめてくれたのは母だけど、でも母じゃない」、その複雑な感覚が私の頭の中でさらにこんがらがって訳が分からなくなった。

その頃の父は50を前に、銀行内で更に上に行ける、ラインから外されて子会社に行かされるかと言う競争に勝とうと頑張っていた。
だから家に帰ってくるのも会議のついでなどが多く、ビジネスホテル代わりに寝に帰ってくるだけだったり、銀行から旅費が支給される月に1度の帰宅も2~3ヶ月に1度くらいになっていた。
私の高校合格の時も、その直後の土曜日の夕方帰宅して一緒に喜んでくれて祝杯を挙げていたが、そうとう疲れていたのだろう、そのままソファで寝てしまい日曜日の昼過ぎの新幹線で名古屋へ戻っていった。
今から考えれば、この頃の母はずいぶん淋しい思いをしていたのだろうなと思う。

胸の中に他人には相談できない悩み、思いを抱えながら高校に進学したが、入学式の何日か前に学校生活の説明と教科書の出張販売に母と二人で出かけた。
これから同級生になる生徒と母親達が大勢来ていたが、私の母は周りの母親から比べてかなり若く見えるせいか、ジロジロ見られた記憶がある。
帰りに外で夕食を済ましたが、髪をきっちりと整え控えめの化粧で紺のスーツ姿を着た母の凛々しくて美しい姿が今でも目に焼き付いている。

入学式の朝、私が自分で着ようとしていた真新しい詰襟の制服を母が父に背広の上着を着せる時と同じ要領で後ろから着せてくれた。
ちょっと気恥ずかしい気もしたが、何よりも母が父にするのと同じように私に制服を着せてくれたことで、高校生になって自分も少し大人になった気がして嬉しかった。
私は母の方に体を向き直して「お母さん、ありがとう」と礼を言ったあと思わずハグした。
母は俺の背中に手を回しながら「ありがとうなんて、急にどうしたの?」と背中に回した手でポンポンと背中を軽くたたいて、「早く行こう、入学式に遅れちゃうよ」と言った。

高校に入ってからは、最初の1か月間は電車での通学や学校生活に慣れることと運動部に入ったので、その練習や何やかやでバタバタしていたので家や母のことを考える余裕がなかったので、4月末から始まったゴールデンウィークでやっと一息ついたところだった。
私も母も、いくら忙しい父とはいえゴールデンウィークくらいは家に戻ってきて、ゆっくり過ごすのだろうと思っていたが、名古屋地区の支店長研修や接待ゴルフがあるとかで、結局1日も帰って来れないと言ってきた。
母は平静を装っていたが、がっかりしている様子は高校生だった私にも分かるほどだった。
だからというわけではないが、中学生の頃に酷いことを言ったりしたことの罪滅ぼしも含めて、ゴールデンウィーク中は母親孝行しようと思った。

私に通っていた高校は私立の男子校だったが、当時は「飛び石連休」だったゴールデンウィークは他校と違って1週間まるまる休みだった。
連休中は母の買い物に付き合って荷物を持ったり家の掃除をしたりと、高校生だった私が親孝行になると思いついたことをどんどんやった。
毎日を母中心のスケジュールで過ごすようにしたが、若くして結婚し遊びたい盛りに遊べなかった反動だと思うが、この頃36才なったばかりの母は意外にも遊園地や動物園に行くのが好きだったようだ。
母も父が帰ってこない寂しさを忘れたかのように、母の行きたいところに一緒に出掛けたり外で食事をして楽しそうな笑顔を浮かべていた。

あれは5月5日、連休最後の夜だった。
風呂から上がってパジャマ姿でテレビを観ていた私に、「明日から学校だから、今日は早めに寝なさいよ」と言いに来た母に、私は母の前に立って「お母さんごめんな、俺がいるから親父と一緒にいられなんだよね、でもありがとう」と言ってハグした。
母はちょっとびっくりしていたようだが、目に涙を浮かべながら「なに言ってるの、そんなこと誠の母親なんだから当たり前でしょう」と言って私の顔を見上げた。

それは凄く自然な感じだった。
俺の顔を見上げている母の額に、私はそっとキスをした。
母の額に唇を当てていたのはほんの数秒だったが、その数秒を私はとても長く感じた。
唇を離してもう一度母の顔を見た時に、二人の視線が絡み合った。
その瞬間私の背中に回っていた母の手に力が入り、私のパジャマの生地を強くつかんだのが分かった。
私は母を強く抱きしめながら、本当に自然な感じで母の唇を奪った。

この夜はそれだけだったが、私にとってはそれだけで十分だった。
たった数秒間か十数秒間唇同士が触れ合っていただけのことだったが、私は母を母親としてよりも一人の女性として愛しているということをはっきりと確かめることができただけで十分だった。
それに女性経験のなかった私には、その先に男が女にすべきことは頭ではわかっていても、どうやって行動に移すかわからなかったから、ただただじっと母を抱きしめる、それがこの時の私にできた母に対する最大限の愛情表現だった。

私が急に大人びたことを言ってキスを交わしてしまったせいか、母もまた私のことを息子ではなく一人の男として意識し始めたようだった。
それまでは普通にしていたようなことでも互い意識し合ってしまい、とてもぎこちないものになった。
例えば母の後ろから呼びかけても「ん?なぁに?」という反応だったのが、同じように後ろから「お母さん」と呼びかけると、肩をビクッとさせながら「は、はいっ!?」のように変わった。
二人で同じものを取ろうとして手が触れ合ったりすると、お互いにビクッとして手を引っ込めたり、私が上半身裸でいると母がチラ見しながら顔を赤くしたり、なんとなく二人の間に見えない壁ができてしまったかのようによそよそしくなってしまったが、そんなことも時間が解決してくれ、1ヶ月も経った頃には元に戻っていた。

二人の仲が一線を越えてしまったのは学校が夏休みに入ってすぐの頃だった。
たしか金曜の夜に父が帰宅したが酷く酔って帰って来て、しかも不機嫌そうに翌朝すぐに帰るというので母もいい加減頭に来たのだろう、玄関で酔った父と口論になった。
父は一言「もういい!ホテルに泊まる!」と言って本当に出て行ってしまった。
父が出て行ったあと、玄関で悔し涙を流しながら立ち尽くしていた母があまりに可哀想だったので、私はありったけの優しい言葉をかけて慰めると母が泣きながら私に抱き付いてきた。

私も母を強く抱きしめた。
その場の雰囲気が初めてキスした時と同じようになったが、場所が玄関だったので一旦体を離した後、母の肩を抱くようにしてリビングルームに連れ戻った。
リビングに戻ると母は再び私に抱き付いてきて、胸に顏を押し当てて少し泣いたあとに私の顔を見上げた。
その時の母の目、まるで私に救いを求めるような母の眼差しを今でも忘れない。
その眼差しを見た瞬間、私の全身に緊張が走った。
興奮ではなく、それまでに感じたことの無い物凄い緊張感で体が震えた。

見つめ合いながら震える手で母の顔を撫でると、母が背伸びをしながら目を閉じた。
唇同士が触れ合うと、母の腕が私の首に回ってきて強く引っ張った。
それは初めての時のような唇同士が軽く触れあっているようなキスではなく、歯と歯がガチガチ当たり合うような激しいキスだった。
キスを交わしながら息をのむ声や荒い鼻息、チュッチュと吸い合う音がリビングに響いた。
何秒ではなく何分経ったかわからなかったが、母は私から体を離すと玄関に行って鍵とドアチェーンをかけて戻ってきて、私の腕を取って「シャワー浴びようか」と小さく言った。

私は半信半疑のまま、まるで小さな子供だった頃のように、母に手を引かれて風呂場に連れて行かれた。
脱衣スペースに入ると、母は私の目の前で着ていたものを躊躇うことなく全部脱いで、呆然と突っ立ったままの私にも早く脱ぐように促したて風呂場に入って行った。
私も脱ぐには脱いだが、既に勃起した前をしっかりと隠して母のいる風呂場へ入った。
母は泡立ちの良いボディソープで体を洗っていて、自分の体を洗い終わると私の体を洗ってくれようとしたが、私は恥ずかしくて「背中だけでいいよ」と言って前は自分で洗った。

私が逃げるように出ると、母もあとを追うように出てきた。
狭い脱衣スペースで母はバスタオルを広げ、先に私の背中を拭いてから自分の体を拭いた。
体を拭いたあと、すぐに出ようと思えば出られたのだが、なんとなくその場に居残る形で母が体を拭いているのをぼうっと見ていた。
母は自分の体を拭き終わると、「誠のお部屋に行こう」と私の目を見ずにぽつりと言った。
私はその言葉の意味に緊張して震えてしまい、母の顔を見て黙って頷くしかなかった。

二人は何も身に着けないまま、2階にあった私の部屋に向かった。
母は私の腕につかまるようにしながら、狭い廊下や階段を後ろからついてくるように部屋に入った。
部屋のドアを閉めると、家の中には二人の他に誰もいないのにドアをロックして立ったまま向かい合い、どちらからともなく抱きしめ合った。
これ以上無いほど勃起していたペニスが母の茂みの少し上あたりに密着したが、不思議なことに恥ずかしさは全く感じなかった。

軽いキスを交わしたあと、母が私のベッドの上に仰向けになった。
スモールランプしか灯っていな薄暗い部屋だったが、ベッドに横たわる母の裸身が白く浮かび上がるように見えた。
私はその上に覆いかぶさり何度も母の唇を求めた。
母の体の温もり、柔ららかみを直に感じながら、シャワーを浴びて上気した体から漂う女性の甘い匂いを深く吸い込んだ。
父に出て行かれた直後のような激しいキスを交わしていると、母の舌が私の口に入って来たので一瞬びっくりしたが、私もすぐに舌を伸ばして絡め合うような濃厚なキスになった。

母の乳房を触ると、母のキスが一段激しくなり強く吸ってきた。
窒息しそうなほど激しかったので、私は逃げるように唇を離したあと乳房を揉みながら乳首を吸った。
母は一回だけ、それも遠慮がちに「あっ!」と喘いで、そのあとは荒い息だけを吐いていた。
乳首を吸いながら恐る恐る母の秘所に手を伸ばした。
母は体をビクッとさせて一瞬脚を閉じようとしたが、すぐに力を脱いで少し開いてくれた。
モジャッとした茂みを通り越してその先に指先を進めると、ヌメッとした感触が伝わってきたが気持ち悪さは感じなかった。

母が再び小さな声で「あっ!」と呻いた。
私は指を離して「痛かったの?」聞いたが、母は何も言わずに首を横に振った。
その要領で母の秘所を触り続けながらキスしたり乳首をしゃぶったりしていると、母の吐く荒い息に微かに声が混ざり始め、潤いも増し始めた。
私は音が出るほど潤っている部分が見たくなり、耳元で「お母さんのここ、見ても良い?」と聞くと、母は顔を背けながら脚をM字型に広げた。

私は薄暗い部屋の中、母の広げた脚のその中心部分に顔を寄せて目を凝らした。
スモールランプの明りだけが頼りだったので、色の鮮やかさまではわからなかったが、薄めの茂みの真ん中に遠慮がちに開きながら濡れて光る秘所が見えた。
指先でそっと触って感触を確かめたあと、さらに顔を近づけて匂いを嗅いでみた。
それは甘い香りではなかったが、恐らくオスを引き付けるフェロモンが分泌されているのだろう、母の女匂を深く吸い込むとそれまでの人生で感じたことの無いような強い興奮に頭の中が支配された。

私はその匂いに誘われるように、母の秘所にキスをした。
「あっ‥ダメ、嫌っ‥」、母は呟くように言うと、私が使っていたタオルケットを被るようにして顔を隠した。
私は物に憑かれたように母の秘所を舐め回した。
もちろん初めてのことだったが、汚いとか気持ち悪いということは全く感じず、むしろ溢れ出る蜜を残さず舐めてしまいたいと思った。
母の喘ぎが激しくなり腹を波打たせながら呼吸を荒くしていたが、顔に被ったタオルケットのせいで小さく籠ったような声が聞こえてくるだけだった。

どれくらい舐め回していたかはっきり覚えていが、母が顔からタオルケットを外して私に襲い掛かるように抱き付いてきた。
勢い余って狭いシングルベッドから転げ落ちそうになったが、なんとかこらえて真ん中に戻ると、母が覆いかぶさって来て私の唇を激しく求めてきた。
長く激しいキスを交わすと、母は私の胸や腹のあたりにチュッチュッと何度か軽いキスをしたあと勃起したペニスにも同じように数回キスをした。
母はそのまま私の腰に跨るようになって、腰を下ろしながらペニスを自分の秘所に収めた。

母は深くしゃがみ込むようになって私のペニスを根元まで収めたあと、何度か腰を上下したが、既に射精寸前だった私には耐えられるはずもなく、そのまま母の中に出してしまった。
私の射精が始まると、母はペニスを根元まで収めて全部受け止めてくれた。
何秒か経つと私のペニスが萎えて、自然に母の中から抜け出た。
母は学習机の椅子に掛けっ放しになっていたタオルを取ると、私のペニスをきれいに拭いてから自分の秘所を拭った。

母はベッドに戻ると、エアコンをかけていたのに汗びっしょりになって仰向けになっていた私に抱き付くと涙声で「誠ごめんね。私は母親失格ね…」と言った。
母の言葉を聞いた私は、ただ漠然とだが、この人は私が守らなければいけないと思った。
私は母を抱き寄せて「そんなことないよ、俺はお母さんが良かった」という感じのことを言って唇を重ねると激しいキスを求めた。
母は翌日の朝遅くまで私の部屋で過ごしたが、明け方近くまで私を受け入れてくれた。

目を覚ますと母は裸のまま私と同じタオルケットに包まって眠っていた。
とても幸せそうな寝顔だったのでしばらくの間見詰めていた。
私は母を起こさないようにしたつもりだったが、母も目を覚ましてしまいベッドから出ると、少し恥ずかしそうに目を逸らして「おはよう」とだけ言って部屋から出て行った。
私も照れくささと気恥ずかしさがあったので、目を覚ましたままお昼まで部屋から出ていけなかった。

私が部屋を出たのは、母が「お昼ごはんができたよ」と声をかけに来てくれた時だった。
ダイニングに降りて行くと、母は今朝までのことなど無かったかのように、いつもの母に戻っていた。
そんな母を見ていたら私の母に対する気持ちが変わってきた。
それまでは母ではなく一人の女性として意識し愛そうとしていたが、前夜肌を重ね合ったことで、逆に一人の女性ではなく本当の親子になったような気がした。

>>続く

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15
投稿者:take   take_engine640
2015/10/08 23:43:45    (sp/BFha7)
罪悪感…そうですね。でも、関係が切れることはないんだから。これからも二人を愛していくことになるんでしょうね。続きをよろしくお願いします!
14
投稿者:(無名)
2015/10/07 19:13:44    (bjGiw/3S)
早く続きを聞かせてください。
13
投稿者: ◆V6rElOo9Z6
2015/10/02 00:02:38    (tZhRXIFj)
>>続き

その日は朝から夕方まで母の荷物を段ボール箱に詰めたり要らなくなったものを整理するのにバタバタしたが、夕方近く彼女と母の姉がこちらに着いた。
一通りの挨拶を済ませたあと、役所に言って籍を入れた。
夜は4人でちょっと贅沢な店に夕食を食べに出かけた。
彼女の母は母の姉だから伯母であるが妻の母だから義母になる、姉妹揃って私の義理の母とは、なんだか複雑な関係だなと思いながら4人で食事を楽しんで帰宅した。
分かりにくくなるので、ここでは取り敢えず「義母」と書くが、母とは年子で顔形や体つきは母とよく似た感じの女性だが、不思議にいやらしい目で見たり女性を感じるようなことはなかった。

私は翌日仕事だったのと、その日の明け方まで母と最後の激しい営みを楽しんだこともあって、籍を入れて初めての夜だったが儀式的なセックスを控えめにしただけだった。
また、下の階には母と義母が寝ていたから、派手に声を上げるようなことはできなかった。
義母は週末まで泊まり、土曜日に母を連れて田舎に帰った。
帰る直前に今までの礼をしたいからと言って妻と義母に買い物に行ってもらい、30分くらいだが私と母の二人きりにしてもらった。
私は母を抱きしめて、初めてキスを交わした頃のように何度もキスをした。

妻との新しい生活が始まると、私は毎晩のように妻の体を求めた。
さすがにヴァージンではなかったが男性経験は少なかったらしく、妻を私好みに変えていくことを楽しんだ。
妻に色々な性偽を教えながら、母に教え込まれた技を使って妻の体を開発していくのが楽しかった。
籍を入れてから3か月後、ささやかな結婚式と披露宴を行い、新婚旅行は時差を考えてシンガポールに行った。
結婚して半年ほどは、妻との奔放な性を楽しんだ。

毎夜のように一生懸命励んだせいか、同居後半年と少したった頃に妻が妊娠した。
初めてのことだったのでお腹の子に障ってはいけないと、妊娠が分かった当初は夜の営みは減ったが、安定期に入るとあまり激しいことはできないが週に何度かお互いに求めあうようになった。
日に日にお腹が大きくなると再び禁欲生活に戻ったが、それでも生まれてくる子のことが楽しみで我慢していたことを忘れることができた。

この頃から母と義母が1週間交代くらいのペースで私たちの生活の手伝いに来るようになった。
炊事洗濯掃除を身重の妻に代わってやってくれたのは助かったが、義母が来てくれた時はなんとなく窮屈に感じていた。
いよいよ出産の兆候が表れた時に来ていてくれたのは母だった。
タクシーで病院に連れて行き入院させたが、その日の出産はないだろうということで母と私は一旦家に帰ることにした。

帰り道に外で夕食を済まそうということになり、久しぶりに母と二人きりで外食した。
食事のあと腹ごなしでもしようと二人で駅までぶらぶら歩いていたが、不意に上を見上げるとラブホテルの看板が目に飛び込んできた。
私が一瞬足を止めると、母が私の二の腕をぎゅっと掴んだ。
私は無意識のうちにホテル街へと続く路地に向かって歩き出したが、母も私の腕にすがるように黙ってついてきた。

二人とも妻が来る前の夜を最後と決めていたはずだったのに、ここへ来ることをあらかじめ決めていたかのように自然だった。
無意識のうちにホテルに入り部屋を選んでいた。
部屋に入るなり、どちらからともなく自然に抱きしめ合うとお互いの食いビルを貪り合うようなキスを交わしたが、妻の妊娠によって営みが途絶えていた私は一分一秒も待つことができなかった。

母を抱き上げてベッドにおろすと、シャワーも浴びないうちから母の衣服を脱がして懐かしい体に貪りついた。
唇、乳首、すべてが懐かしい、そう思いながら母の体を舐め回していると、母も体から力を抜いて声を上げ始めた。
ショーツを脱がそうとしたとき、母は手で押さえながら「いやっ、汚れたままじゃ恥ずかしい…先にお風呂に、ね?と言ったが、私は母をレイプするかのようにショーツを剥ぎ取って秘所に顔を近づけた。

若い頃よりもさらに薄くなった茂みの奥に、その日一日の母の生活の匂いがたっぷり沁み込んだ秘所が既に濡れて開きかかっていたが、私には鼻を突くようなその匂いさえ甘く懐かしく感じた。
私は熟れた母の匂いを一度深く吸い込んだあと、躊躇うことなく貪りついた。
舌を刺すような強い酸味を感じたが、遠い昔に母から教わった通りにゆっくりと丁寧に舐め回しているうちに、母本来の懐かしい蜜の味に変わって行った。

舌と唇だけで何度か母を絶頂に導いたあと、私は我慢しきれずに着ていたものを脱ぎ捨ていきなり挿入した。
母は背中を反らせながら大きな喘ぎ声を上げて私を受け入れてくれた。
この温もり、この感触だ、私は母を強く抱きしめながら唇を貪った
膣内の温度や絡みつき加減を懐かしみながら激しく腰を振ると、自分でも呆気なく思うほど早く射精感が高まってしまい、そのまま母の奥深くに溜まっていたものを吐き出した。

射精したあと、母を抱きしめながら何度かキスを交わしているうちに、それまでは全く感じたことの無かった気持ちに襲われた。
物凄く重い罪悪感と背徳感だ。
妻を持ったことも一因だと思うが、もう終わりにしたはずの母を抱いてしまったことに対するものが大きかった。

>>続く

12
投稿者:jun
2015/09/30 22:04:12    (nocvvrne)
久々に感動しました。
とても良い文章です。
続きを期待しています。

11
投稿者:(無名)
2015/09/28 23:54:29    (3myIkhDn)
ここまで来ると、単なる投稿ではなく文学だな。
文章が上手いから、その場面が目に浮かんでくる。
かなり細かい性行為の描写なのに下品さをまったく感じない。
続きに期待してます!
10
投稿者:(無名)
2015/09/28 20:04:30    (cEak57XM)
【3】【7】の投稿者です。しっかりとした芯の入ったお母様ですね。更に引き込まれます。
9
投稿者: ◆V6rElOo9Z6
2015/09/28 18:25:00    (rDrBJ07g)
>>続き

話しを戻して、父が他界してからのことを詳しく書く。
父が亡くなった直後の半年ほどは相続や引っ越しでバタバタしたが、不謹慎な話だが、その間も母との関係は休むことなかった。
むしろ人間の死に直面したせいだろうか、普段よりも激しいほどだった。
通夜の晩こそ色々な人が来たし父の田舎の風習で一晩中起きて棺に入れる鶴を折ったり、父の田舎から来た親類の相手をしながら斎場で過ごしたが、告別式の夜は親類も皆帰って誰もいなくなったので、家に戻ったあとに翌日の朝方まで激しく求め合った。

相続のことで会社から休みや半休をもらい母と二人で銀行や役所に何度も行ったが、そ子での用事を済ますと、昼間からホテルや自宅でお互いの体を貪り合ったりもした。
どちらかがと言うことではなく、お互いにお互いが欲しくなるからどうしても激しくなったのだろう。
よほど疲れているとか体調が悪かったりとか飲み過ぎたりしていない限りは、帰宅して食事と風呂を済ませると、見たいテレビでもない限りは10時には二人でベッドに入り飽きることなく未明まで愛し合う毎日だった。

特に今のところに引っ越してきてからは家具をそろえる時に大きなWベッドを買ったので、最初から広々としたベッドの上で愛し合った。
母は44だったが子供を産んでいなかったことと、恐らく私を悦ばせるために努力をしていたのだろう、年齢による体の緩みは若干あったものの、体の線はきれいなままだった。
そんな母の心も体も独り占めし、毎晩のように隅々まで愛することのできる自分をとても幸せな男だと思っていた。

前の方にも書いたが、母も私も子供が欲しかった。
父の生前は母が妊娠してしまうことを恐れ、二人とも避妊にはそうとう神経を使っていたが、父が亡くなり新しい土地に引っ越してきたこともあり、子供を作ろということになった。
母は長年続けていたピルの服用を止め、不妊相談に行ったりもするようになった。
私も精液が濃くなると言われているようなものを食べたり、アルコールを控えたりしながら、母との子作りに励んだ。

しかしそんな二人の努力もむなしく、母は子供を授かることなくもう少しで51才になるという頃に閉経した。
とはいっても子供だけが希望ではなかったので、母の閉経後も私の母に対する気持ちは変わらなかった。
閉経したことで「もう子供ができることはない」と言ってがっかりする母を慰めながら、それまで以上に母の体を愛し、母もまた十分に応えてくれた。

ところが私が33才になると、母が私に「早く若い女性と家庭を持って子供を作れ」というようになった。
私は母と二人きりの生活を送っていきたいと言ったが、母は「私が誠の子供を産めない以上、誠に家庭を持たせるのが私の責任」と言って聞かなかった。
それでも私が言うことを聞かないでいると、母は私の求めを拒むようになり別の部屋で寝るようになった。

家の中での会話も減り、まるで家庭内離婚のような状態が半年ほど続いた。
私は30を過ぎたというのに、たまった性欲を発散するのに人生で初めてソープランドに行ってみたりしたが、やることなすこと全てむなしく感じていた時だった。
2~3日実家に帰ってくると出かけた母が、土曜日の午後に母が若い女性を連れて帰宅した。
私はその女性の顔を見て、一瞬呼吸が止まりそうにった。
なぜなら、私が子供の頃の母にそっくりだったからだ。
この女性が今の妻だ。

母から「誠はこの子と中学校に入ったばかりの頃に会ったことがあるのよ」と言われた。
私が思いだせないでいると、私にとっては従妹にあたる女性だと言われた。
そう言われてみれば、母方の法事かなにかの席で小さな女の子を「従妹」と紹介されたことがあったのを思い出した。
母の姉の娘で、私とは血の繋がりはないが従妹にあたる女性でこの時28才だった。
3人でお茶を飲みながら世間話をしていたが、小一時間も話をして頃だったろうか、母は唐突に私にその女性と一緒になるように言った。

その日の夜彼女はうちに一晩泊まり、日曜日の午後に田舎に帰っていった。
彼女を駅まで送って行ったあと、久しぶりに母と親子らしい会話を交わした。
どうやら母は子供を諦めた直後から、母の姉とで私と従妹の結婚についていろいろと話をしていたらしい。
「誠が気に入ってくれる女性は、あの子しかいないと思った」と母は言ったが、いきなり結婚しなさいと言われても「はい」と言えないので、先ずは付き合ってみると母に告げた。
母も了解し、早速田舎に電話していたようだった。

付き合うといっても離ればなれだったので、会社の帰りに待ち合わせをして会うということはできず、月に2度ほど泊りがけで行ったり来たりしながら会っていた。
付き合い始めて半年ほどたった頃だった。
その前に彼女の田舎で会った時に彼女と初めてキスを交わし結婚の約束をしたが、それを聞いた母が気を利かせたのだろう、ディズ〇ーランドのそばのホテルをペアで取ってくれて、二人で遊んで来いと言った。

その夜二人は結ばれた。
彼女は顔ばかりでなく、体つきも母そっくりだった。
そればかりではない、私に抱かれている時の反応、仕草までもそっくりだった。
更に下世話なことまで付け加えるならば、体から発する匂い、秘所の形や濡れ方、蜜の味までなにもかもが、まるで母を抱いているのではと錯覚するほど似ていた。
そのせいか、この日の夜は彼女の体を何度も求め、母との関係が途絶えたために溜まっていたものをすべて吐き出した。

それから2か月後、彼女は仕事を辞めて私の家に来た。
式はまだ先だったが籍だけ入れて同居することに決めると、母は彼女と入れ替わるように田舎に帰ると言いだした。
田舎には夫に先立たれた母の姉(彼女の母)が一人で生活しているので、そこに帰るという。
もちろん引き留めたが、母は「一つ屋根の下に肌を重ね合った女が二人もいてはいけない」と言って聞かなかった。

彼女が家に移ってくる前の夜、約一年ぶりに母を抱いた。
二人が体の関係結んでから17年間の思いをぶつけあうように、お互い激しく求め合った。
この夜の母は関係を持ってからいちばん激しかったのではないかと思うくらい、私のすべてを欲しがるように長い時間をかけて何度も求めてきた。
私もこの夜が最後と思うと、母の体を貪欲に求めた。
お互いの体を貪り合う音や濡れた秘所がこすれ合う音、そして母の喘ぎ声と二人の荒い息が明け方までベッドの軋む音ともに寝室に響いていた。

少しだけ眠ると、すぐに夜が明けて表が明るくなった。
母はいつも通りの時間にベッドから出ると、私のことを慌ただしく起こしてベッドパッドや敷布を剥がしてゴミ袋に突っ込んだ。
掛け布団も粗大ごみに出すと言って畳んで袋に入れて部屋から出した。
そのあとに真新しいパッドと敷布を敷き詰めて新しい掛布団を運んでくると、「今夜からは若い二人で寝なさい」と言った。
私がもったいないというと、母は「新婚夫婦の寝室なんだから、私の匂いの付いたものは絶対に使ってはいけない」と言った。

>>続く

8
投稿者:(無名)
2015/09/28 12:24:53    (J8AU4Fno)
入力ミスはあるけど、とにかく文章が上手いです。
読んでいてどんどん引き込まれてしまいます。
もちろん内容も素晴らしい。
早く続きが読みたいですね。
7
投稿者:(無名)
2015/09/27 01:35:35    (egukYDZW)
私は【3】の投書者です。もし仮にHな描写が無かったとしても半生記として気になる展開なので、更に続きをお願いします。
6
投稿者: ◆V6rElOo9Z6
2015/09/26 19:02:11    (.YnEYrOY)
>>続き

性欲が旺盛な高校生だ、正直に言えば手を伸ばせば届くところにいる母と毎晩のように抱き合いたいと思った。
しかしそんな気持ちとは裏腹に、母を女性ではなく母と感じるようになってしまったせいか、私の中に母をこれ以上汚してはいけないとい気持ちも芽生えた。
私が母を求めても恐らく拒まないだろうが、それは凄く悪いことのように思えてしまい、何もできないまま1週間ほどが過ぎて行った。

ところが母は少し違ったようだった。
肌を重ねてしまったことで、母の私に対する愛情は母性愛から男女愛に変わってしまった。
私は二人が肌を重ねる前よりも親密になったことを、本当の親子になれた思っていたのだが、母にとって私は息子ではなく1人の男になってしまった。
3年と少しの間、仕事命の父に邪険にされ続けた母が、本来父に向けるべき感情を私に向けてしまったということだったのだろう。
母もまた、私とは違った意味で毎日を我慢しながら過ごしていたのだと思う。

先に我慢しきれなくなったのは母の方だった。
最初の時から1週間ちょっと経った夜、私がパジャマ姿の母にお休みを言ってベッドに入ろうとした時だった。
母が私を追うように部屋に入ってきたかと思うと、私にしがみつきながら唇を求めてきた。
歯と歯がぶつかり母の舌先が入ってきた瞬間、私の我慢や慎み、母親観というものが如何に無意味であり無力であり無駄であったものだったことを思い知った。

母は私をベッドに押し倒すと、再び濃厚なキスを交わしながら私のパジャマを脱がしにかかった。
私を全裸にすると自分も全裸になって、再び覆いかぶさって来て私の体を唇と舌を使って執拗に愛撫した。
私は母の情熱に圧倒されて、ただ母にされるがままになっていた。
初めての時と同じように母が勃起したペニスに数回キスをしたので、そのまま挿入するものだと思って身構えると、挿入ではなく口に含んだ。

生まれて初めて味わうフェラチオの快感に全身に電気が走るほど感じたが、実はその日の夜は風呂で母とのことを思い出しながらオナニーをして一回抜いた後だったので、何度か射精しそうになったが耐えることができた。
余裕と言うほどではなかったが、それでも母のフェラチオを十分に楽しむことができた気がした。
それでもあまり長く続けられていたら危ないと思ったので、無心にしゃぶりついていた母に「俺にもさせて」と言って、一旦止めてもらった。

母が私から離れ仰向けになり体の力を抜いた。
私は何日も食べていない飢餓状態の時に目の前に出された御馳走を食べるかのように、母の美しい体に貪りついた。
いけないことだと我慢していた思いが母の行動で吹っ切れたので、初めての時から夢にまで描いていた母の体を思う存分味わおうと思った。
唇、舌、口の中の粘膜、乳首、腋の下、へそ、秘所、後ろの穴、手足の指一本一本、唾液、秘所から溢れる蜜、母の体やそこから出てくるものすべてが愛おしく思えた。

「誠、来て…」
私が母の秘所をしつこく愛撫していると待ちきれなくなったのか、上体を起こして私に悩ましい視線を投げかけてきた。
私が母の上に重なると、母は手を伸ばしてペニスを導いてくれた。
そのまま腰を前に突き出すとペニスは根本まで母の中深くに納まった。
母は「はぁ~っ!」っと大きく喘ぐと背中を反らせながら私の背中に指先を食い込ませた。
私が腰を動かし始めると、粘膜同士がこすれ合う湿った音と二人の荒い息が狭い部屋に響いた。

この夜の母は情熱的と言うか妖艶だったというか、初めての夜とは違い喘ぎ声も上げたし私に対する愛撫もとても濃いというか執拗だった。
経験の無い私に女性の悦ばせ方を教えながら、して欲しいことを貪欲に求めてきた。
私は教えられた通りに母を悦ばせることに没頭したが、母も私の体を貪るように愛してくれた。
学習と復習ではないが、1回終わるごとに教えてもらったことを次の時に試してみる、自分なりに工夫してみるといった感じのことを明け方まで繰り返した。

多分4~5回くらいセックスしたと思うが、翌朝は二人ともお昼近くまで起きることができず、私のベッドで抱き合うように眠り込んでいた。
母が先に目を覚ましてランチの用意ができたと起こされるまで、私は母が起きたことも気付かないほど熟睡していた。
半分寝ぼけながらランチを摂ったあと、母に言われてシャワーを浴びて前夜母と愛し合った際に私の体に沁み込んだものを洗い流した。
母も「私もさっき起きたばっかりだから」と、私と入れ替わるようにシャワーを浴びた。

二人は完全に吹っ切れた。
もちろん父を始め他人に対しては「普通の親子」を装ったが、その日を境に完全に思合う男女に変わった。
父が帰省した時以外は風呂も寝るのも一緒、テレビを観る時もソファーで寄り添いながら観るようになった。
ハイティーンだった私の性欲は旺盛で、一緒に寝るようになってからは母が生理の時以外はほぼ毎晩のようにセックスした。
正直に言うと、生理中でも我慢できなくなると手や口で出してもらってた。

高校2年くらいになると、二人はもはや夫婦同然になった。
年頃だから、学校は男子校でも通学途中に可愛い女子に出会ったり告白されたりしたこともあったが、私にとってそれは不倫のような気がして、付き合いたいけれど付き合うことはなく、母一人を愛することに専念した。
そんな母のおかげで邪念なく高校生活を過ごすことができたせいか、浪人もせずに人に聞かれても恥ずかしくない大学に入ることができた。

大学在学中も同じように過ごした。
友人たちからは「女っ気もなく付き合いの悪いヤツ」と厭味を言われたこともあったが、家に帰れば母がいる、その母こそ私の愛する唯一の女性と言うことを誰も知る由もなかった。
今にして思えば、私と母がしていたことは夫婦ごっこみたいなものだったが、4年間で無事大学を卒業し、そこそこの企業に就職することもできた。
その会社を選んだのは都内にしか事業所がなく、転勤しても引っ越さなくても済みそうだったからだった。
父からは同じ銀行への就職を勧められたが、銀行と言うものが母を悲しませた元凶だと思っていたので、絶対に嫌だと言って行かなかった。

母と私が夫婦ごっこではなく夫婦になったのは、私が就職してちょうど丸1年という時だった。
もちろん戸籍上の夫婦にはなれないが、二人が知らない土地で夫婦と名乗っても何のしがらみも無くなったという意味だ。
父はその頃順調に昇進し大阪の本店に勤務していたが、役員確実と言われながら、役員ん尾ポストが空くのを待たずに急逝した。
過労死みたいなものだったんだろうが、54才の若さでこの世を去った。

母はこの時44才、父の退職金や生命保険でかなりのお金が入ってきたので、私は母の気持ちを確かめる意味もあって、「もしお母さんが人生をやり直したいと思うならば、お金を折半して自由になればいい」と言った。
母はとても悲しそうな目をして首を横に振りながら、「誠と離れるくらいなら生きていてもしょうがない」と言った。
私は母を抱きしめて、そんなことは二度と言わないと誓った。

父が亡くなって3ヶ月目に、住んでいた家と土地を売り払い転居した。
都心にも1時間少しあれば通勤できる、海を見下ろせる小高い丘にある一軒家を買った。
もちろん中古住宅だが、前の家を売り払った得たお金でお釣りがくる値段で買えた。
この家で母と二人きりの「夫婦生活」を始めた。
母はまだ44才だったのでどうしても子供が欲しくなり、今で言う「妊活」を始めた。
ずいぶん頑張ったし素性を隠して不妊の相談にも行ったが、ついに母は身籠ることの無いまま閉経した。

>>続く

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