2007/05/17 21:21:10
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矢板・実父殺し事件
【事件概要】
1968年10月5日、栃木県矢板市で、娘(当時29歳)が実の父親(53歳)を絞
殺するという事件が起きた。父親は娘が中学生の時から乱暴し続け、娘は父親
の子を出産していた。
A子
【父が布団に】
栃木県佐久山町にTという男がいた。
Tは農業のかたわら町役場の吏員として勤め、青年学級の指導員でもあっ
た。妻とのあいだに長女A子をはじめ、二男四女をもうけた大家族だった。
A子は1939年生まれ。父母が24歳の時の子どもである。
昭和28年、農業を嫌ったTは、宇都宮に移り味噌・雑貨を扱う商売を始め
た。木造平屋の二間に9人が暮らした。商売はうまくいかず、貧しい生活が続
いた。
中学2年の三学期頃、A子(当時14歳)が四畳半で寝ているところ、酒臭い父
親が布団にもぐりこんできて体を触られた。他の兄弟が折り重なるように寝て
いたので、A子さんは家族を起こすまいとそのあいだ声を出すことはできなか
った。そしてそのまま父親に犯されたのである。以後、母親の目を盗んでは、
1週間に1度、10日に1度と犯され続けた。
「お父ちゃんが私のところへ来て変なことする・・・」
中学3年になったA子は泣きながら母親にこのことを打ち明けている。だが母
は「どうりで私のところにこなくなった。おかしいとは思っていた」と言うだ
けで、ショックを受けたようでも、怒っている様子でもなかった。
娘の目にはそう見えた母親だが、子ども達のいない時に「A子に何すん
だ!」とTに怒りをあらわにした。だがTは逆に包丁をつきつけて「ガタガタぬ
かすと、殺すぞ」と脅し返した。恐れた母親はA子や他の子ども達と逃げ出し
た。Tはそれまでは心優しい夫であったのだが、A子とのことがあってからは、
乱暴な男に変わっていた。
結局、母親は子どもの半分を連れて知人のいる北海道に家出。残されたA子
が母親代わりとなって、弟妹の面倒を見た。Tは母親の目を気にすることもな
くなったので、日に何度もA子を求めるようになった。
【救えぬ男】
A子17歳の時、母親が戻ってきた。母の実家に屋敷に掘立小屋を作り、一家
はそこに住むようになった。母は父を監視して、A子の寝ている方に行こうと
すると止めに入ったが、そのたびに喧嘩となった。
それでもTの欲望はつきることなく、酒を飲んでは娘の体を求め続けた。そ
してこの頃、A子は父親の子どもを身ごもった。
身重のA子は、田植えの時に知り合った男性(当時28歳)と駆け落ちした。A
子の方から「私と逃げてください」と哀願したのだった。男性は同情して、2
人は黒磯まで行ったのだが、父に追いつかれて引き離された。
この一件があって、Tは妻の留守中に矢板市に間借りして、長女とその妹H子
とで暮らし始めた。この矢板市の家は一部屋で、ここでは毎晩夫婦のように父
と1つの布団で眠った。Tはこの頃、植木職人をしていた。
11月24日、A子は長女出産。
昭和32年、市営団地に引っ越す。A子はここで二女、三女を出産。
父親は精力はますます旺盛になったのか、毎晩1度では終らず A子が断る
と、大声でわめき散らした。A子は近所の人や自分の子どもにそれを聞かせた
くないから応じ続けていた。
妹H子は中学卒業後、千葉県の工場に就職し、矢板の家ではTとA子、子ども3
人での生活が始まった。事情を知らない人間からすれば、幸せに映っていただ
ろう。
【29歳の初恋】
1968年、A子は29歳になっていた。
すでに四女と五女も生んでいたが、生後まもなく死亡した。5度の出産以外
にも、5度の中絶をしている。昭和42年8月、大田原市の産婦人科では「このよ
うに中絶していると体が持たないから、手術して妊娠しないようにしたほうが
いい」と言われた。A子は父親に相談し、父もそれに賛成したので、8月25日に
矢板市内で不妊手術を受けた。供述によると、この手術以来、A子は不感症と
なり、父とのセックスは苦痛以外の何者でもなくなっていた。
A子は家計を助けるために65年から近所の印刷所に働きに出ていたのだが、
ここで年下のSさん(当時22歳)という男性と知り合っている。A子はSさんに
好意を持ったが、積極的に仕事を手伝うぐらいで、それを口にしたことはなか
った。以前、駆け落ちした男性は嫌いではなかったが、父の元を離れたいとい
う想いの方が強く、恋とは言えなかった。だからSさんが初恋の相手となる。
8月の終わり頃、仕事を終えて帰宅中のA子に、Sさんが「工場をやめようか
な」と言った。その理由については言わなかったが、その翌朝、Sさんが告白
した。
「あんたが悪いんだ。あんたが会社に入ってこなければよかった。あんたが好
きになってしまった」
A子は父に束縛されるため遠出がほとんどできなかったので、同僚が「恋人
と~に行ってきた」と話すのがうらやましくて仕方なかった。だからこそSさ
んと仕事帰りに喫茶店でおしゃべりをしたり、東武デパートで買い物をした
り、花屋敷で映画を見たことは、彼女にとって初めての幸福であったに違いな
い。
Sさんは他の従業員からA子さんに子どもがいるのを聞いており、また子ども
が出来ないことも知っていたが、結婚を申し込んだ。
A子は寝床で父親に結婚したい人がいるということを打ち明けた。
「お前が幸せになれるんなら良い。相手はいくつだ」
「22歳」
「そんなに若いんじゃ向うでお前をからかっているんだ。子どもはどうするん
だ」
「お母さんに頼む」
「何を言う!俺の立場がなくなる。そんなことができるか。お前の子どもなん
だぞ」
父親は焼酎を一気に飲んで、「今から相手の家に行って話をつけてくる。ぶ
っ殺してやる!」とわめいた。A子は「勤めをやめて家にいるから、Sさんのと
ころには行かないで」と言ってようやく納得させた。
翌朝、A子は工場に電話を入れ、「ゆうべお父さんに話したが駄目だった。
今から矢板駅に行くから来てくれ」とSさんに伝えた。Sはすぐに駅に行った
が、A子は姿を現さなかった。
その頃、A子はよそ行きの服を持ち出して、近所の家で着替えていた。しか
し、Tに見つけられ、ブラウスを剥がれ、下着まで破られた。悲鳴を聞いた近
くの人が父を押さえているあいだに、A子はバス停に向かったが、バスが来ぬ
間に父親に連れ戻された。
9月20日、A子は父から逃れるために東京に出ようと決心した。その前に1度
だけSさんと会ってお別れを言いたかったのだが、彼の自宅でも、工場でも電
話は取り次いではもらえなかった。
Sさんは工場長からA子が父親と関係を持っていることを聞かされていた。
「深入りしないように」とも言われた。A子も工場を辞めてしまったので、も
う忘れようとしていたのだった。
A子の上京は、父が仕事を休んでまで監視するため不可能になっていた。
10月5日、この日も父はA子を監視するため仕事を昼までで切り上げ、泥酔し
ていた。
「俺はもう仕事をする張り合いがなくなった。俺を離れてどこにでも行けるん
なら行ってみろ。一生つきまとって不幸にしてやる。どこまで行ってもつかま
えてやる」
夜8時すぎ、いつものようにTが娘の体を求める。
「俺は赤ん坊のとき親に捨てられ、苦労に苦労してお前を育てたんだ。それな
のに十何年も俺を弄んで・・・・このバイタめ!」
「出ていくんだら出ていけ。どこまでも追って行くからな。3人の子どもは始
末してやるぞ!」
この罵声を聞いた瞬間、A子は父親を押し倒し跨ったうえで、傍にあった股
引の紐をつかんで、首にかけ絞めた。Tはなぜか抵抗しなかった。
「殺すんだら殺せ」
「悔しいか」
「悔しかねえ。お前が悔しいからしたんだんべ。お前に殺されるのは本望だ」
「悔しかねえ。悔しかねえ」
父は絶命した。A子にとっては父の束縛から自由を取り戻した瞬間でもあっ
た。
A子は近所の親しい雑貨商宅を訪れ、「父親を紐で絞め殺しました」と言っ
て崩れ落ちた。
【悪夢、忘れます】
”親殺し”は刑法で死刑か無期の罪と定められていた。
だが宇都宮地裁での公判で、無報酬で引き受けた大貫大八弁護人はこう主張
している。
「被告人の女性としての人生は、父親の人倫を踏みにじった行為から始まって
いる。父に犯され、子を生み、人権は完全に踏みにじられた。そうした希望の
ない日々のなかで恋をし、本来ならば祝福すべき立場の父親に逆に監禁状態に
され、肉体を弄ばれた。この犯行は正当防衛または緊急避難と解すべきであ
る。よってこの事件は尊属殺人罪、尊属傷害致死罪ではなく、単なる傷害致死
罪を適用すべきである。犯行時の被告人は心神耗弱状態にあったとされる」
69年5月29日、宇都宮地裁、尊属殺人罪は違憲として普通殺人罪を適用し
た。さらにA子の心神耗弱を認定して刑を免除した。
だが東京高裁は一転して「刑法ニ〇〇条は合憲である」としてこれを原審を
破棄、心神耗弱のみを認定して懲役3年6ヶ月の実刑を言い渡した。
上告後、大貫大八弁護士はガンで入院、息子の正一が弁護を引き継いだ。や
はり無報酬で、である。
73年4月4日、最高裁、「尊属殺人は違憲である」として原審を破棄、懲役2
年6ヶ月、執行猶予3年の判決が言い渡された。A子は釈放された。34歳になっ
ていた。この結果を報じる新聞報道には「悪夢、忘れます」という見出しが載
った。
A子はその後、栃木県内の旅館に女中として働いた。3人の娘は施設に預けて
いたが、週に1度遊べるのを楽しみにしていたという。
【トピックス 尊属殺人】
自己または配偶者の父母、祖父母、おじ・おばなどを殺すことは「尊属殺
人」と呼ばれていた。その逆の場合はない。これは一般の殺人よりも刑を重
く、死刑または無期懲役に処せられた。
これは「親は子を慈しみ育てるのに、その親を殺すとは言語道断である」と
いう精神からのものだが、事件によってはそれが当てはまらない事例があっ
た。この矢板事件がその代表的なひとつで、この事件の公判から尊属殺人の規
定が揺らぎ始めた。「法の下の平等を定める憲法十四条に違反する」としたの
である。同時期に審議された秋田の姑殺し、奈良の養父殺しも、情状を酌量す
べき特異なケースであり、死刑・無期をまぬがれ、執行猶予付の判決を受けて
いる。
結局この刑法二〇〇条は95年の改正で削除された。