その時は何も思わなかったが後に考えてみると妙だと言うようなことが結構あるもんだ。あの頃がそうだった。物心ついて考えてみるとなんとなくおかしい。たとえば例の黒人兵だ。その当時の米兵は進駐軍とも違うしベトナム戦争前だから徴兵でもない。つまり職業軍人だ。その職業軍人が長屋の貧乏人の息子を可愛がったわけはなんだ。後から知ったことだが、その頃俺の親戚が某大手ベッド会社の配送設置の仕事をしていてて事故品を安く買い取って売っていたらしい。その黒人はそのベッドを定価の半額以下で買って彼女(S子の母親)にプレゼントしたそうだ。勿論新品としてだ。そのころFベッドのある家なんて今でいえばベンツのSクラスを普段使いしているようなものだから大喜びだったようだ。それで味を占めて同僚や知り合いに格安で売って結構儲けたと言う事を大人になって知った。だからクリスマスに50センチを超す大きさの軍艦の模型(ミズリー号?)くれたりしたんだろう。寝たまんま(ふり?)ばあちゃんの声もそうだ。あの時、鈴○のおねえちゃんはばあちゃんが何をしても起きないけれどよがり声は出すって事をなんで知っていたんだろう。何か月か後にわかることになるんだが気が付いたのは大人になってからだ。学校に入って初めての夏休み。Hどころではない。外で遊びまくった。どの家の玄関前にもザリガニ満載の金属バケツが置いてあって悪臭を放っていた。空は青くて高い。でも長屋は港町特有の湿気と化粧品とポマードの匂いだけが記憶に残っている。S子の家の臭いは香水だけど白人兵が出入りする家の匂いはポマードの臭いだ。そんな夏休みが終わる頃、何日か連続して雨が降った。、例によっておれはS子の家に遊びに行く。しかしやることがない。S子は姉ちゃんのお家に行こうと言うが俺は何となくばあちゃんが怖くて行きたくなかった。結局断りきれなくて行ってみたがばあちゃんが寝てるだけだった。ばあちゃんはいつものシミーズ(シュミーズ-そのころはまだスリップとは呼ばなかった)ではなくて流行り始めたムームーを着て寝ていた。ズロースの尻が見える。S子は何も言わずにそばに行ってばあちゃんの裾を直して見えないようにする。俺は幼心にも見てはいけないものを見たような気がして衣桁に掛かったばあちゃんの着物を見ていた。この着物を着て出かける夕方のばあちゃんは結構綺麗だったような記憶がある。「いないね」と言いながら戻ろうとすると向こう隣りの家の中で姉ちゃんの声が聞こえたような気がした。苗字は忘れたがY夫ちゃんと呼んでいる中一の男の子の家だ。長屋ではなく一軒家で多分長屋の土地の地主だったと思う。Y夫ちゃんはガキ大将でもありこの近所の子供にとって絶対権力者でもあった。理由は簡単でその頃まだ珍しかったテレビのある家だったからだ。「ナショナルキッド」が放送される木曜日は全員奴隷状態だった。声がかからなければその週は見られない。そしてその日は木曜日だった。玄関を開けようとするが錠前が掛かっていて開かない。しかし耳を澄ませば姉ちゃんの苦しそうな声はする。その時の俺が思ったのはエロではなくもう一つの欲望、つまり食欲の方だ。電気冷蔵庫なんて見たこともない時代の夏の盛りで腐りかけたものを食べて腹を壊すのは当たり前のご時世だった。でもY夫ちゃんの家には氷式冷蔵庫があって近所の人がおすそ分けをする代わりに使わせてもらったりしていた。だからY夫ちゃんの家には結構食べ物が豊富でいざ腐りかけるとわけてくれたりした。それを食べて腹痛で苦しんでいると思った。でも戸を叩く勇気はなかった。どう相談したのかは覚えていない。木戸をあけて縁側に回った二人が窓越しに見たものは真っ最中の姉ちゃんとY夫ちゃんだった。最初は何をしているのかわからなかった。いわゆる後背位でただパンツを脱いだY夫がやはりパンツを脱いで四つん這いになったお姉ちゃんのおしりに下腹をぶつけてるとしか思えなかった。掃出し窓に近づいてよく見るとY夫のペニスが出入りしているのがわかった。Y夫はすでに毛も生えていて大きさは米兵には当然負けるが俺の三倍くらいありそうだった。二人とも苦しそうな顔をしている。結構長い時間見てたような気がする。Y夫の動きに合わせて姉ちゃんが「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ...」と声を上げているのが何故か面白かった。Y夫が動きを早めて強く打ちつけると姉ちゃんが四つん這いのまま逃げた。Y夫ちゃんは追いかけるが姉ちゃんは「口でしてあげるから」と言いながら逃げる。してあげるっていいながら逃げるのはずるいと思いながらS子をみるとの動きが止まってしまって俺の手をぎゅっと握っている。「いこ」と言ってそっと通りに出た。庇の下から出るとすぐにびしょ濡れになった。とりあえずお姉ちゃんの家の玄関先で立ってるとY夫ちゃんとお姉ちゃんが一緒に出てきた。びしょ濡れになった俺たちをみて姉ちゃんは「しょうがな
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それからもS子とは何度も「おまんこ」をした。なぜ「カッコ」付かと言うと前にも書いたがその当時の俺にとっては「おまんこ」は隠れてする遊びの呼び名で性器の名称ではなかったからだ。これはS子も一緒で男女か
かわらず性器の名前は「チンチン」だった。
ただ変わったのは二人きりでする機会が増えてほとんど(というか100%)S子が誘ってきたと言う事だ。
特にしゃぶるのが好きみたいで暇さえあればしゃぶっていた。
最初は「チンチンなめる?」と聞かれる。これは「あなたのペニスをなめましょうか?」ではなく「私のカントをなめたいですか?」の意味だ。その意味が解ってからは嫌な時は「ううん」と拒否したのだが思い通りになったのは2~3回だけで次からは「じゃあS子が舐めてあげる」に代わって舐め始めたら俺の顔の上に下腹を載せて舐めることを強要する。つまり状況は変わらないので物分かりの良い俺は「う」を一つ減らして平和を維持する方を選択した。
結局69なのだが「なめっこ」と呼んでいて「おまんこ」と言う言葉とセットだとおもっていた。Y夫ちゃんと鈴○の姉ちゃんは「はめっこ」と言っていたので「おまん」は「はめ」と同じような意味だと思っていた。
そのお蔭かどうかはわからないが俺のペニスもすっかり剥けてしまい勃起すると亀頭が出るようになっっていた。なめっこをして亀頭が出て唾液で双方が濡れるとS子の性器にもするりと入るようになった。
外で遊びたいので避けたい気持ちもあるけれどあの「ムズムズ」や上気した顔とキスの時の口の熱さが好きだったりもするので言いなりになっていた。少なくとも姉ちゃんやばあちゃんの尻に入れるよりよっぽど良かった。
S子の母親の尻に入れるのは好きだった。後で書くが黒人兵の巨大なものが呑み込まれるアヌスだから締りが良いわけではなかったと思う。多分綺麗だったからだ。糞が付くことはなかった。
Y夫が一度S子に入れようとして姉ちゃんがものすごく怒ったことがあった。
Y夫もそんなに深刻じゃなくて胡坐の上に座らせてテレビを見させているうちにいたずら心が出たのだと思う。実際それまでいちども触ったり舐めあったりと言う事もなかった。
その時俺たちは幼児向け番組をやっていたテレビに夢中で、Y夫がS子のパンツを脱がせて両脇を持って上げてペニスの上に降ろそうとしたらしく、急にS子が痛いと叫んだので気が付いた。
横で寝転がって雑誌を読んでいた姉ちゃんが飛び起きてY夫に殴り掛かった。最初はすごい剣幕だったが結局は二人でばあちゃんの家(つまり姉ちゃんの家)に行ってやっていた。
番組が終わってテレビの消し方がわからないので呼びに行くと、さっきS子にしようとして果たせなかった体位でしていた。
声をかけてみたが答えてくれない。そのまま二人で玄関に座って待っていた。
姉ちゃんが一度離れて下半身を持ち上げて再び繋がったが入れたのは前ではなく後ろ、アヌスだった。
姉ちゃんが腰を上げるたびに抜けてうまくいかないみたいだ。結局バックで尻に入れてアナルをした。パンパンパンと大きな音がする。ばあちゃんが動いて脚が広がった。ズロースの股の所が濡れているのを見てしまった。ああ、これが赤ちゃんの素だと思った。
でもY夫はばあちゃんに乗っからないでそのまま姉ちゃんに入れている。姉ちゃんはこの間みたいにまた逃げるのかなと思ったが逃げなかった。Y夫が「べろべろべろ」といって動きが止まった。離れると姉ちゃんの尻の穴から白い液体が出てきた。赤ちゃんの素は尻からも出るんだと思った。
姉ちゃんはちり紙で自分の尻を拭き取ってY夫のペニスも拭いた後、手拭いを濡らしてきてもういちど自分を拭いてY夫も拭いた。
そして「ばあちゃんがかわいそう」というとY夫のペニスを咥えた、その姿を見てS子もおれのペニスを舐めはじめた。
姉ちゃんがばあちゃんのズロースを脱がすとY夫が間に入ってまた腰を振り始めた。姉ちゃんはそれを見ながら自分の指で「まんこ」をしていた。
Y夫の動きが早くなってきたころ俺も例の「むずむず」がやってきて思わず声を出した。
「べろべろべろ!」
姉ちゃんが手を止めて「なにそれ」と笑い出した。S子は訳が分からずきょとんとしている。俺は小さな子が言ってはいけない言葉を言ってしまった思いものすごく恥ずかしかった。
「べろべろべろ」が「出る」の連呼だと言う事とそれが何を意味するのかを知るのはまだ後の事だった。
そんな昔の事をなぜ覚えているのだろう。勿論覚えている事よりも忘れたことの方が多い。今書いている一連の性経験は自分にとってインパクトが強かった分、記憶にの残りやすかったこともあるだろう。事柄の性質上、成長過程で何度も思い出し、小学校高学年のころに書いていた日記のようなメモにその時点での考えや記憶を書き残したものがあったと言う事と、中学校のころに当事者たち何人かと再会して話したことが大きかったと思う。しかし自分の記憶なのか他人の記憶を聞いたものなのか、前後の話から類推しての推測が記憶として置き換えられたものなのかははっきりしない部分もある。不思議なのは自分の視線で見た映像と俯瞰した映像の二種類があることだ。連続した動画のような映像はあまりない。俯瞰の映像や自分が描かれている動画の記憶は後で組み立てられたものだと思う。その証拠に俯瞰した映像の服装はいつも同じものであまり多くはない写真の中で着ていた服装だ。たとえば全裸だったのか、下半身だけ脱いでいたのか?と考えてみるといくつかのシーンが浮かんでくる。まず、ばあちゃんの家では他人が急に入ってくる心配もほとんどないし部屋も手前の部屋ではなく奥の部屋だったので暑いまたは暖かった時期は裸だったと思う。しかし映像として浮かんでくる中のS子は汗をかいていても上半身は着衣だ。これについては考えたことがある。自分がしているときの体勢は当然見たことはないが、下にいるS子はそんなに脚を開いてなかったように思う。良くはわからないが多分幼児体型だと下付きではなく前付きがなのか、いくら体が柔らかいと言っても正上位で大人のように相手の膝小僧に両手を置いて水平に突くとか、両腿をを抱え込んで上から下に突くと言うような体位は無理だったようだ。必然的に蛙開きした相手ににぎりぎりの角度で斜め上から突く形になることが多い。騎乗位はできたが長続きはしなかった。だんだん前のめりになって胸と胸がくっついてクリトリスを擦り付けている体勢になってしまう。そうなると体温が高い子供だと汗でくっついてしまい動きにくい。だから上だけを着ていたことが多かったんだと思う。もっと重要なことは必要性がなかったから、つまりS子はまだぺったんこだったから触るとか、揉むとかの必然性がなかったからだろう。そんな事もあり「はめっこ」はバックが多かった。でもS子は逆正上位で抜けてしまったらそのまま恥骨のあたりに押しつけながら動かす素股のパターンが好きだった。膣で感じられる年齢ではないので仕方がない。無意識のうちにクリトリスにあたるような体勢をとっていたのだと思う。それに比べると俺は精神的な満足感の方が大切だったような気がする。最終的に「ムズムズ」はあっても不満足なものだし入れれていてもものすごく気持ちいのではなくなんとなく気持ちいいだけなので相手が気持ちよさそうな言葉を発したり表情をしたりするのが楽しかった。後には慣れたけれど剥け始めたころはその状態で舐められるのは苦痛以外の何でもなかった。痛くはないから苦だけかな?苦しいような切ないような妙な気持だった。S子と二人きりの時は「はめっこ」より「なめっこ」のほうが多かった。その時は下半身だけ脱いで舐めあってたまに膣や肛門に指を入れて暖かさを楽しんでいた。S子もよく俺の肛門に指をいれていた。その時は排便の快感に似た高揚感みたいなものを感じた姉ちゃんとY夫ちゃんは付き合っているとかそういうのではなかったと思う。Y夫の母親は明らかに姉ちゃんを嫌っていたし、後で知ったが父親がばあちゃんの一家に親切なのが気に入らなかったようだ。かといって固い親なのかと言うのではない。どちらかと言えば逆だ。派手で遊び好きと言う感じだった。このおばさんは俺をかなりかわいがってくれていた。姉ちゃんとY夫もばあちゃんの家でするときはいつも裸だった。冬は靴下を履いたままと言う事もあったが基本的に全裸だったと思う。ただ最初にY夫の家でやっているのを見た時は下半身だけ裸だった。家族の帰宅や客の来訪を警戒していたからだと思う。二人は胸を舐めたり舐められたりが好きだったから一番多く記憶している姿はY夫が仰向けに横たわってその右手がばあちゃんの性器を触っていて、顔の上には姉ちゃんの胸が来て乳房を頬張りながら左手は姉ちゃんの性器を触っている姿だ。面白かったのは両手は違うものを触っているのに左右同じ動きをしている事だった。そうするとばあちゃんの出す声と姉ちゃんの出す声が同じタイミングででるので楽しんでいたのかもしれない。姉ちゃんの身体はいつもキスマーク(そんな言葉は知らないのでただ、「アト」と呼んでいた)だらけだった。S子が面白がって俺の身体にたくさん付けて親に見つかったことがある。その時は学校で遊んでいたら(その頃は児童公園なんてものは少なかった)知らない大きいお姉ちゃんが面白いことしてあげるっていって付けられた。嘘をついて逃れた。S子はそんな感じでよく姉ちゃんの真似をした。騎乗位もそうだ。姉ちゃんの騎乗位は今思い出してもリズミカルで楽しそうだった。「チャッ、チャッ、チャッ、チャッ」音を立てながら腰を上下させていた。そしてY夫の「べろべろべろ」が出ると動きを止めてばあちゃんに代らせたり
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