私が妻と知り合ったのは、私が大学3年、妻が高校2年を終えた春休みで、同じバイトをしたのがきっかけでした。
私は一目妻を見て、こんな美少女がいたのかと驚き、今後はアイドルとしてデビューするレベルだとさえ思いました。
だから、とても優しく接していたら、妻は私を優しいお兄さん認定、3月末にバイトが終わるとき、妻の方からまた会ってほしいと言ってきまsた。
私はもう有頂天、こうして大学4年生と高校3年生のカップルが誕生したのです。
ほどなくしてやってきたゴールデンウィーク、妻は私のアパートにセーラー服姿でやってきて、隙だらけで誘っているように見えました。
セーラー服のスカートから露出した眩しいばかりの美脚に目がくらみ、思わず腰に手を回すと目を閉じたので、キス、そのままベッドに押し倒しました。
まだあどけなさを残す美少女のセーラー服を脱がす・・・私は、それが美少女から清純を剥ぎ取るような興奮を覚えて、既に痛いほど勃起していました。
スカートを脱がせ、純白のパンティには陰毛が透けて、陰裂が浮き出ていました。
セーラー服と下着を脱がせると、白いブラ、これを剥ぎ取り、まだ膨らみきってなさそうな乳房を揉み、小さく尖った乳頭をしゃぶりました。
まだセックスを知らない妻が、初めて身体を許す程愛された男になれた歓びに浸りながら、最後の砦のパンティを脱がしました。
そして細い足首を掴んで脚を開かせ、その白い太腿の綺麗な肌に舌を這わせ、洗ってない少し匂う美少女の陰裂に舌先をこじ入れ、陰核を転がし、妻を喘がせました。
初めて脚を開かされ、股間を晒され、舐められたた妻は、そのあまりの恥ずかしさで意識が混乱しているようでした。
でも、陰核に与えられた快感で、好きな男の陰茎を求めている淫らな自分の存在を悟って頬を染めました。
十分に濡れた膣口に生の陰茎を添え、ゆっくり入れました。
狭い処女膜に体重をかけ、ズルッと突貫し、処女喪失を感じたので、グイッと妻の腰を上げてマン繰り状態にして、腰元にバスタオルを敷いて出血に備えました。
目を閉じて、破瓜の痛みに耐えつつ、好きな男の陰茎に貫かれて一つになった歓びに浸り、目じりから一滴の涙を流した妻が、とても可愛くて抱きしめました。
私は、射精を我慢することなく、最初の射精感で抜いて妻の17歳の身体に射精しました。
私はその時の一部始終を、一生忘れないでしょう。
その時の妻の身体を貫いた瞬間の陰茎が感じた感覚を忘れないでしょう。
この後、度重なる性交経験で痛みは無くなり、セーラー服が紺から白に変わった頃には、快感に身を捩るようになっていました。
古いガラケーに残る妻の写真、夏のセーラー服姿のあどけない笑顔は、とても非処女には見えません。
その笑顔は、撮影した数時間後にはセックスの快楽で恍惚とさせたのです。
その頃、セーラー服の上は脱がさぬ方が萌えると気づき、下だけ脱がせてセックスし、その様子もまたガラケーに記録されています。
マックで撮った一枚、紺色のスカートから見えそうで見えない太腿の奥には、安全日で中出しした私の精液の流出を抑えるためのナプキンを忍ばせていました。
どう見ても処女にしか見えないその清純そうな笑顔の下には、中出し精液に仰け反った淫乱を隠し、子宮には私の精液を湛えていたのです。
妻は高校、私は大学を卒業すると就職、母子家庭の妻は早々に私を義母に紹介しました。
美少女の妻の母親は、若い頃に庶務課の「伊藤麻衣子」と言われた美人で、確かに「いとうまい子」さんに似た可愛い系の美人でした。
妻が小3の時に離婚して以降、女手一つで育てたような苦労を感じない、若々しい女性でした。
私24歳、妻20歳で結婚、毎晩淫らな行為に耽り、若い性欲を爆発させました。
妻は22歳と25歳で娘を出産、二人目が生まれたことで私たちは妻の実家で暮らすようになりました。
義母はそれまでの仕事を辞め、妻をアシストして、時々義母に娘たちを預けて、夫婦でデートしました。
夫婦のデートの目的はラブホ、家ではできない、妻が大声で喘ぐような破廉恥なプレイを楽しみました。
そんなラブラブな夫婦生活は、7年で幕を下ろしてしまいました。
人妻になっても可愛いままだった妻は、男に付きまとわれ、歩道橋で腕を掴まれ、逃げようとして転倒、階段を転げ落ちて亡くなってしまいました。
27年の妻の人生が、7年前、終わりました。
私は、妻の実家を出ることなく、義母に娘を託し、仕事に打ち込みました。
この先、あまりにも妻を愛しすぎていた私は、再婚することは考えませんでした。
娘たちと義母の4人で、亡き妻を弔って生きていく覚悟でした。
5年前、妻の三回忌を終えた後、娘たちが寝静まってから、義母とお酒を飲みながら、妻の思い出名話をしました。
ほろ酔いの中、53歳にはとても見えない奇跡的に可愛いg簿の顔を見ていたら、妻に見えてきて、妻の名前を呼びながら抱きついてしまいました。
「ダメよ、私は娘じゃないのよ。」
という義母の口をキスで塞ぐと、義母は、舌を絡めてきました。
そして、私の手を取り、
「私の部屋に行きましょう・・・」
と、私に抱かれる覚悟を決めたようでした。
義母の部屋に入ると、布団が敷かれてあり、義母はゆっくりとパジャマを脱ぎ始めました。
私も裸になり、53歳とは思えぬ若々しい女体の義母の隣に座り、改めてキス、義母を仰向けにして、妻よりも柔らかい身体を愛撫しました。
そして、足を開かせ、義母の陰裂を眺めました。
離婚して20年の義母の陰裂は、紫色の陰唇がはみ出ていて、それをかき分けるように舌を挿し込み、陰裂に沿って舐めあげました。
義母の色っぽい甘い吐息が漏れ聞こえました。
義母の陰核を舌先で転がすと、切なそうな声で喘ぎました。
ヌルヌルと少し酸っぱめな愛液が溢れ、入れ時を告げました。
義母の足の間に膝立ちになると、義母が身を起こし、
「立派なおチンチン・・・あの子、塩飽江だったのね・・・」
と言って、舐めてくれました。
いとうまい子さんにフェラされているみたいで、ゾクッとしました。
義母の膣口に亀頭をあてがうと、
「そのまま、中に出していいわよ。もう、終わったから・・・」
と言われ、生挿入しました。
義母の温かみを感じながら、抱き合い、舌を絡めて唾液を交換、本気で愛し合いました。
義母の喘ぎ声は妻ソックリで、切ないセックスでした。
褄より柔らかい抱き心地、妻より柔らかい膣内、でも、妻より浅い膣は、亀頭が子宮口に当たって、私も義母も強烈な快感に腰が震えました。
「お義母さん・・・イキます・・・」
「来て、出して、中に・・・」
ドクドクドク・・・大量の精液が義母の子宮へ届けられました。
「ああ・・・出てる・・・娘婿の精液・・・」
53歳の義母の子宮に33歳の娘婿の精液が注がれる、禁忌の生殖行為に興奮しながらの射精は、射精後も抜かずに義母を抱きしめていると、萎えかけた陰茎が再び硬くなり、義母へ抜かずの二発目を注ぎました。
「あいつが亡くなって以来、2年ぶりのセックス・・・お義母さん、ありがとうございました。」
「私なんて20年ぶりよ・・・でも、セックスって、いいわね・・・」
「あの・・・これからも、お義母さんを抱きたいです。アイツの次に愛してます・・・」
「ありがとう・・・私も、あの子の代わりに愛されてみようかしら・・・」
あれ以来5年間、現在38歳の私と58歳の義母は、夫婦のような生活をしています。
義母は、いとうまい子さんに似て、奇跡の58歳で、間もなく還暦には見えません。
アラフォーでも通るくらい若々しく、義母と買い物に行くと、夫婦みたいに見えたかもしれません。
義母との性生活は、週に4~5回あります。
義母から誘ってくることもあります。
私は、50代の女性の性欲がこんなにも旺盛だとは知りませんでした。
58歳でも十分に濡れるし、膣の中もとてもいい具合で、感じてくるまでは膣壁が絡まり、感じてくるとキュッと締まり、娘婿の精液を欲しがります。
私は、義母に愛の言葉をささやきながら、射精しています。
心から義母を愛し、義母もまた、心から私を愛してくれているのが伝わります。
この5年間の性生活で、私と義母は、男と女として、真剣に愛し合うようになったのです。
きっと10年後も、48歳の私は68歳の義母を抱いているでしょう。
義母との夫婦のような暮らしが、あと2年で妻と夫婦だった時間を超えます。
そして私が50代になり、性欲が衰えた頃、義母の性欲が衰えるんだと思います。
いつか娘たちも嫁ぎ、私は義母を看取り、妻と義母の思い出の中、一人暮らすでしょう。
その時が来るまで、私は義母を女として愛し、亡き妻を弔って生きていこうと思います。