>>続き性欲が旺盛な高校生だ、正直に言えば手を伸ばせば届くところにいる母と毎晩のように抱き合いたいと思った。しかしそんな気持ちとは裏腹に、母を女性ではなく母と感じるようになってしまったせいか、私の中に母をこれ以上汚してはいけないとい気持ちも芽生えた。私が母を求めても恐らく拒まないだろうが、それは凄く悪いことのように思えてしまい、何もできないまま1週間ほどが過ぎて行った。ところが母は少し違ったようだった。肌を重ねてしまったことで、母の私に対する愛情は母性愛から男女愛に変わってしまった。私は二人が肌を重ねる前よりも親密になったことを、本当の親子になれた思っていたのだが、母にとって私は息子ではなく1人の男になってしまった。3年と少しの間、仕事命の父に邪険にされ続けた母が、本来父に向けるべき感情を私に向けてしまったということだったのだろう。母もまた、私とは違った意味で毎日を我慢しながら過ごしていたのだと思う。先に我慢しきれなくなったのは母の方だった。最初の時から1週間ちょっと経った夜、私がパジャマ姿の母にお休みを言ってベッドに入ろうとした時だった。母が私を追うように部屋に入ってきたかと思うと、私にしがみつきながら唇を求めてきた。歯と歯がぶつかり母の舌先が入ってきた瞬間、私の我慢や慎み、母親観というものが如何に無意味であり無力であり無駄であったものだったことを思い知った。母は私をベッドに押し倒すと、再び濃厚なキスを交わしながら私のパジャマを脱がしにかかった。私を全裸にすると自分も全裸になって、再び覆いかぶさって来て私の体を唇と舌を使って執拗に愛撫した。私は母の情熱に圧倒されて、ただ母にされるがままになっていた。初めての時と同じように母が勃起したペニスに数回キスをしたので、そのまま挿入するものだと思って身構えると、挿入ではなく口に含んだ。生まれて初めて味わうフェラチオの快感に全身に電気が走るほど感じたが、実はその日の夜は風呂で母とのことを思い出しながらオナニーをして一回抜いた後だったので、何度か射精しそうになったが耐えることができた。余裕と言うほどではなかったが、それでも母のフェラチオを十分に楽しむことができた気がした。それでもあまり長く続けられていたら危ないと思ったので、無心にしゃぶりついていた母に「俺にもさせて」と言って、一旦止めてもらった。母が私から離れ仰向けになり体の力を抜いた。私は何日も食べていない飢餓状態の時に目の前に出された御馳走を食べるかのように、母の美しい体に貪りついた。いけないことだと我慢していた思いが母の行動で吹っ切れたので、初めての時から夢にまで描いていた母の体を思う存分味わおうと思った。唇、舌、口の中の粘膜、乳首、腋の下、へそ、秘所、後ろの穴、手足の指一本一本、唾液、秘所から溢れる蜜、母の体やそこから出てくるものすべてが愛おしく思えた。「誠、来て…」私が母の秘所をしつこく愛撫していると待ちきれなくなったのか、上体を起こして私に悩ましい視線を投げかけてきた。私が母の上に重なると、母は手を伸ばしてペニスを導いてくれた。そのまま腰を前に突き出すとペニスは根本まで母の中深くに納まった。母は「はぁ~っ!」っと大きく喘ぐと背中を反らせながら私の背中に指先を食い込ませた。私が腰を動かし始めると、粘膜同士がこすれ合う湿った音と二人の荒い息が狭い部屋に響いた。この夜の母は情熱的と言うか妖艶だったというか、初めての夜とは違い喘ぎ声も上げたし私に対する愛撫もとても濃いというか執拗だった。経験の無い私に女性の悦ばせ方を教えながら、して欲しいことを貪欲に求めてきた。私は教えられた通りに母を悦ばせることに没頭したが、母も私の体を貪るように愛してくれた。学習と復習ではないが、1回終わるごとに教えてもらったことを次の時に試してみる、自分なりに工夫してみるといった感じのことを明け方まで繰り返した。多分4~5回くらいセックスしたと思うが、翌朝は二人ともお昼近くまで起きることができず、私のベッドで抱き合うように眠り込んでいた。母が先に目を覚ましてランチの用意ができたと起こされるまで、私は母が起きたことも気付かないほど熟睡していた。半分寝ぼけながらランチを摂ったあと、母に言われてシャワーを浴びて前夜母と愛し合った際に私の体に沁み込んだものを洗い流した。母も「私もさっき起きたばっかりだから」と、私と入れ替わるようにシャワーを浴びた。二人は完全に吹っ切れた。もちろん父を始め他人に対しては「普通の親子」を装ったが、その日を境に完全に思合う男女に変わった。父が帰省した時以外は風呂も寝るのも一緒、テレビを観る
...省略されました。
>>続き話しを戻して、父が他界してからのことを詳しく書く。父が亡くなった直後の半年ほどは相続や引っ越しでバタバタしたが、不謹慎な話だが、その間も母との関係は休むことなかった。むしろ人間の死に直面したせいだろうか、普段よりも激しいほどだった。通夜の晩こそ色々な人が来たし父の田舎の風習で一晩中起きて棺に入れる鶴を折ったり、父の田舎から来た親類の相手をしながら斎場で過ごしたが、告別式の夜は親類も皆帰って誰もいなくなったので、家に戻ったあとに翌日の朝方まで激しく求め合った。相続のことで会社から休みや半休をもらい母と二人で銀行や役所に何度も行ったが、そ子での用事を済ますと、昼間からホテルや自宅でお互いの体を貪り合ったりもした。どちらかがと言うことではなく、お互いにお互いが欲しくなるからどうしても激しくなったのだろう。よほど疲れているとか体調が悪かったりとか飲み過ぎたりしていない限りは、帰宅して食事と風呂を済ませると、見たいテレビでもない限りは10時には二人でベッドに入り飽きることなく未明まで愛し合う毎日だった。特に今のところに引っ越してきてからは家具をそろえる時に大きなWベッドを買ったので、最初から広々としたベッドの上で愛し合った。母は44だったが子供を産んでいなかったことと、恐らく私を悦ばせるために努力をしていたのだろう、年齢による体の緩みは若干あったものの、体の線はきれいなままだった。そんな母の心も体も独り占めし、毎晩のように隅々まで愛することのできる自分をとても幸せな男だと思っていた。前の方にも書いたが、母も私も子供が欲しかった。父の生前は母が妊娠してしまうことを恐れ、二人とも避妊にはそうとう神経を使っていたが、父が亡くなり新しい土地に引っ越してきたこともあり、子供を作ろということになった。母は長年続けていたピルの服用を止め、不妊相談に行ったりもするようになった。私も精液が濃くなると言われているようなものを食べたり、アルコールを控えたりしながら、母との子作りに励んだ。しかしそんな二人の努力もむなしく、母は子供を授かることなくもう少しで51才になるという頃に閉経した。とはいっても子供だけが希望ではなかったので、母の閉経後も私の母に対する気持ちは変わらなかった。閉経したことで「もう子供ができることはない」と言ってがっかりする母を慰めながら、それまで以上に母の体を愛し、母もまた十分に応えてくれた。ところが私が33才になると、母が私に「早く若い女性と家庭を持って子供を作れ」というようになった。私は母と二人きりの生活を送っていきたいと言ったが、母は「私が誠の子供を産めない以上、誠に家庭を持たせるのが私の責任」と言って聞かなかった。それでも私が言うことを聞かないでいると、母は私の求めを拒むようになり別の部屋で寝るようになった。家の中での会話も減り、まるで家庭内離婚のような状態が半年ほど続いた。私は30を過ぎたというのに、たまった性欲を発散するのに人生で初めてソープランドに行ってみたりしたが、やることなすこと全てむなしく感じていた時だった。2~3日実家に帰ってくると出かけた母が、土曜日の午後に母が若い女性を連れて帰宅した。私はその女性の顔を見て、一瞬呼吸が止まりそうにった。なぜなら、私が子供の頃の母にそっくりだったからだ。この女性が今の妻だ。母から「誠はこの子と中学校に入ったばかりの頃に会ったことがあるのよ」と言われた。私が思いだせないでいると、私にとっては従妹にあたる女性だと言われた。そう言われてみれば、母方の法事かなにかの席で小さな女の子を「従妹」と紹介されたことがあったのを思い出した。母の姉の娘で、私とは血の繋がりはないが従妹にあたる女性でこの時28才だった。3人でお茶を飲みながら世間話をしていたが、小一時間も話をして頃だったろうか、母は唐突に私にその女性と一緒になるように言った。その日の夜彼女はうちに一晩泊まり、日曜日の午後に田舎に帰っていった。彼女を駅まで送って行ったあと、久しぶりに母と親子らしい会話を交わした。どうやら母は子供を諦めた直後から、母の姉とで私と従妹の結婚についていろいろと話をしていたらしい。「誠が気に入ってくれる女性は、あの子しかいないと思った」と母は言ったが、いきなり結婚しなさいと言われても「はい」と言えないので、先ずは付き合ってみると母に告げた。母も了解し、早速田舎に電話していたようだった。付き合うといっても離ればなれだったので、会社の帰りに待ち合わせをして会うということはできず、月に2度ほど泊りがけで行ったり来たりしながら会っていた。付き合い始めて半年ほどたった頃だった。その前に彼女の田舎で会った時に彼女と初めてキスを交わし結婚の約束をしたが、それを聞いた母が気を利かせたのだろう、ディズ〇ーランドのそばのホテルをペアで取ってくれ
...省略されました。