糸口
『あいこ』が姉から無理矢理借りた、『8万円』のワンピースをクリーニングに出しに行ったので、僕が家に帰り着いた時には、もう夕焼けも夕闇に変わっていました。
『イージーミスで、「8万円」も弁償させられたんじゃ、たまんないからな…』
僕の近所のクリーニング店には、『デキる店』と『ダメな店』と『クソな店』があります。僕と父の服は『ダメな店』でも、家から『近い』と言う理由だけで、平気で母に出されてしまいます。でも女たちの服は絶対に『デキる店』に頼まないと、とんでもない事になります。不公平です。
玄関を上がると、熱気の残る空気がぶつかってグレープフルーツの香りを撒き散らしました。その爽やかさで、ホンのちょっと暑苦しさがやわらぎました。
匂いに釣られて居間に入ると、テーブルの上に乱雑に剥いたグレープフルーツの皮を山積みにして、香りと汁にまみれた姉がグレープフルーツと格闘してました。
「おはへり~~~。」
姉の両手はビッチャビチャで、グレープフルーツの房を頬張っては、手についた果汁も嘗めたり、指をすすったりして、相変わらず汚い食べ方をしていました。『あいこ』とケンカした後だったんで、『ヤケ食いか…?』と思いました。
我が家では、『グレープフルーツは剥いて食べろっ!』と言うのが、暗黙のルールとして確立しています。
以前は僕たちも普通に、ふたつに切ってスプーンですくって食べていました。食べ終わった後は、皮をギョウザみたいに畳んで潰して、まだ残ってる果肉を搾って、甘苦い汁を飲むのが僕たちの定番で、それが『醍醐味』でした。
ある日、母がお茶会を開いた時にグレープフルーツを出しました。お客さんたちが皆、スプーンを置きました。食べ終わったようなのに『醍醐味』を味わってないので、『もったいないよね?』と姉が言いました。
僕は、一応お客さんたちに許可をもらってから、いつものように実演して『醍醐味』を教えてあげました。お客さんたちが喜ぶので、姉もいっしょに出されるまま、みんなの食べ残しで実演してあげました。僕たちは大満足で、お客さんたちは大喜びでした。
お客さんたちがいなくなってから、『リッちゃん』が大噴火しました…。
そのグレープフルーツを買って来てくれた『噴火口』が見当たらなかったんで、僕は姉に聞きました。
「お母さんは?」
「『お夕飯の支度で、汗かいちゃった~!』で、シャワータ~イム。」
「ふ~~~ん。」
僕の問い掛けに返してきたトーンが、いつものバカ調子だったんで、『もう、怒ってないのかな?』と思いました。
「ともゆき…、『あいこ』、何か言ってた~ぁ?」
「………、別に、」
「あ~~~、沢尻エ〇カ~~~! ムカつくぅ~~~!」
やっぱり、いつものバカに戻ってきた感じだったんで、『切り替え、早くね?』と思いました。
僕たち男子のケンカなら、最低でも一週間は無視だし、仲直りしても1ヶ月くらいはギクシャクしてるはずです。さっき別れ際の『あいこ』もあんまり怒ってなかったみたいだったんで、『サッパリしてんな~』と感心しました。
「…心配してたんだよ? すごく…」
「解ってるわよっ!」
意外に『サッパリしてる』と感心してたところだったのに、ブチ切れたのかと『ドキッ!』とさせられるトーンの返事を、いきなりバカがブッ込んできました。
僕は完全に意表を突かれて、バカ姉ごときにビビッてしまいました。ひょっとして『こじれてんの…?』と思ったら、続けなくちゃいけない言葉が、ノドチンコに引っ掛かってしまいました。
「…お、…教えてやれば、いいんだよ。」
「アゴォ(何を)ーっ!?」
グレープフルーツを『がぽっ!』と頬張って、バカがブッサイクな顔をしながら、思い切り睨んで威嚇してきました。僕はチンポを握られ、咥えられ、挿入させてもらった弱みから、キンタマが『キュ~ッ』と縮み上がってしまいました。
ブッサイクな顔で睨みつける目に、さっきまで散々『あいこ』に威かされてた恐怖がフラッシュバックしてきて、目眩がしました。さらに縮み上がったキンタマに胃袋を突き上げられる感じがして、さっき嘔吐きまくった気分が戻ってきました。
「…赤ちゃんの、お父さん。」
切ない気持ちの中で、吐き気よりも先に頭の中に昇ってきた物がありました。なぜか『あいこ』がしてた、あの『しかめっ面』の記憶でした。
「じゃ~あ、ともゆきって、コトで!」
弟と、弟の『彼女』の心配なんかガン無視してイイと思っているのか、用意しておいたみたいな『ふざけた答』をサラッと返してきたので、マッハでイラッと来ました。切なさと『あいこ』の顔が重なると、僕はやっぱり『言わなくちゃ…!』と思いました。
「そんなんだから、『あいこ』が怒るんだよっ!」
「いーーーいじゃん、別に! 『あいこ』が怒ってる内なら、まだ平気~~~!」
「わざと、怒らせてんの?」
「そっ! それで良いのっ! それで平和なの~~~。」
「何だよ、それっ!?」
「お父さんにも、お母さんにも、あんたにも教えてないのに、『あいこ』にだって教えるワケないでしょ~~~がっ!? 赤ちゃんのタメでしょ~~~がっ(注・田中邦衛口調)!?」
「ふざけんなよっ! 真面目な話してんだぞっ!?」
「あたしはねぇ~~~っ? この子を産みたいだけなのっ! 今は『それ』だけなのっ! 無事に出産できれば、そんでいーーーいのっ! 生まれてから聞けばいーーーでしょっ!!」
僕と『あいこ』の苛立ちは、バカの頑なな『決意』に弾き返されました。一旦こうなってしまうと、例え『あいこ』がガチでブン殴ろうが、『ジャーマン』を連続で掛けようが、もう姉は絶対に『曲がらないだろうな…』と思いました。
「でも…、何で? 何で教えられないの? 結婚とか出来なさそうなのは分かるけどさ、ずっと隠さなくちゃいけないって、おかしいじゃん!?」
「うっさ~~~~~い!」
「赤ちゃん、産みたいんでしょ? やっぱり赤ちゃんのお父さんともさ…、話し合いとかさ…、しなくちゃマズいんじゃないの? そんくらいしても、いいんじゃないの? それとも、赤ちゃんの事教えたら、産めなくなっちゃうの?」
「え~~~~~っ?」
「邪魔しに来るような悪いヤツなの? 『あいこ』にバレたら、『あいこ』が確実にキレるくらい悪いヤツなの? 〇人事件が起こるくらい、ヤバいヤツなの? その子のお父さんって…」
腹から言葉を思いっ切り吐き出してたら、ついさっき脳ミソに刻み込まれた『「あいこ」の覚悟』の意味が、何となく僕は『見えて』きました。物凄くリアルに感じ始めた全身に、鳥肌が立ちまくりました。
「………やめてっ! ともゆきが言うと、ホントになりそうで、怖いっ!!」
僕の言葉を受け付けなかったバカ姉でしたが、僕の恐怖心だけはビビッと伝わったみたいで、やっと普通の反応が返ってきました。耳を塞ぐビチャビチャの両手に絡むバカの髪の毛が無茶苦茶気持ち悪くて、マジに『惨劇』が起こりそうな気がしてきました。
「…マジで? 何で、そんなヤツの…、………ホントに産むの?」
「産むよっ! あたし、絶対、産むっ!!」
成り行き任せの『いきあたりばったり思考』のバカのクセに、信じられないくらいの固い決意を見せるので、どうしてなんだろうと思いました。
これが他の女の人だったら、『女性本来の強さなのか?』とか『母親になる女性の覚悟なのか?』と、素直に驚嘆感心するところですが、そこは僕の姉なので、
「何か、善い事あんの?」
と思いました。バカのくせに負けず嫌いで、ケチ臭くて、がめついので、絶対、自己中的な打算がありそうな気がしました。バカとマンコでつながってしまった、弟のカンです。
「何よ、それ?」
「だから、赤ちゃんが大きくなったら、足が速くなるとか? 姉ちゃんより、頭良くなるとか?」
「えっ!? 頭良くなるの?」
「赤ちゃんのお父さんが良かったら、良くなるんじゃない?」
と、僕が言ったら、脳天気に赤ちゃんの『明るい未来予想図』しか画かないバカは、僕の言葉でさらに明るい可能性が広がったのか、急に機嫌が良くなりました。
「へえ~~~~~。なるかな? なるかな?」
「姉ちゃんのバカな遺伝力より、お父さんの遺伝力が強ければの話だけど。」
「え~~~~~っ? なるよっ! なるっ、なるっ! なるんだも~~~~~ん!」
僕は聞いていて、『どっから来るんだよ? その自信は…』と思いました。バカより強い遺伝力を持ってる『ヤツ』って『どんなんだよ?』と呆れていました。
呆れながら、嬉しそうにグレープフルーツを食べてる姉の、何モノにも淘汰されない明るい顔を見てたら、僕の頭の中の『どんよりした曇り空』の中から、一筋、ほっそ~い光が射してきました。
「……………、えっ?」
「んん? 何、ナニ?」
「………、赤ちゃんのお父さんって、頭の良い人なの?」
「……………、んん?」
僕が何の気無しに思った一言に、バカの様子が変わりました。わざわざ顔まで作って、余計な『前のめり』の格好になって、『怪しい工作』をこしらえました。
『あれっ? その「とぼけ面」、最近、どっかで見たぞ?』
と思ったら、『曇り空の分厚い雲』に明るい切れ間が現れました。