決心
父の怒声はムアッとする居間の暑苦しい湿気を吹き飛ばして、生々しく残酷な結論を導こうとする渇いた心に、落ち着きと反省と、逆にほんのちょっと、潤いをもたらしました。
僕は正直、姉を妊娠させたヤツが心底嫌いでした。その気持ちから捩曲がった怒りと嫉妬心が膨らんできていました。
その男が誰なのか分からなかったので、ぶつけようの無い歪んだ憎悪が、お腹の中の新しい『命』に八つ当たりしていました。自分でも無意味な憤りだと解ってはいても、何だかすごく憎たらしく思えてなりませんでした。
姉に対する弟の幼稚な独占欲と、心の奥底に開いてしまった『近親相姦』の禁断の快楽に浸りたい『甘え』も相まって、ろくでもない事を妄想していました。
何の根拠も無く無責任で『残酷な結論』だけが、全てを綺麗サッパリ元通りに、丸く収められると都合良く考えていました。僕は最低でした。
「母さん、『まさみ』に、じゃない…、腹ン中に居る『子供』に言ってみな? 言えるか? 『死んでくれ』って…」
そんな勘違いもはなはだしい、思い上がった僕の性根に、父の投げた直球が飛び込んできました。『守護神』を気取ってるゴールキーパーの顔面に、思い切り野球の硬球がぶん投げられました。
「『便利』な言葉でさ、ニュアンスだけを変えたって、結局は人をひとり殺すんだ。折角立派に育った『命』をさ…。腹の中に居る内だろうが、出てからだろうが、関係無い。勝手な理屈をこねて、さも『当たり前』だと、何の情け容赦も無く『殺す』んだ。」
父の直球は僕の胸に突き刺さりました。物凄く痛いボールでした。僕の『解ったような』甘っちょろい頭で造った『偽善』が、木っ端みじんに粉々にされました。頭がタコ殴りされる痛さでした。
「……………、解りましたよ。私も言えません。言えませんよ…。この娘と同じ『命』を、私も授かった身なんですから。」
母が静かに父の肩に手を置きました。母も遠からず僕と同じような事を思っていたようでした。周りの目を気にし過ぎて、取り返しのつかない『間違い』を平気でやる所でした。
「間違ってはいるよ? けどさ…、『まさみ』のお腹の中の『子供』も、やっぱり同じだよ。俺の家族だよ。俺は『家族』が増えるのは嬉しいんだ…。」
「『家族』ですねぇ…。」
「まったくよぉ~。ハッキリ言って面倒臭ぇけどよぉ。それでも、やっぱり俺の『家族』だわなぁ~? しょうがねぇーなぁーーーっ。」
そう言いながら父が頭をかくと、髪の毛から大きな汗の粒が飛び散りました。その粒を見て『あっ』と汗まみれになっている自分に気付いたらしく、汗でびちょ濡れになった右手を眺めて、照れ臭そうに母に微笑みました。
父は、親兄弟がちゃんと揃っていて、親類縁者も大勢いる母とは違って『ひとり』でした。僕は父方の親戚と、まだ誰ひとりとも会った事がありません。
父は複雑で面倒臭いモノを、山ほど背負った生い立ちです。(お断りしておきますが、『近親相姦』とかではありません。)僕には良く解らない『モノ』がたくさん絡まっています。
そんな『寂しい』事情を良く知っている母は、父の言葉の意味を汲み取って何も言わなくなりました。ただ黙って微笑み返しました。
父は父親としての『責任の取り方』を見せて、僕たちに『後ろ向き』じゃなくて、『前向き』で『胸の張れる』姿勢の、『責任の取り方』を教えようとしていました。
父は今よりも明日、明日よりもその次の、未来を考えていました。人間として『人間らしく』生きていく事を考えていました。
僕はと言えば、取りあえず『今』が全てでした。明確な目標も持たず曖昧で、差し迫った問題に追い込まれないと動けない、ダメな奴でした。
だから試合のポジションも中途半端なセンターバックでした。ディフェンダーの役にもなれない単なる昔の『バックス』でした。
生意気にチンポだけは立たせて、ヤッちゃいけない姉のマンコにたまたま突っ込んだくらいで、『一人前』を気取っていました。
ホントは何にも出来ないクセに、『サイテー』の中の『最低野郎』だと言う事は棚に上げて常識人ぶって憤って、自分には何の責任も及ばない『表面だけの取り繕い方』に賛成していました。
そんなちっちゃくてセコい方法しか考えつかない僕に、父の直球は痛すぎました。痛くて苦しくて恥ずかしくってたまらなくなって、目の前の光景すら直視出来ませんでした。
僕は目を開けていられなくなって、ついさっきの父のようにガックリうなだれて、立ったまま父よりも小さく小さく固まってました。
「『まさみ』…、その子を産みたいんだったら、立派に産んでみろ。」
今までの凍り付いた空気を溶かすように、父はいつものトーンで姉に話し掛けました。恐る恐る目を開けた僕に、ふたりはいつも通りの『親娘』に見えました。
「うんっ! 産むよっ!」
そう答えた姉は、珍しく演技をしていました。自分でいつもの『バカ姉』を『なぜだか』演じていました。それを見て僕は『いつも、ホントにマジでバカなんだな』と思いました。
「おうっ! でもな?…」
「………でも? 何?」
「………、その子を産んでも、後悔しないように…、」
そう言うと父は言葉に詰まりました。ニヤケたエロ親父が辛そうでした。ほんの一瞬でしたが父は止まりました。でも肩に置かれた母の手が『ギュッ!』と父を掴むと、またすぐに動き出しました。
「いやっ、そうじゃないなっ!? その子が『産まれて来ても』恥ずかしくないように、ちゃんとしておくんだぞ。恥ずかしくない『お母さん』になるんだぞ?」
「…う、うん。」
「生まれて来る『その子』の為に、だぞ? 解るか? …解るな?」
「………、はい。」
姉は今までヘラヘラしていたのが別人のように、真っ直ぐ父を見詰めて、しっかりと返事をしました。
サマーセーターからだらし無く左肩を出して、編み目から乳首を覗かせてる恥ずかしい格好でしたが、そんな格好の中にでも出産に向かう『決意』と『覚悟』がありました。
「よしっ! じゃあ決まりっ!! 後は、母さんに色々聞いて、二人で出産に備えなくちゃな? ともゆきっ! 俺らも『ちゃんと』しなくちゃなんないかんなっ!?」
いきなり父にフラれて僕は『ドキッ!』としてしまいました。父の視線に物凄く『痛み』を感じました。
「えっ? ち、ちゃ、『ちゃんと』って?」
「…ったく、お前は『相変わらず』だなぁ~。一気に『お兄さん』と『叔父さん』になっちまうんだぞ!? もっと『ちゃんと』しろっ!」
「…はいっ。」
僕は何が『相変わらず』で、どこを『ちゃんと』なのかハッキリ分からないまま、取りあえず返事をしておきました。
「ははっ、ともゆきも『叔父さん』かぁ~。俺もとうとう『お爺さん』かぁ…。」
破壊されたビルが逆再生されて元に戻るみたいに、ところどころまだボロボロの父が大きく『伸び』をしました。感慨深げなセリフを吐く父の側で、母は怪訝な顔をしていました。
「…やめてよ、『トシ』くん。アタシは『お婆さん』で出産するコトになるのよ?」
正確に『姉が何週目』なのかは、この時まだ解りませんでしたが、母より出産が早そうなのは確実でした。
「ふえっ? ああ…。あはっ、ははっ、それも面しれぇな? まあ、しょうがねぇや!?」
それまで笑える雰囲気が何も無かった居間に、父の笑い声が戻ってきました。すると緊張感から解放されたバカも戻ってきました。
「あっ! 今度はアタシの方が、お母さんより先に出産だよっ! アタシの方が先輩になるんだよねぇ~~~?」
と、ワケの分からない『姉貴風』と『先輩風』を吹かし始めました。そのバカっぷりを呆れ返って見ながら、母が面倒臭そうにツッコミました。
「バカだねぇ~、この娘は~? お母さんは、アンタとともゆきを産んでんでしょうがっ!?」
「えっ? ああ…、そっかぁ。『リッちゃん』がやっぱ、『先輩』のままなんだ~。」
「…ホント、この娘は訳分かんないわねぇ…」
なぜか残念そうな姉を見て、母が苦笑いをしてました。父は母と姉の顔を見比べながら、もっと笑い出しました。
『ブフベベーーーッ!!』
緊張感から完全に解放されて全身が緩んだのか、父がデカいオナラをしました。みんなが鼻を摘んで臭がってる中で、父だけが幸せそうに笑っていました。