私が小6の頃、両親離婚し、母が家を出ました。
一度私宛に年賀状が来たことがあり、それを大切に保管、住所は東京都内
でした。
大学進学で上京した時、母を訪ねました。
その日は、母の手料理を食べ、母のアパートに泊めてもらいました。
入浴中、母が背中をン河岸に入ってきて、十数年ぶりに母子でお風呂、し
かし、当時44歳の母の女体は艶めかしく、不覚にも勃起してしまいまし
た。
それを見た母は、
「浩太。立派になって・・・」
と陰茎を握られ、万事休すでした。
風呂から上がって、母と布団に寝て、母に言われるままに母をクンニ、ド
ドメ色の陰唇を割るように舐め、剥れた陰核を舌先で転がすように舐めま
した。
母にフェラされて、コンドームをして挿入、私は、実母で童貞を卒業しま
した。
44歳の母が、乳房を揺らして喘ぐ姿h、優しいお母さんではなく、淫獣でし
た。
母に感じる女の色kに戸惑いながらも、陰茎の抽挿はやめられず、ついに射
精に導かれました。
コンドームを外すと、母が優しくティッシュで拭いてくれましたが、その
刺激でまた勃起、蓋田保コンドームを被せられ、二回戦は騎乗位で、母の
淫らな腰振りを見上げました。
この夜、計4個のコンドームを消費しました。
大学時代、時間が出来ると母を訪ねました。
尋ねた日は必ずお泊りして、母を抱きました。
セックスに慣れてきたら、母の指導の下、生挿入で膣外射精を学びまし
た。
布団に入って抱き合って、そのまま挿入、親子の愛は男女の愛に変化し、
唇を重ね、舌を絡ませて母子で唾液を混ぜ合いました。
実の母子が濃厚なキスをしながら、生で交わる禁忌な世界に蕩けていきま
した。
夏休みも帰省せず、母のアパートから自動車学校に通いました。
毎晩母を抱き、母の素肌を息子の精液で穢しました。
8月の頭、母が、
「そろそろ生理が来るんだよ・・・浩太、お母さんの中にお出し・・・」
私は、母の膣奥深く陰茎を埋め、ドクドクと息子精液を母の子宮へ送り込
みました。
「ああ・・・浩太の子種汁・・・浩太の子を産めたならどんのに・・・」
そんアハハと濃厚なキスを交わしながら、再び勃起した陰茎で抜かずの二
回戦い挑みました。
母が安全日の時は、こうして抜かずの読ん発を母の子宮に放ちました。
私は、大学の4年間、彼女も作らず母と交わっていました。
常軌を逸した近親相姦に狂乱し、許されざる生姦淫に溺れたのです。
安全日とはいえ、神をも恐れぬ母子中出しに挑み、自分が宿った子宮と、
産まれ出てきた産道を自分の精液で満たしたのです。
ドドメ色の母の陰唇を、息子の子種汁にまみれさせたのです。
禁忌な交わりは、二人で出かけた旅行先でも激しく行われ、片付けに来た
仲居さんは、精液まみれのティッシュの山に驚かれたことでしょう。
私は、東京に就職しようとしましたが、母に説得され、故郷にUターン就
職して、東京を去りました。
就職して最初のゴールデンウィーク、私は故郷のお土産を持って上京し、
母を訪ねました。
母のアパートmの前に立ち、呼び鈴を襲うと思て手を止めました。
表札が変わっていましたorz
母は、私が再び訪ねてくることを分かっていたのです。
きっと、私が東京を去ってすぐ、引っ越したのでしょう。
いつまでも母子で姦淫してはいけない、母は、私の前から消えることで、
私にそれを教えたかったのでしょう。
「母さん・・・分かったよ・・・さよなら・・・」
私はそのまま東京駅に向かい、とんぼ返りしました。
そして、地元で人生二人目の女性と関係し、若い女性の美しい肌を知りま
した。
その女性と結婚し、一女一男を儲け、現在結婚して24年の50歳、先日、伊
豆にある某施設から、実家に母の訃報が届きました。
私は独りその施設を訪れ、母の遺品を受け取り、共同墓地で母に線香と花
を手向けてきました。
母として、そして、私の唯一の元カノとして、母に手を合わせました。
共同墓地を出るとき振り向いたら、40代の母の顔が浮かび、
「浩太、ありがとう。でも、もう、二度とここへ来ちゃダメよ・・・」
そう言ったような気がして、
「分かったよ母さん。さよなら・・・」
そう言って墓地を後にしました。
帰りの新肝線で、母の遺品の中に、私と母がツーショットで写った旅行先
の写真を見つけ、それをスマホで撮影しました。
75歳でこの世を去った母・・・
私の前から消えた後の母の人生は、どんな人生だったのでしょう。
ここに、そんな母との淫蕩な記憶を綴ります。