吾七つ因幡(いなば)に去(い)ぬのおん母を
又かへり来る人と思ひし
これは、ずっと後年、三木露風が生母との別れを回想した短歌です。吾七つ
とは言っても、昔の数え年ですので満5歳か6歳のはず。小学校に入ってた
という説もありますが、ボクは幼稚園説の方が正しいだろうと思ってます。
幼稚園から帰ってみると、弟だけ連れて母親がいなくなってた、の言い伝え
です。これはきつい情景ですよね。叙情作家にはなれても、精力バリバリの
活動家とか企業経営者になんかなれっこない人生が、少なくともこの瞬間に
運命の烙印として押されたといえるかも知れません。
のちに三木露風は萩原朔太郎のような一本気な連中から「三木露風一派を
弾劾せよ」(確かそんなタイトルでした)といった激しい批判を浴びますが
こうした環境や生育まで思いやるなぞ、きままに芸術志向を深めていけてた
恵まれた手合いにはムリだったでしょうね。
生母「碧川(みどり)かた」は決して冷たい女だった訳じゃありません。
明治5年、鳥取市に生まれ、15歳のとき兵庫県龍野の名門三木家へ嫁ぎ、
2児に恵まれますが、夫・節次郎がだらしない男でした。名門のボンらしく
朋友たちの博打の借金など平気で背負ってしまうので、ついに業を煮やした
祖父がヨメに「これじゃかわいそうだ。お前は鳥取へ帰れ」と告げます。
ひとり残された露風は(もちろん成人後のペンネームですが)祖父一家と
一緒に暮すことになり、婚家から追い出された形の「かた」はこの過程での
オンナの無力さとそういうものへの口惜しさをバネに看護婦になり、東京へ
出て、再婚し、婦人運動に力を尽くします。
モトはといえば龍野の名士だった祖父・三木制(すさむ)の息子甘やかし
教育の失敗から生じた悲劇でしたが、それぞれの人生を切り開くという結果
になっていきます。で、祖父の家にいた子守ねえやの背中で赤とんぼを見た
のが歌の元になったというわけです。実母の背中かねえやの背中か、一時期
論争が生じたのですが、1932年露風自身が「ねえやの背中」と書いて、
けりがついたそうです。タラタラ、周辺を綴りました。
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