日曜日の昼過ぎ。
家を出る前から、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
妻は朝から何度も服を着替えては、「変じゃない?」と確認してくる。
結局選んだのは、前日に決めた淡い色のニットと細身のパンツ。
派手ではないが、強調された胸が妙に目を引く。
軽く整えた髪。
控えめな香水。
“頑張りすぎていない感じ”を意識しているのが分かる。
その自然さが、逆に私の胸をざわつかせた。
玄関前。
妻はバッグを握ったまま、小さく息を吐く。
「……緊張する」
私も苦笑する。
「顔、ちょっと固いかも」
「そっちもね」
少し笑い合うが、空気は硬いままだ。
スマホに通知。
⸻
着きました。
焦らずで大丈夫なので、ゆっくり来てください。
⸻
妻はそのメッセージを見て、また少し黙る。
「もういるみたい」
私は頷く。
「行こうか」
駅へ向かう車内。
会話はあるのに、どこか上の空だった。
妻は窓の外を見ながら、何度もスマホを確認する。
私も、落ち着かない。
“本当に会うんだ”
その実感だけが、じわじわと大きくなる。
そして——
待ち合わせの駅前。
休日の人混み。
妻は私の隣を歩きながら、小さく周囲を見回している。
「あの人かな…」
視線の先。
少し離れた場所に、一人の男性が立っていた。
黒のジャケットにシンプルな服装。
背は高めで、細身。
写真で見た印象そのままの、清潔感のある雰囲気。
そして、目が合った瞬間。
男性は軽く会釈した。
妻の足が、一瞬止まる。
「……Oさんかな」
私も静かに頷く。
写真や文字だけだった存在が、急に“現実”になる。
Oさんは急いで近づくこともなく、適度な距離で立ち止まった。
「はじめまして」
落ち着いた声。
妻も少し緊張した笑顔で頭を下げる。
「はじめまして…」
私にも丁寧に会釈する。
「今日はお時間いただいてありがとうございます」
その自然な対応に、私は少し驚く。
もっと気まずくなると思っていた。
けれど実際は、不思議なくらい穏やかな空気だった。
すぐに距離を詰めようとせず、妻の表情を見ながら話している。
「緊張されてますよね」
少し笑いながら言う。
妻も苦笑する。
「かなりしてます…」
「ですよね。僕もです」
その一言で、妻の肩の力が少し抜ける。
私はその様子を見ながら、胸の奥が静かにざわつくのを感じていた。
“安心している”
妻が、Oさんに対して。
それが分かってしまう。
Oさんは周囲を見渡しながら言う。
「近くに落ち着けるカフェあるので、そこで少しお話しましょう」
妻は一瞬だけ私を見る。
確認するような視線。
少し不安そうで、でもどこか覚悟を決めたような表情。
カフェの中は、休日らしい穏やかな空気だった。
窓際の四人席。
最初に座る瞬間だけ、少しぎこちなさがある。
妻は私の隣。
向かいにOさん。
店員が水を置いて去ると、一瞬だけ沈黙が落ちた。
けれどOさんが柔らかく笑って口を開く。
「改めて、今日はありがとうございます」
落ち着いた声。
「こういう形って、お互いかなり緊張しますよね」
私が苦笑する。
「正直、まだ実感ないです」
「分かります」
Oさんも小さく笑う。
その自然な空気に、妻の表情も少しずつ和らいでいく。
飲み物を注文して、少し落ち着いた頃。
Oさんが妻を見る。
「お二人って、結婚長いんですか?」
妻は私の方を見てから答える。
「5年くらいです」
「そうなんですね。もっと長い雰囲気ある」
「え、そうですか?」
妻が少し照れ笑いする。
Oさんは頷く。
「空気感が落ち着いてるというか。仲良いんだなって」
その言葉に、私は少し嬉しくなる。
妻もどこか安心したようだった。
「ちなみに、どうやって知り合ったんですか?」
妻が笑う。
「職場です」
「へえ」
「最初は全然タイプ違ったんですけどね」
「ちょっと、それ言う?」
私が苦笑すると、妻も笑う。
「だって最初、無口で怖そうだったし」
「よく言われる」
そのやり取りを見て、Oさんも穏やかに笑っていた。
「でも今はすごく自然ですね」
「長く一緒にいると変わるよね」
妻がそう言うと、私も頷く。
少しずつ会話は普通の雑談になっていく。
休日の過ごし方。
好きな映画。
食べ物の好み。
Oさんは話し方が落ち着いていて、相手の話をちゃんと聞くタイプだった。
無理に盛り上げようとせず、
妻が話しやすいペースに合わせているのが分かる。
「普段、運動されてます?」
私が聞く。
Oさんは少し笑う。
「ジムは週に何回か行ってますね。仕事終わりに」
「やっぱり」
妻がぽつりと呟く。
Oさんが笑う。
「プロフィールで書いてたからですか?」
「ちょっと気になってました」
そう言って妻は少し照れたようにコーヒーへ視線を落とす。
私は、その何気ないやり取りに小さく胸がざわつく。
“興味を持っている”
それが見えてしまうから。
Oさんはすぐに話題を変える。
「お二人は共通の趣味とかあるんですか?」
「旅行かな」
私が答える。
妻も頷く。
「温泉とか好きです」
「いいですね。最近行けてます?」
「仕事も忙しくてなかなか」
「ですよね」
そう言いながら、Oさんは自然に妻の話を拾っていく。
気づけば——
妻は最初よりずっと自然に笑っていた。
私はその様子を見ながら、不思議な感覚になる。
嫌ではない。
けれど落ち着かない。
自分の知らない妻の表情を見ているような感覚。
会話が途切れたタイミングで、Oさんが静かに言う。
「こうして会ってみて、少し安心しました」
妻が目を上げる。
「え?」
「正直、もっと重い空気になるのかなと思ってたので」
その言葉に、三人とも少し笑う。
たしかにそうだった。
もっと危うく、もっと緊張した場になると思っていた。
でも実際は——
どこか穏やかで、自然で。
だからこそ逆に、現実感があった。
Oさんは続ける。
「無理せず、お互い安心できる形が一番だと思ってます」
その視線は、妻だけでなく私にも向いていた。
私は静かに頷く。
「ありがとうございます」
その瞬間。
私は少しだけ理解してしまう。
妻がOさんに安心感を持ち始めていることを。
そして——
自分も完全には否定できなくなっていることを。
※元投稿はこちら >>