——数日後。
やり取りは続き、少しずつ“慣れ”のようなものが生まれていた。
短すぎず、重すぎず。
ちょうどいい距離感。
その夜——
妻のスマホに、また通知が入る。
「……来た」
私もすぐに反応する。
「Oさん?」
「うん」
妻は一呼吸おいてから、メッセージを開く。
⸻
もしご負担でなければですが、
一度、少しだけお会いしてお話ししてみるのはいかがでしょうか?
もちろん、無理にとは言いません。
⸻
画面を見たまま、妻の指が止まる。
「……ついに来たね」
小さく呟く声に、緊張が混じる。
私も黙って画面を見る。
期待していたはずなのに、
いざその一文を目にすると、現実味が一気に増す。
「どうする?」
妻はすぐには答えない。
少し考えてから、ゆっくり口を開く。
「正直…怖さはある」
「うん」
「でも、この人なら大丈夫かもって思えてるのも本当」
私はその言葉を静かに受け止める。
「……会うとしたら、どういう形がいい?」
妻は少し考える。
「いきなりは無理。最初はカフェとかで少し話して...」
「大丈夫そうならその後で...」
「それがいいね」
私もすぐに頷く。
「最初は人が多い場所の方が安心だし」
妻はその言葉に安心したように微笑む。
「じゃあ…そういう条件で聞いてみよう」
スマホを握る手に、わずかな緊張。
ゆっくりと、文字を打っていく。
⸻
ご提案ありがとうございます。
お会いするなら、まずは昼間に人の多い場所でお話しする形が良いです。
その後、大丈夫そうなら次に進む感じでどうでしょうか?
⸻
送信。
既読がつくまでの数秒が、やけに長い。
私も妻も、何も言わずに画面を見つめている。
そして——
⸻
もちろんです。その方が安心ですよね。
場所や時間もご都合に合わせますので、無理のない範囲で決めていきましょう。
⸻
その返信に、二人同時に少し息を吐く。
「……ちゃんとしてる」
妻の声が、少しだけ軽くなる。
「無理に引っ張らないの、やっぱりいいね」
「最短だと、今週末が排卵予定日だけど....。そこで大丈夫?」
そう。目的はあくまでも妊活。
私は小さく頷いた。
妻は続けて入力する。
⸻
ありがとうございます。
今週末か来週頭あたりで、もしご都合よろしければ調整できたら嬉しいです。
⸻
数分後。
⸻
今週末でしたら、日曜日の午後が空いています。
○○駅周辺などいかがでしょうか?
⸻
妻が私を見る。
「……どうする?」
「いいと思う。」
妻は小さく頷き、返信する。
⸻
では、日曜日の午後に○○駅周辺でお願いします。
詳細はまた連絡させてください。
⸻
送信。
画面に「送信済み」の表示。
その瞬間——
部屋の空気が、少し変わる。
決まってしまった、という実感。
妻はスマホをそっとテーブルに置く。
「……決まっちゃったね」
少し笑うが、その表情には緊張が残っている。
私も同じ気持ちだった。
「うん…」
短い返事のあと、沈黙。
頭では理解していたはずのことが、
“予定”として形になったことで、急に重みを持ち始める。
妻がぽつりと言う。
「ちゃんと会って、無理そうならやめるからね」
その言葉は、私に向けたものでもあり、
自分自身に言い聞かせているようでもあった。
私はゆっくり頷く。
「それでいいと思う」
窓の外は静かで、
いつもと変わらない夜なのに——
二人の中だけ、少し違う時間が流れ始めていた。
会う約束をしてから数日。
決まってしまえば早いもので、気づけば前日の夜になっていた。
夕食を終え、リビングにはテレビの音だけが小さく流れている。
けれど二人とも、ほとんど内容は頭に入っていなかった。
妻はソファに座りながら、何度もスマホを手に取っては置く。
「……緊張してきた」
ぽつりと漏れた声。
私は苦笑しながら頷く。
「俺も」
実際に会う——
ただそれだけなのに、想像以上に現実味がある。
妻はスマホを開き、相手とのやり取りを見返していた。
⸻
明日はよろしくお願いします。
緊張されると思いますが、気軽にお話しできれば嬉しいです。
⸻
その文章を見て、妻は小さく息を吐く。
「やっぱり優しそうな人だよね」
「うん」
俺もそう思う。
だからこそ、不思議と安心してしまう部分があった。
それが逆に、少し怖い。
妻は立ち上がると、寝室へ向かった。
「服、どうしようかな…」
クローゼットを開ける音。
私もあとを追う。
ハンガーに掛かった服を見ながら、妻は何着か手に取っては戻していく。
「これだと気合い入りすぎかな」
淡い色のニット。
「でも地味すぎても変だよね」
今度は少し綺麗めのワンピース。
私は複雑な気持ちでその様子を見ていた。
“他の男に会うための服を選んでいる”
そう考えると胸がざわつくのに、
目を離せない。
「どっちがいいと思う?」
振り返る妻。
私は少し考えてから答える。
「……ニットの方が自然かも」
「やっぱり?」
妻は鏡の前で軽く合わせてみる。
「変じゃない?」
「うん、似合ってる」
その言葉に、妻は少し安心したように笑った。
けれど次の瞬間、ふっと真顔になる。
「ねえ」
「ん?」
「本当に大丈夫そう?」
その問いには、不安が滲んでいた。
私はすぐには答えられない。
大丈夫かどうかなんて、自分でも分からない。
それでも——
「無理だと思ったら、すぐ帰ればいいから」
そう言うと、妻はゆっくり頷いた。
「うん」
少しの沈黙。
妻はベッドに腰掛け、小さく呟く。
「なんかさ…」
「うん」
「悪いことしてるみたいな気分にもなる」
その声は、どこか弱々しい。
私は隣に座る。
「そんなこと思わないで」
「……うん」
「ちゃんと二人で決めたことだし」
妻は視線を落としたまま、小さく笑う。
「そうなんだけどね」
不安。
緊張。
後ろめたさ。
それと、少しの好奇心。
いろんな感情が混ざっているのが、私にも伝わってきた。
その夜、寝室の灯りを消したあとも、
二人ともなかなか眠れなかった。
暗闇の中で、妻が小さな声で言う。
「明日、ちゃんと話せるかな…」
私は静かに答える。
「大丈夫だよ」
そう言いながら、自分自身にも言い聞かせていた。
明日になれば、
二人の関係はまた少し変わるのかもしれない——
そんな予感だけが、静かに胸に残っていた。
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