デンモクから顔を上げた陽子が驚き狼狽えている。陽子は自分が泣いている事にこの時、気がついた。
陽子は傍らの自分のハンドバッグからハンカチを取り出して目元を抑える。
明らかに動揺している様だ。ごめんなさい。なんで?やだ私。もう何?やだ。ごめんなさい。
そんな言葉を繰り返しハンカチを使うが、陽子の瞳からはそんな彼女の強気な言葉と裏腹に大粒の涙が溢れて止まらなかった。
俺は咄嗟にいけね、やりっぱなしだったと口走りカウンター隅の小さなキッチンに入り、陽子が気を使わぬ様に彼女の視界から消えた。
俺は何かを火にかけるどころか明かりも点けてないキッチンの暗闇でカウンターから漏れ聞こえる陽子の啜り泣きを侘しい気持ちで聞いていた。
場末スナックの客の嗜好に合わせた有線の懐メロチャンネルで昭和男性アイドル歌手の能天気な曲が余計に詫びしさを誘う。
啜り上げる様子が止まる。出し抜けにマスター!大丈夫よ。もう大丈夫。泣いたら吹っ切れた。出て来てー。
俺がキッチンから顔を出すと、陽子は明るい笑顔を見せた。カウンターに戻った俺にマスター優しいね。有難う。もう大丈夫だから楽しくやろう!わたし、歌う!と気丈に振る舞った。
カランカランと扉が鳴ると常連の近所の商店主が2人で現れた。2人はこの店の人気者的存在の明るい飲み方の男達。
入ってくるなり陽子を見るや、おーっ美人が居る!今日は大当たりだと場を一気に明るくした。
陽子もわーイケメンが2人も来たー!大当たりだ!と明るい声で応える。
その日の客はこの3人だけだった。
俺も混ざってカラオケ大会になり、代わる代わるデュエットをしたり、2人の下品ギリギリの下ネタに陽子は大きく口を開けて笑って過ごした。
11時を過ぎた頃、2人は母ちゃんに叱られると帰っていった。私もそろそろと帰り支度を始めた陽子。
今夜はこの店来て良かったぁ。楽しかった。もうすっかり嫌なこと忘れた。とコートを羽織りながら明るい笑顔を見せた。
しかし、勘定を済ませた彼女は真顔になって呟く。家に帰るのか…。思い出した様に鞄からスマホを取り出すと画面を見つめて溜息をつく。
旦那から沢山、着信とLINEが来てる。嫌だな。会いたくない…帰りたくないな。
帰らなければ良いじゃないですか。
俺は自分の口から出た言葉に自身が一番驚いていた。
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