毎朝通勤で使う電車を最寄駅から、ほぼ同じ時間に反対方面にカオリと乗った。
土曜日ということもあるが、まるで違う電車に乗った気分になる。天気が良かった、電車の中は光に溢れていて通勤とは逆のくだり電車の車窓は緑に溢れていた。
カオリは春先の眩しい陽光の中で明るく笑う。こんなに穏やかな気持ちになったのは、どれくらいぶりだろうか。
電車に揺られて俺たちは色々な話をした。カオリが夏美と同じ歳であることや、25歳で6歳年上の隣町の市会議員秘書と結婚して、その旦那が翌年立候補、当選してから議員夫人として支援者や後援会、婦人会に駆けづり回り、その間に子が出来ない事を男親夫婦や支援者に言われ続け、疲れきった時に旦那の女性問題が発覚。
丁度、2期目の選挙の時で旦那は謝るどころか、対立候補陣営の陰謀だ、リークだと怒鳴り散らし、後援会からはこんな時こそ旦那を支えるのが妻の務めだと言われて選挙の出陣式には支援者を前に私の不徳の致すところですと頭を下げる旦那の横で、私が至らないばかりにと一緒に頭を下げることになったのだという。
当選し連日、支援者や後援会にお礼回りに明け暮れていた時に旦那が未だ女性と切れていない、奥さんからも手を切る様に先生に言ってくれと後援会の重鎮から言われ、最早旦那に対する愛は冷めきっていたものの夫婦で苦労して築き上げた立場を壊さぬ為に、重鎮の指摘を伝えるとお前は黙っていろ、俺がひとりでどれだけ苦労してると思っているんだと始まったのだそうだ。
その旦那の顔を見て離婚を決意、翌日に家を出て昔のツテをたどり、結婚前に取った資格を活かしてひとりで生活を始めたのだという。
明るい表情で昔のことよと笑い飛ばしながら話してくれたがカオリは相当な苦労をしてきた女性だった。
終点のひとつ手前の駅で電車を降りて、カオリが好きだという全然有名じゃない小さい海岸、名前は知らないという海岸に俺たちは向かった。
途中のコンビニに寄って俺たちは、缶ビールやサンドイッチ、新聞を買い込んだ。
コンビニ脇の細い下り坂を下ると目の前に青い海が広がった。
春先のこの時期、海岸はまだヨチヨチ歩きの子供を連れた若い夫婦が波うち際を散歩しているだけ。
晴れ渡る空、海は穏やかで遠くから潮騒と子供の笑い声が聞こえる。
砂浜に俺たちは新聞紙を広げ、海に向かって並んで腰を下ろした。
来て良かったね。カオリは春風に髪をそよがせて俺に微笑んで言った。
うん。良かった。昨夜は地獄だったけど、今は天国にいるみたい。海、綺麗だね。俺は答えた。
本当に綺麗。カオリは涼やかな瞳で海を見つめて言う。俺に振り返ると、お天気良いし、海は綺麗だし、ユウちゃんは生き返ったし、こりゃ飲まなきゃならんでしょと缶ビールを取り出し俺に寄越してあのいたずらな笑顔を見せた。
乾杯!俺たちは缶ビールで乾杯した。
何もかも間違えてたなぁ。俺は笑った。
もう夏美ちゃんの事も、プロポーズ作戦の失敗も吹っ切れたけど、いずれにせよ俺があんな初めて行った高級レストランでプロポーズしようとか、見栄張って無理して高価な指輪渡したり、付き合い方というか生き方っていうか全然、無理してた。
今こうしてると、こういう事かって思うよ。休みの日に電車乗って、のんびり海岸でコンビニの缶ビール飲んで。
これで良かったのかも、これが良かったのかも。
こんな風に過ごせる人と結婚すべきなんだろうね。
そんな穏やかな日常の先にいつか、こんな海岸でこんなふうに過ごしてプロポーズとかするのが平凡だけど最高の幸せなのかもしれないなぁ。
俺は幸せそうに波打ち側ではしゃぐ若い子連れの夫婦を見ながら呟いた。
そうね。幸せって普通の生活をずっといつまでも普通に出来ることなのかもしれないね。確かにこんな時にプロポーズされたら思わず受けちゃうかもしれないわねと言ってカオリがビールを口にしながら笑う。
練習していい?俺はカオリに尋ねる。
え?練習?カオリが微笑む。
そう。いつかこんなふうに幸せな時に指輪を渡す予行練習。俺はカオリに笑いながら提案した。
カオリはまた、あの魅力的ないたずらな笑顔を見せて、良いね!やろう!練習しよ。と言ってくれる。
俺は胸のポケットから指輪を取り出した。
こっち向いて。俺がカオリに言うとカオリはこちらに向く。ときおり強い春風がカオリの髪を彼女の顔に撫でつける。
カオリは髪を指で掬い、耳にかけて笑顔を見せる。
俺はカオリを見つめて言った。
初めて君を見た時は酔っ払ってて覚えてないけど、2度目に君をベッドで見た時からずっと好きだった。カオリさん、結婚して下さい。
俺は指輪をゆっくりと彼女の指に嵌めた。彼女は指輪を眺めて綺麗ね。有難う。と言って俺に向き直る。
ユウちゃん、貴方を初めて見た時、貴方は彼女にプロポーズを断られて、お酒に酔っ払っていた時だった。傷ついて酔っ払っても貴方は彼女を悪く言わなかった。わたしは初めて見た時から、そんな貴方を大好きになったわ。
彼女は微笑みながら俺にキスしてくれた。
俺は、これって練習なんだよね?とカオリに尋ねる。
カオリは笑いながら
当たり前でしょ。練習よ。本番は高級レストランでして貰わなきゃと言ってもう一度キスをしてきた。
俺たちの付き合いはこんなふうにして始まった。
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