翌朝、出社すると茅野に書類を渡し入社の手続きを行った。
茅野はひと通り手続きを終えると、笑顔を見せてよろしくお願いしますと微笑んだ。今日は佐伯に午前中、近所で佐伯企画が現在手掛けてる案件を案内してからお昼戻って来て社長と仕事内容について話し合うと聞いてます。
車で直ぐなので行きましょうと茅野が席を立った。
俺は午前中、茅野に案内されて近所の商業施設の佐伯企画が手掛けているショールームやミニサロンを案内され内容について説明を受けた。昼食を茅野と商業施設内のファミリーレストランで済ませて俺は茅野と社長室に約束の10分前に着いた。社長室に入ると佐伯はデスクで厚い資料を読み込んでいた。
高橋さん。おはようございます。今日からよろしくお願いします。
早速だけど高橋さん、貴方は昨日のショールーム立ち上げの私のサポートを当面お願いするわ。ショールームに基本的に常駐の形でショールーム立ち上げをサポートして頂戴。企画書、図面その他一切を用意させました。
それと、これはショールーム前に停めた営業車のキー。
それから2時間に渡り俺は佐伯にみっちりと企画について説明を受けた。
最後に茅野と私を見て、2人に任せるわ。よろしくねと微笑んだ。
俺は新しい仕事に没頭した。連日業者と打ち合わせ、現場作業に立ち合い課題をこなし、様々な小さなトラブルや行き違いを茅野と解決していった。佐伯は時々、様子を見に訪れ俺からの報告を満足そうに聞いた。俺は再就職先の佐伯企画で少しでも評価を得ようと必死だった。ショールーム開店の5日程前からは連日、内装や電気工事が深夜まで掛かった。茅野も連日最後まで作業を見届けて翌日の手配確認を俺と行った。
茅野は俺の住む駅から2つ離れた駅前の賃貸マンションに住んでいた。コロナの影響で終電時間が早まり、俺は佐伯企画の営業車で佐伯を連日送って帰った。帰宅までの小一時間の車内で、学生時代にバスケ部に熱中して結構良いところまで行った話や、菓子作りに最近ハマっていて休みはもっぱらその参考にケーキ屋巡りをしている事、茅野は結婚を考えている彼氏と同居中である事や連日遅くなる今のこの仕事を彼氏があまり面白く思っていない事などを話してくれた。仕事の時はその歳以上の落ち着きで堅実な仕事ぶりで感心させられたが、車内でお喋りに夢中になる茅野は歳相応の可愛いらしい娘だった。
彼女の可愛いお喋りやコロコロとした笑い声が俺には心地良かった。
家の前についても、停めた車内でお喋りの続きを聞く事もあった。彼女は毎回、あっもうこんな時間。ごめんなさい。お喋りに夢中になって。高橋さんだと話しやすいんだもん。ニコニコ聞いてくれるから、つい話こんじゃう。お疲れ様でした。気をつけて。明日もよろしくお願いしますと車を降りて小走りにマンションに帰って行くのだった。
そしてショールーム開店の前日。工事自体は9時過ぎには終えたが、最終的な佐伯によるチェックを終え、業者を返したあと出来に満足して2人の労をねぎらう佐伯を見送り、あれ以来恒例の2人で缶コーヒーで乾杯した時は夜中の1時を回っていた。
俺と茅野は出来上がったショールームの真ん中に立ち、出来上がった充足感に浸っている時、茅野の携帯が鳴った。スマホの画面を見る茅野の表情がみるみる曇る。彼女は携帯の着信を無視してポケットに携帯を入れる。
一度着信のバイブ音が切れると直ぐにまたバイブ音が聞こえる。
茅野は、はぁしつこいと声を上げる。俺が出なくて良いの?外そうか?と尋ねると良いんです。と言って暫く携帯の画面を何やら操作した。
操作を終えると俺に向き直り、彼氏です。と言った。
早く帰って来い。何処に居るんだ。なんでこんな連日遅いんだ。コロナ時期にこんなに遅くなるっておかしいだろ。何度今の仕事を説明しても毎晩電話、ラインが来るんです。
俺は彼氏は心配してくれてるんだよ。有り難いじゃないか。確かに連日仕事でかなり遅くなってるけど、茅野さんの事、本当に好きで心配なんだよ。おじさんなんか毎晩遅くなっても奥さんに心配もして貰えない。それどころか子供が起きるから静かに家に入って来いって言われるよ。
茅野は吹き出してクスクス笑ってくれた。俺はじゃあ彼氏君も心配してるから早く帰ろう。そこの片付けは明日少し早めに来てやりましょうと言った。
茅野は、はい。と答え帰り支度を始める。俺は車をとってくると声を掛けた。
茅野を車に乗せて走り出すと、ショールームが完成した達成感もあり俺たちはいつもより話が弾んだ。茅野のマンション前に着くと茅野はあらたまり、今回は高橋さんのおかげでとても上手く行きました。有難うございますと言って私、高橋さんにお礼にマスクを作ったんですとカバンから手製のマスクを取り出した。
グレーの布に水色のゴムが付いている。丁寧に縫われたマスクだった。
茅野はしてみてと言う。俺は不織布のマスクを外して茅野のマスクをつける。茅野が手を伸ばして俺の顔に触れてマスクを直してくれた、その時である助手席のドアが乱暴に開けられると同時に若い男を怒声が響いた。
誰だ!この男!お前何やってんだよ!
茅野が助手席から引きずり下ろされた。彼女のバッグが地面に落ち中身が散らばる音がした。痛い!茅野の声が響く。
俺は車から飛び出して、地面に倒れた茅野の手を引っ張っる男を後ろから羽交い締めにしようとした。
離せよと若い男が怒鳴り声が聞こえると同時に若い男が俺を殴りつけた。
よろけた俺に男はなお掴みかかり俺を殴りつけた。
茅野がやめてと叫んで若い男の腕を掴んでもみ合いになった
茅野がこの人は会社の人。電車が終わったから送ってくれたの!と叫ぶ。
若い男が冷静を取り戻し一旦離れた。
茅野は俺に駆け寄り、高橋さん大丈夫っ?と聞いてくる。私はまさか殴られるとは思って居なかったのでまともに、パンチを食らっていた鼻と目の下がひどく痛む。鼻血が吹き出て息が苦しい程だ。歯が少し欠けたらしく口中でじゃりっとする。若い男は突っ立ったまま、すみませんと小声で呟いている。
騒ぎを聞きつけたマンションの住人が何人か群がってきた。
茅野はごめんなさいと叫んでいる。マンションの住人から警察、救急車という声が聞こえる。俺はその声を制して大丈夫ですから。
お騒がせしてすみません。ちょっと誤解があっただけです。大丈夫ですからと立ち上がってマンションの住人達に帰るように告げた。
俺は茅野が差し出したハンカチやティッシュで顔を押さえて大丈夫だから、とりあえず茅野さんは彼氏と家に戻ってくださいと言い。茅野に促されて俺の身体を支えようとする彼氏に大丈夫だからと言って痛む身体を車に押し込んだ。
運転席の窓越しに心配そうに覗き込む茅野に行けいけと手で合図して、心配そうに佇む2人と何人かの野次馬を残して何とか車を走り出させた。
暫く走り、茅野が見えなくなると車を道路の端に止めた。
顔半分がジンジンと痛む。左目は熱を帯び腫れ始めていた。
シャツやネクタイはおびただしく血で汚れ、茅野から貰ったばかりのマスクは片方のゴムが伸び切り顎の下で血にまみれぶら下がっている状態だった
俺は車を走らせ、自宅近くのコンビニに寄りクラッシュアイスを3袋、ウェットティッシュを二箱買い込んだ。レジの外国人店員が血だらけの俺を見て怪訝な顔をしていた。俺はコンビニのトイレに駆けこみ顔を入念に拭き、現場仕事用に用意していた上着に着替え、血だらけのシャツやネクタイをコンビニのゴミ箱に突っ込んで車に戻り、痛む顔にクラッシュアイスの袋を押し付けた。
昨夜、浩子に起こさないよう寝床に入った俺は今朝も浩子が起きてくる前には身支度をして寝床の浩子に起きなくて良いと告げて夜が明ける前には家を出た。顔は酷く腫れ上がっていた。この顔ではとてもオープニングのレセプションなどには出られない。
俺はコンビニに寄ってギリギリまで腫れた顔にクラッシュアイスをまた買い込み押し付けた。昨夜は気がつかなかったが、携帯を確認すると茅野から膨大な量のLINEが来ていた。
茅野はごめんなさい。心配です。大丈夫ですか。を5分おきに送って来ていた。俺は大丈夫です。茅野さんは大丈夫ですか?と返信を入れた。
返信を入れると間髪入れずに茅野からの電話着信。
俺は痛みから通話が面倒になり、今自宅です。後ほど。とLINEで返信を送った。
俺はクラッシュアイスを顔から離すとバックミラーで自分の顔を確認した。まだ腫れ上がっている。俺は溜息をつく。
最初の仕事の大事な日になんて顔だ。佐伯に何と説明すれば良いのだろう。今日のレセプション、この顔でどうするつもりだ。
俺は沈んだ気持ちでハンドルを握り、オープン初日とは言え早すぎるが車をショールームに向けて走らせた。
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