俺は茶を飲み干し茅野に礼を言って佐伯企画を後にした。
俺は、このまま真っ直ぐ帰るのもと思うと勤め人の性なのだろうか、足が自然と元の職場に向いていた。
何年も降り続けた駅にいつもとは違う気持ちで降りて、何年も通い慣れた道を違う気持ちで歩き閉鎖された営業所の前に着いた。
閑散とした営業所を想像していたのだが、目の前には想像とは全く違う光景が広がっていた。
営業所前の駐車場には業者の車と思しき車が5台と古いシトロエンが停まっている。ブラインドが外され外から丸見えの営業所内では建築関係者と思しき10名程の男達に図面を片手に指示を出している佐伯優子の姿があった。
どうやら佐伯は閉鎖された営業所の次の契約者だったらしい。昨夜は下見にでも来ていたのだろうか。俺はそのまま通り過ぎることも出来たが、沢山の男達に自信に満ちた表情で指示を出している様子の佐伯に魅入ってしまっていた。
俺に背を向ける位置で指示をしていた佐伯が、急にこちらに向き直り俺と目が合ってしまった。佐伯は厳しい表情を崩して此方に歩いて来ると俺に近い方のガラス扉を内側から解錠して扉を開き俺に向かって高橋さん、来てたのね。丁度良いわ。入ってくださる?と言って来た。
俺は招かれるまま営業所に入った。佐伯は高橋さん、流石ね。使える!丁度今、裏口の電動シャッターが開かなくて困ってたの。ブレーカーは全部上げたのに、裏口だけ別の電気系統なのかしら?と笑顔で尋ねて来た。
俺は、裏口の分かりづらい場所にある配電盤に案内しブレーカーを上げた。裏口のシャッターが音を立てて動き、良かったーと佐伯は俺の肩をポンっと叩いた。結局その後、俺は業者に指示する佐伯の横について歩き、業者や佐伯の営業所内の設備等のあれこれ不明点に答える事になった。
佐伯はここに期間限定のコロナ対策で完全予約制のコスメ商品のショールームを作り、運営する仕事を請けたらしい。
業者達は入れ替わり立ち替わり次々とやって来た。床のカーペットから照明、外の看板までそれぞれの業者に彼女は細かい指示を出した。彼女は業者とのやり取りの決定事項や課題をボイスレコーダーに吹き込んで記録していく。途中何度も携帯が鳴り、同時に他の企画のやり取りもこなす目まぐるしい仕事ぶりだった。
電気工事業者と打ち合わせを終えるとお疲れ様です!と元気な声が響いた。
振り返るとテイクアウトの袋を抱えた茅野が入って来た。
あら、もうお昼。佐伯が腕時計をちらと見て言った。ごめんなさい。高橋さん。すっかり付き合わせてしまって、お昼召し上がっていって。
デスクに茅野がテイクアウトしてきたランチを並べ始めた。
さぁいただきましょう。あの忙しい中で佐伯は茅野に俺の分の追加を指示していた様で、佐伯、茅野、俺の3人で最近この近くに出来た評判のカレー屋のランチカレーを食べた。
ランチを食べた佐伯は、コートを羽織り次に行くと言って茅野にボイスレコーダーを手渡し、文字に起こすよう指示した。
佐伯は俺に午前中付き合わせてしまった事の詫びと、入社の返事を期待していると言って出掛けて行った。
俺はふたたび、茅野とふたりきりで残された。茅野は食べ終えたランチを手際良く片付けながら、高橋さん、どうして此処にいらしたんですか?午前中社長の打合せに付き合っていたんですか?と尋ねて来た。俺は茅野に此処が自身の元の職場である事などを説明した。茅野はブライダルのお仕事されてたんですかと言いながら抱えて来た大きなトートバッグからノートパソコンを取り出してボイスレコーダーを再生して文字起こしを始める。
俺は驚き今、ここでやるの?と茅野に尋ねた。
茅野はキーを叩く手を止めて、はい。社長のやっておいては今やれって事なんですと笑う。
だって、業者達と打ち合わせの時、居なかったじゃない。出席してない会議の議事録を書く様なものだ。内容分からないでしょ?と俺が言うと茅野は、そうなんですけど社長は私に分かる様にボイスレコーダー残されてますから、だいたいは大丈夫です。でも今回みたいなショールームのあちこちの細かい数字については図面みて確認しながらだから少し大変です。と答えた。
俺は茅野に手伝いを申し出た。
茅野さん、手伝いますよ。佐伯社長、かなり細かい指示あちこちされてましたから、図面一緒に見ながらやりましょう。
茅野は本当ですか!助かります!と言って明るい笑顔を見せた。この娘の素直さ、明るさは人を楽しくさせる魅力がある。
俺がボイスレコーダーを再生し、該当箇所の図面を広げて説明すると茅野は適切にまとめて文章にしていく。茅野はその明るい外見の魅力のみならず非常に優秀な娘だった。
出来ました。早速backlogに上げておきました。良かった。実はショールームのこういうのは、いつも凄い時間かかるんです。今日は高橋さんのおかげで直ぐ出来ました。有難うございました。
高橋さんちょっと待ってて下さい。茅野は小走りに営業所を出て行くと缶コーヒーを二つ買ってきて、有難うございましたと笑顔を見せて俺にひとつ寄越した。
俺は、有難う。じゃあ遠慮なくと缶コーヒーのプルトップを開けた。
茅野も缶コーヒーを開けるとカンパーイと俺の缶に自分の缶をコツンと当て微笑んでみせた。
俺は茅野に全く経験の無い職種だが佐伯社長には大きな可能性を感じるし、茅野さんも良い人だから思い切って佐伯企画に飛び込んでみようと思うと伝えると茅野は本当ですか。じゃあ一緒に働くお仲間ですね!よろしくお願いしますと言って、では改めてカンパーイと缶をふたたび合わせて来た。
俺はこちらこそよろしくお願いしますと言って茅野のと乾杯した。
俺は帰宅すると妻の浩子に再就職先を決めた事を告げ、茅野から貰った会社案内や雇用条件の覚書等の書類を見せた。浩子は先ずは再就職が決まった事を喜んでくれた。子供達も夕食時に可愛い声でパパおめでとうと言ってくれた。子供達を風呂に入れ、俺は食卓に座り頭をタオルで拭きながら、缶ビールに口をつけ、やっとひと息ついた。
俺はビールを飲みながら、パソコンを開く。子供部屋から浩子が子供達を寝かしつけている声が聞こえてくる。俺は佐伯に入社の意思を伝え、必要な書類を揃えて明日会社に持っていくとメールを送信した。
佐伯にメールを送信した後、俺は幾つか来ていた取引先や元同僚らのメールに返信をしていると佐伯から返信が早速来た。
返信有難うございます。一緒に働ける事を楽しみにしています。
細かい手続きは明日午前中に茅野に処理させます。午後13時に社長室に来て下さい。基本的には説明したように私の秘書的な事をやっていただきたい。暫くは茅野をサポートに付けさせます。では明日からよろしくお願いします。
あの可愛らしい茅野君と暫く一緒に行動する事になるのか。俺は自分が少し高揚しているのは、いつもより就職祝いと一本多く空けた缶ビールのせいだけじゃない事を感じた。
※元投稿はこちら >>