脳梗塞の後遺症から、芳江さんの御主人が軽度な半身麻痺と言語障害を患われたのが3年前。既に障害者認定3に認定されていながら、決して外部に頼る事無く、芳江さんご自身が介護にあたっていた事実は、近隣に暮らす奥様方から聞かされてもいたのですが、そこに加え、持病の不整脈の悪化に肺癌の発症...。そんな窮状に見舞われた芳江さんを前にして、私は掛ける言葉も見つけられず、淹れたての珈琲を差し出すのが精一杯でした。『あぁ、良い香り..』ほぼスッピンの素顔にも奥す事なく、ワンレングスの髪を無造作にかき上げて見せた芳江さん。Ⅴネックの襟元から臆面も無く胸の谷間を覗かせ、一口珈琲を飲み終えてみせると、重い口を開き始めていたのです。持病の不整脈が落ち着き、体力の回復が観られた暁には、週5回の6週に渡る化学放射線の集中治療を行うらしく、担当医の説明では、癌のステージ状況から完全に癌細胞を取り除く事は不可能でも、現状よりは小さく出来るらしく、その施術後の経過観測を診たうえで、一番適切な治療方法を組まれるとの事でした。芳江さんから見たら未だ何者でも無かった私に対し、落ち着いた口調で淡々と話し終えると、ユズの世話や雑用を手助けしてくれてお礼にと、高価なボトルワインを差し出していたのです。帰りしなに玄関で身を屈ませ、スニーカーを履く姿を垣間見ると、大きく張り出したヒップラインに括れたウエストラインが続き、捲れたTシャツの背中越しに白い素肌を覗かせれば、私は不謹慎にも、アルバムの中に綴じられた、艶めかしい芳江さんの裸身を蘇らせていました。その2日後に迎えた残暑厳しい9月の初旬。ゴミ集積場に来られた芳江さんと偶然遭遇したのですが、いよいよ立川の病院から聖○○病院の個室病棟へ転医されるらしく、此れから御主人を引き連れ、新たな担当医とナースセンターの方々に、挨拶に伺われるとの事でした。麻のシャネル風スーツにヒールを履き、整った顔立ちに綺麗に化粧が施されれば、それは否応無くのCA当時を彷彿とさせる端麗な容姿で、その余りの美しさにドギマギしていたのは言うまでも無く、待たせていたタクシーに乗り込む姿を見送りながら、邪な思いを馳せていた自分自身を、蔑んでもいました。完全看護の個室病棟で、洗い替えを週末に届けに行く以外は、いつもどおりの暮らしを再開させていた芳江さん。近隣住民も敢えて御主人の容体には触れずにいるような、そんな日常が繰り返されていたのです。コロナ禍の蔓延以降、webデザインを生業にする私は数年前からリモートワークを強いられていたのですが、クライアントへ向けた最終的なプレゼン時と、四半期に一度の本社ミーテイングを除けば、ほぼ巣ごもり。苦痛でしかなかった通勤時のストレスからは解放されたものの、その反面運動不足に陥っていたのも事実で、そんな時には近場への散歩で気分転換を図っていたのですが、稀にユズの散歩に出向いていた芳江さんと遭遇する事もあり、何度か散歩に帯同したりする中で必然的に芳江さんとの距離も詰まり、9歳と言う年齢差を感じさせない親近感は、歳の離れた姉と弟のようでした。そうこうして秋めき始めた10月の半ばでした。いつもどおりにユズを散歩に連れだす姿も散見しつつ、えくぼの滲む口角に笑みを浮かばせる姿は、放射線治療を乗り越えた事を暗に示すかの様で、そんな芳江さんを前に、私が敢えて会釈だけに留めたのは、無理に笑顔を繕っているのが、明らかに見て取れていたからなのです。その後、時折り見かける芳江さんはどこか吹っ切れた様子で、私は芳江さんがゴミ集積場に来られる時間をあざとく見計らってもいたのですが、或る時はシルクと思われるパジャマの上に膝下丈のガウンを纏い、小走りに駆け寄る姿を眼で追いながら、一瞬たわむ様に揺れた胸元を凝視してみれば、円錐を描く乳房の陰影に突起した二つの頂きが浮かび、艶めかしい影を伴わせていました。いい歳をして中学生のような真似事をしている自分自身ももどかしく、リモートワークの合間を縫い、芳江さんのあられも無い姿を妄想しながら、一人慰める事も日増しに増えていたのです。そんな日常が瞬く間に通り過ぎ、季節が新しい春を迎えた4月でした。仕事に煮詰まった私は気分転換に駅間の酒場に出向いていたのですが、カウベルを鳴らしてbarの店内へと足を踏み入れると、振り向き様に一瞬驚いた表情を浮かべた芳江さんが、右隣のカウンター席へと、手招く仕草をみせていたのです。
...省略されました。