85歳の老婆です。ボケ防止にと、ノートパソコンをプレゼントされ、内曾孫に教わりながら、遠くの親戚とメールしています。インターネットを見ているうちに、このコーナーに出会いました。
皆さんお盛んなようですが、何かぎらぎらして汚らしい感じで驚きました。私の、女としての現役時代は、もっとおおらかで、お互いに、お互いを楽しんできました。このコーナーで、穴兄弟という言葉を覚えましたが、私の穴兄弟は、何人いたでしょうか。穴兄弟の半分以上は、もうあの世に行っています。生きているものでも、皆杖なしでは歩けない有様で、浮いた話も、もうできません。少し思い出話をさせてください。
22で嫁に来て、最初にお舅さんに教えられたのは、先祖のお墓の供養です。裏山の、歩いて30分ほどのところに、お墓がありました。毎月15日には、お供えを持って、お墓に行きました。お墓について、黙々と草むしりや掃除をし、お供えを上げて帰路に付くだけの、いたって面白くもない仕事でしたが、厳しいお姑さんの目から離れて、一寸したハイキング気分でした。
数ヶ月もすると、私一人で行かされるようになりました。シンとして人気のない、雑木林の中のお墓に着くと、一人では、やはり不気味な感じです。比較的新しい土饅頭の下には、遺体が埋まっています。当時火葬は、まだ少ないものでした。一人で心細く、お墓の掃除を始めると、なんと一人で行けと言ったはずのお舅さんが、ぬっと出てきて、何も言わずに草取りを手伝ってくれたため、思いのほか、早く掃除が終わりました。
抜いた草を積み重ねた上に腰をかけ、持参の水筒のお茶で一服したときのことです。突然お舅さんに押し倒され、皆様のお言葉を遣わさせていただければ、中出しをされてしまいました。当時は、この地方ではまだ、夜這いや野良昼寝の風習が残っており、私も決して夫が始めての男ではありませんでした。しかし結婚して以来、夫以外の男に抱かれるのは、久しぶりで、とても楽しく思いました。
翌月から、先祖参りのたびに、親戚の叔父や従兄弟、夫の兄弟などが、代わる代わるお墓掃除を手伝ってくれるようになりました。お姑さんの目を逃れるだけでなく、身体の楽しみまであるのですから、月一度の墓参りは、私にとって、とても楽しみなものでした。穴兄弟の皆様は、互いに示し合わせ、順番に来ていたのでしょう。いつも決まって相手は一人で、決して他の人と鉢合わせすることはありませんでした。
毎月の墓参りのほかに、近所の二三軒と、共同作業をするときもありました。朝早く家を出、夕方まで、その作業は続きましたが、10時と三時の休み時間は、側で作業をしているのが、いつの間にか夫ではなく、隣家の旦那になっており、モンペ(当時の作業服で、紐を解けば、すぐ前が出てしまうものでした)をはずされ、お日様に股間がさらされ、互いに連れ合いでない相手と楽しんだものです。
昼はみんなで集まって食事ですが、その後仮眠を取るのが習慣で、そのときは互いに少し離れて、横になります。その頃の農家の嫁は重労働で、私も本当に眠りこけてしまいましたが、そのような時は男は元気なもので、眠ったままの私たちを、何度か交代で抱きにきました。夢の中で、男に抱かれるわけですが、実際に抱かれてるわけなので、その夢はとてもリアルで、楽しさが大きいものでした。
もちろん、普段は、そのようなことがあったなど、互いにおくびにも出しません。また、そのような行為があっても、互いに見て見ぬふりをし、容認されるのは、それが許される時と場合と場所が、きっちりと決まっていました。それでもその相手は、決まっていたものだけでも20人近くはいたでしょうか。弾みで、ということが許される場での、一生に数度しか交合なかった相手を含めれば、30人は超えていると思います。
お互い様でしたから、決まりさえ守っていれば、あとくされも争いもない、楽しいお付き合いでした。最も、当時の農村には、そんなことしか楽しみはありませんでしたが。いつしか私も、少しの刺激だけでは潤わない年になり、そのような関係も途絶え、若い人たちも、今はそのような風習は野蛮なものとして、あまり経験していないようです。その代り、乱れたルールなしの関係が跋扈しているようで、どちらが良かったのか、疑問に思うのは、年寄りの僻みでしょうか。
でも今は、科学が進歩したのでしょうか。ひ孫の婿が、何かあそこを潤わせる薬とやらを使い、私に時々、昔の楽しみを思い出させる行為をしてくれるのが、年に数回の私の楽しみになっています。ひ孫に知られるわけには行きませんが。代わりに、夫の仏壇に手を合わせ、こっそりとお詫びのお経を上げています。