♪ 卒業だけが理由でしょうか 会えなくなるねと右手を出して・・・
あの人との最初のお別れは、もう、40年近く昔になります。
高校時代、初めての彼氏だったあの人は、初キスの相手、そして処女を捧げた相手です。
高校を卒業して進学で上京するあの人を、新幹線のホームで見送ったあの頃、「春なのに」が流行っていました。
あの人を見送って、春なのにため息また一つ・・・あの歌詞が身に沁みました。
初めて男性の前で裸になったあの日、今でも鮮明に覚えています。
初めてあの人に脚を開いてアソコを見せたとき、恥ずかしさと、始めて見せたのがあの人だという嬉しさが混じりました。
アソコを拡げられて、まじまじと観察され、奥まで覗かれ、恥じらう私に、
「可愛いよ・・・」
と言ったあの人・・・そして、アソコを舐められた時の快感・・・幸せでした。
あの人のものを舐めたとき、こんなに大きいものが私の中に入るのかという驚異、でも、痛みを堪えてあの人と一つになったときの歓び、忘れません。
あの人に抱かれるたび、感激だけでなく、少しずつ覚えていった快感・・・歓びが悦びになって、そして快感を求めて抱かれるようになっていきました。
親の目を盗んで、学生服とセーラー服のまま身体を交えたこともありました。
卒業して別れるとき、ラブホテルで飽きるまで股間を舐め合いました。
使ったコンドームは5つ、でも、5つ目のコンドームが精液で満たされることはありませんでした。
昭和から平成になった年、あの人と運命の再会、でも、すぐに抱かれることはありませんでした。
私は進学した短大時代、あの人と別れた寂しさに付け込まれ、アルバイト先のバツイチ男性に誑かされ、関係を持ってしまいました。
最初は手拭で縛られ、そして気が付けば麻縄で大股開きで縛られて、淫猥な電動オモチャで辱めを受けながら、潮を噴くことを覚えました。
麻縄で手足を縛られて屈辱の開脚、アソコを露出して凌辱された1年半、その後、就職先では先輩社員に口説かれて約1年、あの人に再会するまで2人の男性を知りました。
そのことが、初めてを捧げたあの人に抱かれるには不浄の身体だと感じたのです。
でも、あの人は私を求めました。
私は再びあの人に身体を開き、そして、被虐の恥辱快楽で刻み込まれた女の悦びの表現をあの人に披露してしまったのです。
あの人がアソコを舐めたとき、離れていた6年間に変形変色した私のアソコをどう思ったでしょう。
そして、あの人のものを舐めたときの舌使いの変化を、どう思ったでしょう。
もちろんあの人も、私の抱き方が変わっていました。
高校時代の激しさは無く、じっくりと私の身体を味わうように抱きました。
私とあの人は、26歳同士で結婚しました。
20代のうちにパパになりたいというあの人と子作り、でも、出来ませんでした。
いわゆる妊活も失敗に終わり、私に妊娠する能力がないと分かり、33歳であの人とお別れしました。
「私のせいで、20代でパパになれなくてごめんなさい。」
「気にするな。別れても俺達は親友だ。困ったことがあったら頼れよ。元気でな。」
「いろいろありがとう。さよなら・・・」
こうして、あの人と二度目のお別れをしたのは25年前でした。
あれから私は、何人かの男性に抱かれ、時には寂しさを産めるようにアソコの中に精液を注いでもらったこともありました。
あの人が再婚したと知ったとき、携帯電話を買い替え、あの人の電話番号は消しました。
あの人の幸せを祈りながら暮らした私も、40歳の時に36歳の子持ちバツイチの男性と再婚、小学1年生の女児のママになりました。
4歳年上の私を夫は毎日求め、日々、アソコの仲は精液で満たされていました。
不妊でも生理が来ますので、そんな時は夫のモノを口で咥え、お口の中に出してもらって、そのまま呑み込んでいます。
夫の精液はすべて、私の身体で受け止めています。
再婚して17年が過ぎ、夫婦も18年目にもなるとすっかり板につきました。
娘も社会に出て一人前に育てましたし、再婚して初めて夫婦二人の時間も増えてきました。
そんな時、実家の兄からラインが・・・忘れかけていたあの人の訃報でした。
元妻であり、初カノであり、親友である私は、立場を考えてお通夜にだけ行きました。
25年ぶりに見たあの人は、もう、口を開くことはありませんでした。
春なのに、涙がこぼれます・・・
お経を聞いていると、昭和から平成にかけて、あの人と過ごした思い出が駆け巡りました。
でも、その思い出は周りの人には話せない思い出・・・だから、ここに吐き出します。
そして、あの人に三度目のお別れを言います。