アラ還と言われる年齢に差し掛かった俺。
東京の片隅で爛れた生活をしている俺だが、コロナが治まったら、何をしよう…
思いついたのは、捨てた故郷を訪れることだった。
南東北の海沿いの田舎町に生まれた俺は、建設系の高専を出て、田舎の建設会社に就職した。
そのころは昭和末期、空前の好景気で、週末は社員一同で隣の地方都市の街に出てドンチャン騒ぎ、その後は飲み屋の女たちと朝まで御乱交だった。
20代の若い女は社長や専務に取られ、30代の女は先輩たちが群がるので、俺ら若造は40代のおばちゃん相手にチンポを起たせてた。
高専では3年生までは寮生活だったから、俺が女を知ったのは4年生の時、19歳だった。
相手は、高専の生徒の童貞を何百人と食ったと噂された、昼は喫茶店で夜はスナックを経営しているママさんだった。
当時、ママは40代半ば、ドドメ色のマンコを広げて1時間くらい舐め片をレクチャーされた。
それでも初めて見た女体とマンコに大興奮、フル勃起にスキンを被せられて、一晩で5発抜かれた。
自分の母親世代の女体に興奮しながら、揺れる乳にむしゃぶりついた。
時には同級生と鉢合わせして、3Pに及んだこともあった。
女体を知ると女に対して臆することがなくなり、やがて彼女ができてママさんとは疎遠になっていったが、その頃には新たな童貞がママさんの餌食になっていた。
彼女ができたと言っても、バイト先の年上ОLで、セフレというかチンポ奴隷だった。
若い男の子を誑かして、生きたヂィルドにされていたが、当時は若い性欲を爆発させていて、遊ばれていることにも気付かなかった。
その彼女とも高専卒業で切れて、俺は故郷で社会に出た頃にはバブルがやってきていた。
そんな時代だったが、俺は職場の事務員だった扶美子と恋に落ち、祝言を挙げたのは平成の初め、もう30年以上昔のことだ。
扶美子は美人ではなかったけど、愛嬌のある気立ての良い女で、しかもあのバブルの世にして身持ちの堅い女だった。
扶美子は、結婚の約束を交わすまで、身体を許してはくれず、俺は、生まれて初めて生娘を抱いた。
40代のおばちゃんのドドメ色マンコと違って、扶美子のマンコは美しかった。
結婚してすぐ、バブルが弾けたが、片田舎ではバブルの恩恵も少なかったから被害も少なく、ボーナスが減ったくらいで、俺達夫婦に大きな影響はなかった。
やがて娘が生まれ、その数年後に息子が生まれた。
片田舎だったが、波の音を枕にして幸せに暮らしてた。
そんな俺も四十路になり、子供たちにも手がかからなくなって、扶美子との夫婦の営みも再び増えはじめた。
ほど良く熟した扶美子の身体は、長年の夫婦生活でドドメ色になったマンコだがすっかり馴染んでしっくりしていた。
普段はお淑やかで大人しい扶美子だったが、俺に抱かれるときはメスになっていた。
発情した扶美子の姿は、普段の扶美子を知る者には想像できないほど淫らで、自ら俺に跨って腰を振る様は、正に淫乱の舞だった。
そんな時、リーマンショックがやってきた。
バブルは乗り切ったのに、俺の勤める建設会社がいきなり連鎖倒産した。
俺達が住んでいた家は、勤務先に担保として金を借りて建てていたから、追い出された。
路頭に迷ったが、俺の実家は兄貴が住んでて、扶美子の実家では扶美子と子供たちだけ受け入れて、無職になった俺は見捨てられた。
泣いて俺に縋りつく扶美子を無理やり抱きかかえ、俺は足蹴にされて離婚、故郷を追われた。
俺は、資材調達で面識があった人物を頼って、上京した。
そして、東京の片隅で、あるアパレル関係の50代女社長の愛人として囲われた。
40代前半だった俺は、女社長の閉経マンコに射精する生活だけでなく、中年オヤジの射精ショーと銘打たれて、アパレル関連の顧客の若い女たちの前で、オナニーして射精を見られる屈辱に耐えた。
きもーい、オヤジのオナニー汚え~、などと言われたが、当面、生きるためには仕方なかった。
そんな生活を2年、その後ある程度の資金を蓄えて東京郊外へ移り住み、中堅どころの建設会社へ勤め始めた直後、東日本大震災が起きた。
俺の故郷は高波に一掃された。
扶美子や子供たちの安否は分からなかったが、連絡の取りようもなかったから、忘れることにした。
海辺の片田舎の故郷を捨てた俺は、元妻や子供たちはおろか、親兄弟がどうしているかも知らずに生きてきた。
あの震災後、故郷のある県の内陸部に復興支援で3年間滞在した時、10歳年下のバツイチ子持ち女とネンゴロになって、そのまま一緒になって東京に戻った。
学歴は高校中退だが気のいい女で、顔と体は細川直美に似ててなかなかイイ女だ。
昨年、嫁の連れ子の息子が専門学校を出て就職した。
生意気に、これ以上俺の世話にはなれないと、家を出て一人で暮らしてるが、女がいるようだった。
コロナが治まり、まん延防止も緊急事態も解かれた令和3年の10月、俺は、常磐道に乗り、12年ぶりに南東北の海沿いにある故郷を訪ねた。
無職になって故郷を追われた頃の懐かしい風景は、津波で全て流されて失われていた。
原発より南だったから放射線の心配はなかったが、集落そのものが無くなっていて、ランドマークも失って居場所がよくわからなかった。
俺が扶美子と住んでいた家も、扶美子の実家も、俺の実家も、多分この辺りにあったんだろうくらいにしか、わからなかった。
「扶美子…お前は、生きてるのかい?」
そう呟いてみたが、俺は、扶美子たちがどうなったかを知るのが怖くて、
「どうせ、捨てられた家族さ…どうなっていようと俺の知ったことじゃねえや…」
と言って、車に乗った。
走ろうとしたが、溢れる涙でしばらく走れなかった。
子供たちも生きてりゃ20代後半…子供たちは震災時には高校生と中学生、この町で津波被災した学校は小学校だけだから、子供たちが生きている確率は高かった。
扶美子は実家にいたか、それとも働きに出てたか…忘れられないけど、扶美子のことは何も知りたくなかった俺は、思いを断ち切って東京に戻った。
扶美子とは19年近く暮らした。
それだけ長い時間を夫婦として過ごしても、ずっと愛していたし、お互いを求め合って一つになっていた。
俺しか知らなかった扶美子のマンコには、他の男のチンポが入れられたのだろうか…
そんなことを思いながら爛れた生活をしていた頃、震災が起きた。
でも、12年ぶりに帰郷して思ったのは、震災後、誰も俺に連絡を取ろうとしなかったこと。
少なくても実家には、震災までは年賀状は出していた。
それでも音沙汰がないという事は、俺は既に忘れられた存在なんだという事だ。
帰郷は、それを確かめるいい機会だったことを、ここに記そう。