今から6年前。俺は突然、10年連れ添った女房から何もかも、もう我慢出来ないと離婚を切り出された。
女房曰く俺の飯の食い方、洗濯の出し方から朝の態度。とにかく朝から晩まで俺の事が我慢ならないという俺からすれば理不尽な理由で、小学生だった長男、長女を連れて女房は実家に戻っていった。
その後、離婚調停だ、家庭裁判所だと面倒な事が続いたが家庭を顧みない傲慢な男という図式にしっかり嵌め込まれ、俺は納得のいかない慰謝料やら養育費を支払う羽目になった。
元々薄給の上に、その支払いだ。俺は仕方なくなるべく人目につかないダブルワークでのアルバイトを探した。
たまたま行きつけの居酒屋の大将に酒呑みの愚痴ついでに相談すると紹介されたバイトが、ラブホテルの清掃業務だった。かなり抵抗があったが、良く考えてみると会社勤めの40過ぎのオッサンが人目につかずにアルバイト出来る場所は限られている。
俺は半分投げやりな気持ちで繁華街のラブホテルの夜8時から深夜2時までのシフトに入る事になった。
ラブホの清掃しかも深夜帯。まともな人間は働いていないだろうと思っていたが、実際には俺と似たような境遇の男達が沢山働いていた。
俺は自分より4歳歳上の小林という男とシフトが一緒で、ほぼ2日おきに小林と手分けして風呂、部屋を掃除してシーツを取替えベッドメイキングをして忙しく働いていた。
仕事に慣れた頃、俺たちバイトの控室にある部屋状況を知らせるモニターを眺め次は、会計中のこの部屋だとか、休憩から宿泊に切り替わったとか、仕事の段取りを話していた時である。
この最上階の808号室はもう入ってから13時間近いですね。それにさっきから部屋の鍵が開いたり閉じたりしている。なんなんですかね?とヘビースモーカーの小林に尋ねると小林は口から煙を吐き出しながら変わり者のオッサンだよ。この部屋に住んでるんだ。何者なんだろうな。どういう清算してるのか、何の仕事してるのか全然知らないけど、普通のオッサンに見えるよ。時々、部屋に飲みものや氷を届けるとお疲れ様って栄養ドリンクくれたりする。女連れて帰って来たり、デリヘル呼んだり、スーツで出かけるとこもちょくちょく見るし。本当に正体不明だよ。
え?ここ?ラブホに住んでる人がいるんですか?どういう事?意外な答えに驚いた俺に小林はモニターを眺めながら答える。この部屋に住んでるんだよ、この人。あんたもいつか廊下や部屋に届けものした時に会うよ。
意外と気さくに話しかけてくるし、時々届けものするとご苦労様とか言って何かくれたりするよ。ちゃんと結婚してて、どういう事情か家族は別に住んでるらしい、不動産屋かなんかじゃないかな?クリーニング屋から綺麗なスーツやらシャツを抱えて戻ってくるしな。
おっとお喋りはこれまでだ。201出たぞ。休憩から清掃待ちに表示が切り替わった201号室のモニター表示を見て小林は溜め息をついて煙草を乱暴に消した。
ラブホに住んでいる男。俺は俄然興味を引かれたが俺が入っているシフト時間には男からルームサービスを頼まれる事や、帰宅した男に廊下ですれ違う事も無かった。
ところがその日は突然やってきた。
俺はいつも通り本業を終わらせてラブホに出勤し着替えていた時に控え室の内線電話が鳴った。
富田さん、出勤早々悪いんだけど808号室行ってくれる?テレビが付かないらしいんだけど、テレビ裏のコード抜き差ししたり電源落としたりしてくれる?たぶん直るから。
フロント業務のシングルマザー、金井さんの指示に返事をして、俺はラブホに住んでいるという男の部屋に向かった。
本来なら長期滞在の場合、定期的に部屋を掃除する事になっているそうだが、この男はそれを断っているという。シフトの違うパート女性達が、部屋どうなってるんだろうね。たぶんぐちゃぐちゃで汚れ放題、大変な事になってるんじゃない?と噂していた。
俺は中年男の汚れた部屋を想像して覚悟を決めて部屋の呼び鈴を鳴らす。はい、今開けます。中から男が応える。部屋が開くとそこには50絡みの背の高い男が笑顔を見せて立っていた。
部屋は全く汚れていなかった。チラッと見えたソファテーブルにはノートパソコンと書類の束。
そして壁掛けの大型テレビの前の大きなベッドには半裸の女がこちらに背を向けて眠っていた。
俺は軽い寝息を立てている女を起こさないように静かにテレビの背面を探る。指示通りあちこちのケーブルを抜き差しするとモニターは無事復活した。
背の高い男は、おっ!直った!やるじゃんか。有難う。と言ってベッド脇のテーブルに無造作に置いた長財布から札を取り出して俺に手渡してきた。助かったよ。丁度サッカーが始まるところでさ。なんか美味しいもんでもコレで食べてよ。
俺が断って札を返そうとすると、全く受け取る素振りさえ見せず、お兄さんは初めて見るね。ここのスタッフほとんど全員見た気で居たけど、最近入ったの?と笑顔で聞いてくる。
俺が半年程前から居ると答えると、そうなんだ。頑張ってくださいね、ついでだから、これスタッフさん達で食べてと何処かで貰ったのであろう菓子折りを手提げ袋のまま俺に手渡しきた。
不思議なもので、バイトを始めて半年近く見かける事すら無かったこの男にこの日を境にしょっちゅうすれ違う事になり、挨拶をしたり、部屋にルームサービスの品物を持って行き俺たちは2、3言だが会話を交わすようになっていた。
ある日、控え室の内線を受けた小林がえ?富田さん?はい、居ますよ変わりますと言って俺に受話器を寄越した。
受話器からフロントのシングルマザーの声がする。富田さん?あのね808号室の人が富田さんが居たら部屋に来てくれって言ってるけど、行ける?
俺は何だろう?と考えた。何かクレームを言われるような事をしただろうか?俺は不安にかられながら、分かりました808号室ですね、行きます。と受話器に答えた。
808号室の呼び鈴を鳴らすといつもは人懐っこい笑顔で出迎える背の高い男が困惑した顔で俺を出迎えた。
これが俺が体験した異常な世界が俺の前に開けた最初の瞬間だった。
〜つづく