先日のこと、お世話になった一人の奥さんの通夜に参列してきた。
私にとっては初めての女性、忘れ難い人だった。
コロナ禍を乗り越え週に1回ゴルフをするなど元気だったが、くも膜下出血で急逝したと聞いた。
平均寿命と比べると少し早い旅立ちだったが、私と関係していた頃に「しわくちゃのお婆ちゃんになる前に、きれいなままで死にたい」と言う本人の言葉通りだったのかな、とても70歳を過ぎたようには見えない容姿のまま旅立ったと思うと、本人にとっては幸せな生涯だったのかも知れない。
奥さんは寛子さんと言う名前だった。
私が知り合ったのは今から40年以上も昔のこと、私は高校1年生で寛子さんは33歳だったと記憶している。
私の実家から歩いて10分ほどのところあった喫茶店で知り合った。
このお店のママは当時50歳を過ぎたくらいだったと思うが、終戦直後から銀座で働いていたという事で、寛子さんも20代前半の頃に銀座でアルバイトしていたことがあるのでママとは気があったということだった。
当時は突っ張って、地元の悪友たちとタバコを吸いながらインベーダーゲームやジャンピューターをやって騒いでいた私だったが、一人だと寛子さんと世間話をしたものだった。
本阿弥周子という女優さんに似ていて、いつもお洒落をしていて上品な物腰の美人だった。
寛子さんは後妻さんらしく、かなり年上の旦那さんがいて会社を経営しているとかで、そうとう裕福な生活をしていた。
喫茶店のママから聞いたが、寛子さんには子供もなく旦那さんも忙しくて留守がちなので、家にいても寂しいから昼間いつもこの店に来ているという事だった。
だからだったのか、私が一人の時はいつも寛子さんの方から話しかけてきて、まるで弟のようにかわいがってくれていた。
私のそんな寛子さんのことがだんだん好きになり、憧れと言うか恋心のようなものを感じるようになった。
あれは高校2年の終わり頃だったが、夜の9時過ぎに店から寛子さんを送って行った時のことだった。
人気のない両側が盛土になっている切通しと言うか谷底みたいな道が50mくらい続くところがあるのだが、この頃何度か変質者が出たという事で、寛子さんに頼まれて送って行った。
その道を抜けて曲がったところが寛子さんの住むマンションなので、二人で足早に通り過ぎようとした時だった。
道の真ん中あたり、一番暗いところで寛子さんが私の腕をつかんだ。
「え?なんですか?」と言って振り向くと、寛子さんが「ねぇ、キスしよう」と言って抱き着いてきて、背伸びしながら私の唇にキスした。
あまりにも突然のことで私が呆然としていると、寛子さんは「送ってくれたお礼」と言って歩き始めた。
この後も、送っていくたびに同じ場所でキスするようになり、私は寛子さんとキスしたくてその時間帯に喫茶店に通ったりした。
最初のうちは軽く唇を合わせる程度だったが、しばらく経った頃には抱き合いながらけっこう長い時間、しかも舌を絡め合うようなキスに変わっていった。
私が高校生の間はキス以上の進展はなかったが、私はそれだけで十分だった。
もちろんセックスしたいと思い、唇や口の中の粘膜の感触を思い出しながらオナニーに励んだが、一回り以上年上の人妻である寛子さんとセックスできるなんて非現実的な夢だと思っていた。
高校の卒業式が終わり3月も終わりに差し掛かった頃に、寛子さんから卒業祝いをしてあげると言われて、新宿のすき焼き屋に連れて行ってもらった。
「少しだけなら良いよね」という事でビールをコップ3杯くらい飲んだが、そのせいか妙に気が大きくなった。
進学と言っても大学の附属高校に通っていたので次の学年に進級するような感覚だったんだが、寛子さんから「そうそう、入学祝は何がいい?」と聞かれたので、酔って気が大きくなっていたこともあって、ダメ元で「寛子さんで童貞を卒業したいな」と言ってしまった。
寛子さんは一瞬ビックリした顔をしたが、すぐに笑顔になって「え~?それ本気なの?初めての相手が私なんかで良いの?」と言った。
私はビールと恥ずかしさで真っ赤な顔だったと思うが、「寛子さんが良いんです。ダメですか?ダメですよね?」と言って、「変なこと言ってごめんなさい」と謝った。
しかし寛子さんは私の顔を見ながら「ダメなんかじゃないわ、だけど本当に私で良いの?」と言ったあと、目をじっと見つめながら「林葉君にそんな風に思われていたなんて、すごく嬉しいな」と言った。
私が「良いんですか?本当ですか?」と、寛子さんははにかんだような笑みを浮かべながら、黙って頷いた。
「でも、少しだけ時間をちょうだい。そうね、2~3日で良いわ。女性にはいろいろと準備があるの」と言って私の手を握った。
当時読んでた雑誌に童貞を卒業したいなら年上女性が良いと書かれていたが、希望がかない有頂天になった。
その約束から3日が過ぎ、もしかしたら上手いことはぐらされたのかな?と思い始めた5日目の朝、居ても立ってもいられない気持ちで開店時間の9時に喫茶店に顔を出すと、寛子さんが私よりも20分ほど遅れて来た。
当時は携帯電話なんかなかったので、今のように簡単に連絡を取り合うことができなかった。
寛子さんは誰にも気づかれないようカウンターの下で私にメモを渡してくれた。
世間話をしながらトイレに行くふりをしてメモを見ると、「11時半に○○のところで待ってて」と書いてあった。
時計を見ると10時を少し回ったところだったので、用事があるふりをして家に戻り、少し大人っぽい服に着替えてから待ち合わせ場所に向かった。
言われた場所で待っていると、11時半きっかりに寛子さんが車で迎えに来た。
20分くらいのところにあったイタリアンでお昼を食べた後、どこへ行くのかと思ったら寛子さんの自宅があるマンションだった。
私が一緒だと気付かれないように気を付けたのか、寛子さんはガレージに車を入れるとすぐ足早にエレベーターに乗り、部屋の中に招き入れてくれた。
寛子さんは部屋に入ると、窓のカーテンを全て閉めた。
「そこに座って待っててね」、寛子さんはそう言ってその場を離れたが、その直後に風呂にお湯をためる音が聞こえてきて私の緊張感を倍増させた。
寛子さんはすぐには戻って来ずに、コーヒーを入れてから戻ってきた。
「旦那がね、昨日から10日間仕事で東南アジアに行ってるの。林葉君の初めてなんだから、変なホテルよりもちゃんとした場所の方が良いと思って…」、寛子さんはそう言って私の隣にくっ付くように座った。
私の緊張はピークに達し、口から心臓が出てきそうなほどバクバク言っていた。
寛子さんはコーヒーカップを置くと、手のひらで私の顔を自分の方に向けさせてキスを求めてきた。
私は飢えた獣のように寛子さんを抱きしめながらソファーの上に押し倒して、その口を貪るような激しいキスを交わした。
私が服の中に手を入れようとしたとき、寛子さんがその手を抑えて「待って、お風呂できれいにしてからね」と言って体を起こした。
「一緒に入ろう」、寛子さんはそう言って私の目の前で服を脱ぎ始めた。
私も慌てて服を脱ぐと、寛子さんの後を追ってバスルームに入った。
寛子さんはボディーソープのしみ込んだスポンジで、私のお腹、背中、腕、脚をきれいに洗って、最後に勃起したペニスを素手でしごくように洗ってくれた。
あまりの気持ちよさに射精しないように我慢するのが大変だった。
私は御馳走を目の前にした感じで、体を洗ってもらった後に寛子さんの体を触ったり抱き着いたりキスを求めたりした。
寛子さんに「林葉君、落ち着いて、私が洗えないから」と言われたが、それでも胸を触ろうとしたりしていると、「林葉君、これに座って」と言って風呂椅子を置かれた。
私が座ると寛子さんは目の前にしゃがみ込み、いきなりペニスを咥えた。
私はすぐに気持ち良くなってしまい「あっ!ダメです!出ちゃう!」と言ったが、寛子さんは止めてくれなかったので、とうとう口の中に出してしまった。
寛子さんは最後の一絞りまで強く吸い出して飲み込むと、「どう?少しは落ち着いた?」と言ってにっこり笑った。
確かに落ち着いたが、そのあとバスタブでいちゃついたらすぐに勃起して寛子さんを驚かせた。
風呂から上がった後、寛子さんに手を引かれるように客間のような和室に入った。
綺麗に敷き並べた布団に寛子さんが仰向けになり、私に向かって「優しくしてね」と言った。
あんまりガツガツしていると嫌われると思い、すぐにでも飛びつきたい衝動を抑えながらゆっくりと寛子さんの隣に横になった。
初めての事だけに、何をどうしていいのかわからずに、取り敢えず寛子さんの上に体を重ねてキスをしたあとおっぱいを吸ったり揉んだり、その周りを舐めたりすることしかできなかった。
そんな私に寛子さんは、私の好きなようにすればいいと優しく教えてくれた。
私は学校の帰りに友達と見に行ったロマンポルノの男優がしていたことを思い出して、寛子さんの体中に舌を這わし手で触った。
大きくはないが形の良い乳房、小ぶりな入りと可愛い乳首、私は寛子さんが感じているかどうかなどということは頭になく、自分がしたことをすることに必死だった。
これが最初で最後かもしれない、そう思うと寛子さんの体を余すところなく味わい尽くしたい、ただその思いだけだった。
私がクンニしようと寛子さんのアソコに手を伸ばすと、「優しくね、そっと優しくして」と言った。
確かに私は初めてのことで、知らず知らずのうちに力が入って強く揉んだり吸ったりして寛子さんに痛い思いをさせていたのかもしれない。
そう思ってそっと優しくしのつもりでクンニしたが、逆に優しくし過ぎてしまい寛子さんから「もっと強く吸って」と言われた。
私は寛子さんのアソコをベロベロ舐めた、チュウチュウ吸った。
寛子さんのアソコはちょっとしょっぱいような酸味もあるような感じで、微かに刺身のような匂いがしたが、初めてだった私は女性のアソコってこんな味と匂いがするんだと思った。
それから寛子さんに言われて背中や腰、太腿の裏側や脹脛、そしてアナルにまで舌を這わせると、演技していたのかもしれないが甘い喘ぎ声を上げていた。
最後に「もう一度アソコを舐めて」と言われてクンニしたが、最初の時よりも愛液の量が多かった気がした。
そのあと寛子さんが私の体を一通り舐め回して腰に跨って来た。
そして「良い?」と聞いて私が頷くのを見てからペニスを手で上に向けてそのまま挿入した。
ペニスが暖かくて柔らかい感触に包まれた、なんとも言えない気持ち良さだったが、寛子さんが「入ったよ、気持ち良い?」と言って腰を動かし始めると、すぐに亜太の天辺まで突き抜けるような快感に襲われて「あ、出ちゃう!」という感じで射精してしまった。
それでも寛子さんは「私も気持ち良かった」、そう言ってアソコをティッシュで拭いたあと私のペニスもきれいにしてくれた。
寛子さんは私がすぐに射精してしまったことには触れず、「おめでとう、これで林葉君も一人前の男ね」とにこやかな顔で言っただけだった。
私が「あのぉ、我慢できずに寛子さんの中に射精しちゃったけど妊娠とか大丈夫なんですか?」と恐る恐る聞くと、「今日まで待ってもらったのはね、そうなっても大丈夫な日が来るのを待ったからなの」と教えてくれた。
そして「それはね、林葉君の初めての日にゴムなんか着けたくなかったから」と付け加えた。
その言葉を聞いて「寛子さんはそこまで考えていてくれたのか」と、私はとても感動したのを覚えている。
その日は寛子さんに教えられながら夕方までセックスに没頭した、古い話しで曖昧な部分もあるが、確か3回ほど寛子さんの中に射精したと思う。
それは、その日が初めてだったから膣外射精なんて器用なことはできなかったからだった。
寛子さんはそのたびに浴室に行ってアソコを切れにしなければならなかったから申し訳なく思ったが、私が勃起しているのを見て「もう一度できそうね?」と言って体中にキスやフェラをされると私も寛子さんの体に貪るように求めた。
ちょうど春休み、寛子さんも旦那さんが10日間出張中ということで、その間は毎日のように寛子さんと会って日中ラブホテルに籠ってセックスした。
寛子さんが教え上手で褒め上手だったからだろうが、1週間ほどで挿入後10分くらいもつようになり外出しができるようになった。
寛子さんにフェラされてもシックスナインをしても、何とか我慢できるようになり、すぐに出してしまうようなこともなくなった。
寛子さんもそれを褒めてくれたし喜んでもくれた。
大学の4年間は私にも彼女ができ、当然セックスもしたが寛子さんとの関係も続けていた。
今のようにスマホで簡単に連絡を取ることができない時代だったが、日中の旦那さんがいない時間帯に家電に電話を掛けられたので苦労することはなかった。
多い時には週に1回くらいで、1月くらい会わない時もあったが、会えば当時付き合っていた彼女とは比べ物にならない大人の女のセックスを味合わせてくれた。
寛子さんは私が同世代の彼女を作ることを嫌がるどころか勧めてくれ、彼女とのことでの相談も聞いてくれてアドバイスもしてくれた。
寛子さんはセックスだけでなくゴルフのマナーも教えてくれた。
当時は社会人になると上司から「ゴルフくらいできないとダメだぞ」と言われるような社会だったが、初めて練習場に行ったのもコースに連れて行ってくれたのも寛子さんだった。
ゴルフに行けば帰りに必ずと言っていいほどラブホテルに寄ってセックスした。
私が入社してから4年目の時に大阪に転勤になり、そこから九州に異動して戻って来たのは7年後、私が33歳、寛子さんがちょうど50歳だった。
もちろん会ったし一緒にゴルフに行くのも再開したが、1年ほどでセックスしなくなった。
理由は寛子さんの体調が更年期ですぐれなかったことと私の結婚が決まったことだった。
それでも寛子さんの体調がいい時にはゴルフに行くこともあったし、時々飲んだりする付き合いは亡くなるまで続いた。
寛子さんも60才少し前から体調も落ち着き元気になったが、もう男女の関係に戻ることはなかった。
寛子さんが60歳の時に旦那さんが83歳だったと思うが亡くなった。
私が結婚してからは私の妻や旦那さんを含め、家族ぐるみで良きゴルフ友達、飲み友達という感じでの付き合いだった。
もちろん妻も旦那さんも、若い頃の私と寛子さんの関係については知らない。
私を一人前にしてくれた素晴らしい女性だったと感謝している。