世の中にはそいつに酷いことされたり、嘘つかれたりしても何故か嫌いになれない、憎みきれないって人間が存在する。
人から言わせれば、お前あんなことされたのにまだ付き合ってるの?とかお前もお人よしって言うか馬鹿だねぇとか言われてしまうのだが。
俺には美穂という彼女というか、愛人というか、知り合いというか何と言ったら良いのか説明が出来ない憎みきれないとんでも無い女が居た。
今から5年程前に行きつけのバーで早い時間から呑んでいる時だった。
カウンターで飲んでいると、隣の2人組の男達の会話が聞こえてきた。
1人は痩せた背の高いキツネ的な男。もうひとりは背の小さなずんぐりむっくりとしたタヌキ的な男。好対照の2人組だった。2人はどうやら、この近くのスナックの女を待っているようだ。
時間は9時少し前。会話の内容から、女とバーで待ち合わせて、スナックに同伴する事になっているようだ。
キツネ男がタヌキ男に言う。
お前さ。人良すぎない?確かに美穂ちゃんは良い娘だと思うよ。だけどさ、一緒に飯すら食ってないのに、9時少し前にバーで待ち合わせして一杯だけ一緒に呑んで、店に行って彼女の同伴指名料払うって、なんかやっぱり納得いかないなぁ。お前良いように使われてるよ。
タヌキ男は憤慨している様子でムキになって甲高い声で反論する。良いんだよ、俺が納得してるんだから。
あの娘は苦労してるんだよ。事情があって2人暮らしで、おばあちゃんの面倒見てるんだよ。
だから婆さんの夕飯や身の回りの支度しなきゃならないから同伴出来ないけど稼がなきゃならないって言うから、俺から提案したんだよ。
それなら夕飯の支度やら面倒みてゆっくり出て来れば良いって。同伴は9時までに店入らなきゃならないから少し前に、この店で待ち合わせして一緒に店入れば同伴料稼げるじゃないかって。
キツネ男は、はいはい。お前が良いなら良いんだけどさ。分かった、分かった。
そんな会話が交わされている店内に和服の女性が入ってきた。
渋い鉄紺の着物に海老茶の帯。着慣れている様子で一見落ち着いた齢の女性に見えるが、話出すと30手前の様子だった。
彼女は店に入るなり2人組に小走りに駆け寄り、ごめんなさいね。出掛けにバタバタしちゃってと言いながらタヌキ男の隣りに座る。
バーテンダーに親しげに挨拶をしてビールを小さいグラスで頼んだ。人の良いタヌキ男は美穂ちゃん大丈夫なの?おばあちゃん。と心配し、女が約束の時間よりだいぶ遅くなった事など意に介する様子も無い。
美穂という女は、キツネ男にも愛想を振り撒きひとしきり男達を笑わせて和ませた後、着物の袖口から伸びた真っ白な腕につけた華奢な腕時計をチラリと見やるとあら、もうこんな時間、ママに怒られちゃう店行かなきゃ。ごめんね急がせて、とりあえず店に行きましょうか。とあっさりと2人の男を連れて店を出て行った。
女は美人とか可愛いと言うより愛嬌のある感じの男好きする女で、身体つきもややぽっちゃりとした母性を感じるタイプだった。
親しみが湧く感じの女で話し口調も、なんとなく楽しげで不思議な魅力を感じさせ、タヌキ男が熱を上げるのも分かる気がする。現に女が来る前は不満を口にしていたキツネ男も美穂が笑いかけるとタヌキ男よりも美穂に話しかけていた。
俺は美穂と2人組が店を出たあと、顔馴染みのバーテンダーに美穂の事を尋ねた。
バーテンダーは良く知らないんですがと前置きしていたが、美穂には興味が尽きない様で見たこと聞いたこと噂話まで良く喋った。この男には今後気をつけて喋った方が得策の様だ。
バーテンダーが語ったところによるとタヌキ男の話の通り、美穂は育った家庭環境が複雑で両親が離婚後、母親が男と蒸発。祖母に育てられて高校卒業後から昼夜問わず仕事をして祖母と生活をしていると言う事だった。
それ故にかなりのしっかり者で29歳とは思えない30代半ばの様な落ち着きを見せている。
タヌキ達以外にも、このバーで9時前に待ち合わせして同伴代を稼がせている客が少なくとも5人くらいは居て出勤時はほぼ毎回、同伴料を稼いでいること、そのうちの3人はかなりの高齢者で、いずれもどこぞの会長職か分からないが会長と呼ばれている男たちで、その老人達にかなり貢がせている様だとか愛人契約をしているという噂がある等有る事ない事を喋った。
容姿や雰囲気は、いわゆる愛人タイプとは正反対の印象なのだが、どうも色々とやってそうだった。俺は純粋な好奇心で美穂という女が気になった。
俺は冷やかし半分でバーテンダーに美穂の務め先のスナックを紹介してくれないかと頼んだ。バーテンダーは軽く引き受け、その場でスナックに電話した。
電話に出たママに、うちのお客さんで近所で良いスナックが無いかと探している人が居て、ママの店を紹介したいのだが良いか?と尋ねて快諾されて今から田中さんと言う人が行くのでよろしくお願いしますと言って電話を切った。
俺はバーテンダーに店の場所を聞き、礼を言ってバーを後にした。
スナックは思いの外、大きな箱だった。
三、四十人は入れそうな店舗だ。店に入り最初に対応に出てきた店長と呼ばれる小男に、バーからの紹介で来た田中だと告げると、店内から小綺麗な和服姿のママが満面の笑みを浮かべて出てきた。
いらっしゃい。愛想の良いママにソファ席に通される。店の料金システムを軽く説明し、俺が頼んだウィスキーで手早く水割りを作る、俺はママにも好きなものを飲んでくれと言い、乾杯した。
ママはあのバーには良くいらっしゃるの?とかどんな仕事をされてるの?等話しかけてくるが、俺は広い店内に美穂の姿を探す。
そうだった。あのバーに良く行くうちの店の娘が居るの。ちょっと変わるわね。ゆっくりしてらしてと席を外す。
暫くすると店の奥から和服姿の美穂が俺のソファ席に訪れた。こんばんは。武井さんの紹介なんですね。武井というのはあのバーテンダーの名前だ。俺はそうなんだよ。と答える。
美穂は俺の水割りのおかわりを作りながら、俺を見て、さっきお客さん、あのバーに居ましたよね?と聞いてきた。
俺は実は君をバーで見かけて、気になって武井君に紹介して貰ったたんだと告白した。
美穂はえーそうなの。嬉しいわ。でも何で私が気になったの?と聞いてくる。
俺は君の正体が気になってと答えた。
美穂は少し怪訝な表情を浮かべたが直ぐに笑顔を浮かべ、何?正体ってと笑いながらグラスを合わせて来た。
後から思うと、この時の一瞬の怪訝な表情を浮かべた美穂が、俺が1番彼女の正体に近づいた瞬間だった気がする。