可奈はその日、軽い皿を幾つかとシャルドネをグラスで2杯程頼み、テーブル席から時折窓の外を放心した様に眺め、暫くすると携帯を取り出し何やら操作すると大きくため息をついてからスタッフに勘定を頼み済ませると出口で俺からコートを受け取り出ていった。
出口の扉を開けた俺にチラリと視線を投げ、有難う、遅くにごめんなさいね。今度はもう少し早い時間に寄らせて貰うわと言った。
少し酔いで美しい滑らかな頬を赤くしている可奈に俺はお近くですか?お車の手配をしましょうか?と尋ねると
良いの。近いから。風にも少し当たりたいし。今日は歩いて帰るから大丈夫。有難う。と俺に振り返りながら通りに歩を進めた。
振り返った可奈は少し涙ぐんでいるように見えた。
涼やかな瞳に薄い清楚なくちびる。
肩までの髪が春風にそよぐ。
有難う。店長さん?また寄らせて貰うからと扉を閉めて通りまで送ろうとした俺を真っ白な腕を軽く上げて制した。
俺は有難うございました。またのご来店をお待ち申し上げますと頭を下げた。
可奈はそのまま真っ直ぐに住宅街の方に歩き出す。
俺は可奈がしばらく先の角を曲がり見えなくなるまでその後ろ姿を見送った。
いたずらな瞳と帰り際に見せた儚げな涙目。
入店時の世慣れた感じと頼りなさげな帰路につく後ろ姿。
矛盾を孕んだ可奈は俺に強烈な印象を与えた。
俺はその日、閉店作業を手伝い、店長と残りコロナの状況や対策についてやり取りをして深夜帰宅した。
いつもなら遅く帰宅すると寝床を起き出し、夜食や寝巻きの世話をしてくれ、少しだけ俺のささやかな晩酌に付き合ってくれる女房だが、この日は最近言うことを聞かない子供の面倒を見るのに疲れていたのだろうか女房は俺の帰宅に気が付かず軽い寝息を子供の横で立てていた。
俺は女房を起こさないように、静かに冷蔵庫から缶ビールを取り出し食卓の灯を点けずに暗闇の中で缶を開けてビールを煽った。
帰宅の道中から可奈のあのいたずらな表情や帰り際の儚げな横顔が頭から離れない。
俺は可奈に出会ったあの瞬間から、可奈に既に入れあげていたのかもしれない。
俺は可奈が店にいつ来るだろうかと考えていた。俺は店舗に常駐している訳では無い。事実、今日もコロナを不安がる店長と話し合う為に久しぶりに店舗に顔を出しただけだ。通常ならば週に一、二度様子を見に行くだけだ。しかし俺はどうしても可奈にもう一度会いたかった。俺は真っ暗な食卓でビールを飲みながら店舗に頻繁に顔を出す理由を考えていた。としあき。俺は出し抜けに大きな声で呼ばれ振り返ると寝巻きの女房が俺の背後に突っ立っていた。何度も読んだのに貴方難しい顔して何か考え込んでいたから。いつ帰ったの?ごめんなさい気がつかなくて。何?どうしたの?電気も点けないでと言いながら食卓の電気を点ける。俺は可奈の横顔をずっと思い出していたので少し女房に後ろめたさを感じて謝りながら缶ビールを一気に煽って俺ももう寝るから寝床に戻ってくれと女房に即し慌てて着替えて寝室に入った。翌日、俺は通勤電車に揺られながら何となく可奈が今日も来る予感というか確信めいたものを感じていた。俺は電車を降りると店長に連絡し昨日話し合ったコロナ対策について纏めた資料を持っていき店舗スタッフに始業前ミーティングで共有したいと伝えた。可奈が帰り際に言った今度はもう少し早い時間に寄らせて貰うわという台詞に可奈は早い時間に来るという予感がしていた。俺は日中そわそわした気分で業務をこなし、店舗の始業ミーティングに出席する旨を伝えて昼過ぎには本社ビルを後にした。遅めの昼食をとり店舗付近の競合店を何店舗か視察して時間を潰し、俺は夕方に店舗に入り事前に店長と打ち合わせをして始業ミーティングをこなした。開店準備が整い看板に灯りを入れると俺は可奈が今にもあの扉を開けて入ってくるのでは無いかと高揚が抑えられなかった。しかし俺の立場では店舗スタッフと一緒に店頭で彼女が来店するのを立って待っているわけにもいかず俺は事務所スペースに陣取りパソコンを開いていた。来週あたりから自粛営業が始まるやもしれないと昨夜の報道を見た客が自粛前にという事で久しぶりに開店と同時に客の入りが良い。昨日までの客入りを見て店長が人員を絞っていたので裏方がかなり忙しい様子だ。俺はホールの応援に入る。スタッフの手の回らないテーブルの片付けをしていた時だった。すみません。入り口から女性の声がした。振り返ると入り口の扉前に可奈ともう1人の女性の二人連れが立っていた。俺は動悸が早くなるのを感じたが何とか自分を落ちつかせて可奈達の前に進み出た。俺は可奈達をたまたま今、空いたばかりの昨夜と同じテーブル席に案内した。可奈は連れの女性に昨日来たの。美味しかったのー。ミクも絶対気に入ると思って!と明るい声で会話しながら席に着いた。俺はテーブルに着いた可奈に連日のお越し有難う御座いますと伝えた。可奈はだって昨夜は遅くてゆっくり出来なかったし、食事も済ませた後だから全然食べられなかったけど凄く美味しかったし、友達と会う予定だったから思い切って連れて来ちゃったと溢れるような笑みを見せた。可奈はアラカルトで何品かと昨夜と同じくシャルドネをオーダーした。俺は厨房にオーダーを通して昨日の上客が来ているからサービスで1品目が出る前に何か簡単な物を出してくれと料理長に頼んだ。昔はホテルの料理長だった初老の男はこういうオーダーに気の利いた応えが出来る。手早く小綺麗なカクテルグラスに盛り付けた先付を出してきた。俺は冷えたシャルドネを飲みながら友人と楽しげに話す可奈に店を気に入って頂いたお礼に店からサービスをさせて下さいとことわりカクテルグラスの先付を出す。可奈はパッと辺りが華やぐような笑顔を見せてわー嬉しい。有難う御座います。綺麗ねー。とはしゃいでくれた。俺はテーブルで給仕するたびに可奈に話しかけられて店舗スタッフでは無く本部の営業部長である事や昨夜は時間が無く満足なサービスが出来なかったのでまた来て欲しかったなどと話した。可奈は俺の話に耳を傾け頷き、料理が美味しいと喜びの声を上げる。食事が終わり会計を済ませた可奈に俺は名刺を渡し、何かあったらご遠慮なくお申し付けください、今後ともご贔屓によろしくお願いしますと頭を下げた。可奈と友人は満足しきった様子で帰って行った。俺は可奈にまた会えたこと、昨日とはまた違い今日は仕事
...省略されました。
可奈からの返信は来月学生時代の仲良し6人組と毎年恒例の飲み会がコロナの影響で飲食店でやりづらい、可奈の自宅にケータリングや皆で持ち寄ったものを飲み食いして楽しもうと思っていたが、不味いケータリングを頼むならウチに頼めないかというものだった。
当時はコロナを甘く捉えていてケータリング事業やテイクアウトといったものにまだまだ消極的な時期だった。俺はこれを機会に会社にケータリングについて積極的になるべきだと提言しよう、そのテストケースと託けて可奈のホームパーティ依頼に応えてやろうと考えた。
俺は早速、テイクアウト、ケータリングについて資料を纏めた。あの時期にテイクアウトに出遅れた原因は会長だった。若い頃は何でも直ぐやれ、今やれの人だったが会長も歳をとって保守的になった。いっとき弁当屋展開に手を出して手痛い失敗をしていたのもあったのかもしれない。
会長は立ち上げたばかりの高級店がケータリングをする事がブランド化の流れに逆行すると懐疑的だったので店のイメージを壊さぬように料理人も食器も持ち込む付加価値をつけた高級志向のサービスをテストするとして渋々認めて貰った。
俺は翌日、可奈にメールを送りその旨を伝えた。
可奈はやはり思った通り裕福な暮らしをしていた、高級住宅街で連日、飲みに歩ける身分だ、学生時代の女友達と自宅でホームパーティ。
俺が料理人、スタッフや店の食器類を持ち込む大掛かりなケータリングを提案すると予算を心配していないお気楽な返信メールが届いた。
俺が最初にこの街に出店を決めたのは駅前の高級スーパーの惣菜売り場の目を疑うような高価な商品を見たからだ。その惣菜を値段も見ずに買い物籠にポンポン放り込む住人達。
それまで大衆店の商品開発でいかに安い食材を使ってどれだけ利益率を確保しながら安く提供出来るか、大の大人が大人数で1円、2円の話を議論していた俺には衝撃的な光景だった。
俺は思い切って言ってみた。可奈さんの考えてる内容のイメージやご自宅のテーブルやキッチンなどの環境を事前に確認したいので打ち合わせを兼ねてご自宅にお伺いしてよろしいでしょうか?
それまでメールをすると1時間以内には来ていた返信がこのメールを送信して2時間以上経って返信が無い。俺はやはり自宅に行くというのはやり過ぎだったか、何か変に思われたかもしれないと焦り始めた。返信が無いまま3時間経とうとした時に俺は失敗したと思い、パソコンに向かい何とか挽回する内容をメールしようと思案を始めると可奈から返信が来た。
用事があって出ていました。返信遅くなって申し訳ありません。明日の午後ならば空いてます。
可奈に直ぐに14時にお伺いしますと返信した。可奈からは承諾と住所を書いた返信メールが届いた。
翌日メールに書いてあった住所を訪ねると高級住宅街の小高い丘の1番上にあるひときわ大きい敷地の邸宅だった。タイル張りの壁が邸宅を取り囲んでいた。格子のシャッターの奥の駐車スペースは3台分あり、そのうちの2台分に黒の大型SUV輸入車と赤い小型の輸入車が並んでいた。俺は威圧感すら感じる石造りの門扉のインターフォンを鳴らす。可奈の声が答えると大きな鉄製の扉が大袈裟な音を立てて解錠された。白いタイルと信じられないほどの大きさの一枚ガラスが印象的な豪邸に迎えられた。可奈は品の良い薄い水色のワンピースを着て俺の家の居間が2つ入りそうな広大な玄関に立って微笑んでいた。ごめんなさいね。わざわざ来て頂いてちゃって。どうぞ上がって。うちの旦那が変わり者でスリッパが嫌いなの。だからうちはスリッパ無いのよ。ごめんなさい。そのまま上がってください。可奈はニコニコしながら出迎える。早速キッチンを見て貰おうかしら。ホテルのそれかと見がまうダイニングルームを抜けてキッチンに案内された。ここて料理番組が収録出来るのではないかと思うほどの瀟洒なアイランドキッチン。業務用レベルの海外製の大型冷蔵庫。正直言ってウチの店舗よりある意味立派なキッチンだった。オーブン、ワインセラーはじめ調理機器、器具すべて上等なものが揃っている。殆ど使っていないのであろう築5年だという割にはほぼ新品の状態だった。全く生活感の無いキッチン、広大で真っさらな調度品が溢れるダイニングルーム。可奈はここで旦那と2人どんな生活をしているのだろうか。俺は食器棚に並ぶ食器やグラスを見ながら、凄いですね。正直言ってウチの店のものより全然、上等なものばかりです。店のものを持ち込むなんて烏滸がましかった、こちらのものを使いたいですが割ったり欠けさせたりするわけにいかないのでウチのものを使わせてくださいと伝え、馬鹿でかいダイニングテーブルで可奈と隣り合って座り入り時間や料理、予算について話し合った。可奈は近くで見るとあの涼しげな目元も透明感のある肌、薄い上品なくちびる。そしてその場がぱっと明るくなるような明るい笑顔、全てが魅力的だった。ワインは自宅のものを使いたいと可奈は言ってワインセラーの扉を開いて見せる。ウチの店では扱えない高価なものばかりだった。俺はその中に以前から一度呑んでみたいと思っていた銘柄を見つけた。俺がそのボトルを手に取り眺めていると、可奈は私もこれが好きなのと言う。いや、好きとかじゃなくて高価ですし、なかなか手に入らないですよね。私は呑んだことがありません。実物は初めて見ました。と言った。日本で買うとプレミアがついて高いの。現地で正規で買うとそうでもないらしいの。旦那がこれが好きで現地の友人から沢山送って貰ってるのよ。飲んでみる?とあの悪戯な笑顔を見せる。俺はいやいやとんでもない!こんな高価なもの頂けないですよ。と辞退したが可奈は俺の言葉を無視してキッチンからコルク抜きを持ってきて開け始める。俺が恐縮していると手近なワイングラスを2つ取り出してワインを注いで俺に寄越した。いや、仕事中ですし、それに旦那さんが留守の間にお邪魔してお酒を飲むなんてまずいです。と慌てていると可奈はクスクス笑い、意外と貴方、固いのねと俺の表情を覗きこむような仕草を見せる。良いのよ。ウチの旦那さんは設計事務所やってるの先週から地方の現場に入りっぱなし。向こうは向こうで現地の業者達と毎晩好きなことやってるわ。女友達と自宅呑みとか、その打ち合わせでワインの試飲なんて問題にならないわ。開けちゃったし。と言って俺のグラスにグラスを合わせ乾杯と言うとワインを一口呑み、うん美味しい。と俺に笑ってみせる。俺はそうですか。では試飲ということでとワインを口に含む。流石だ素晴らしい味わい。プレミアがついても買うだけの価値がある。俺は唸った。これに合うとっておきのチーズがあるのよと可奈は冷蔵庫に向かう。可奈とチーズをつまみにワインを呑み、色々な話をした。可奈は意外なことに亡くなった父親が大の阪神ファンだった影響でトラキチだった。俺も大の巨人ファンだった夫への恨みからアンチ巨人のシングルマザーの母の影響で阪神ファン。高級住宅街一の豪邸で贅沢なワインを飲みながらの阪神談義は大いに盛り上がり、俺たちは気がつくとワインボトル2本
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