結婚して40年になる熟妻は3歳年下の64歳、自慢するようですが、妻は還暦過ぎとは思えないほどシワも少なく、可愛らしくて今も大好きなのです。
妻と知り合ったのは43年前の昭和51年、私は入社2年目の24歳、妻は短大を出て入社1年目の21歳でした。
妻を初めて見たとき、うちの社にこんな可愛い子がいたのか!と心ときめいたものです。
妻は「総務課の太田裕美」と言われていただけあって、太田裕美さんによく似ていました。
初めは食事に誘って、それからデートに誘いました。
「どうして私を誘ってくださるの?」
「もちろん、あなたが好きだからですよ。」
「まあ、嬉しい。」
何とも時代を感じさせる恋の始まりでした。
当時、今ほど大学進学率は高くなかったし、まして東京にある大学へ進学して4年間東京暮らしをしていた男は珍しかったから、妻は、私に憧憬の念を抱いておったようでした。
東京は田舎と違って、この時代からフリーセックスなどと謳って、大学生同士で盛んにセックスを楽しんでいましたが、田舎ではまだ結婚前の男女が軽々しく性交することは後ろめたさがあったので、1年間はキス止まりでプラトニックでした。
交際2年目の時、妻を東京旅行に誘いました。
当時、まだ東北新幹線は開業前で、在来新幹線で4時間近くかかりましたから、東京旅行=お泊り旅行で、これ即ち性交の誘いでした。
妻はなかなか応じてくれませんでしたが、ある日、友人カップルが東京旅行に付き合っても良いということになったので、女同士の旅行のアリバイ作りができることになり、念願叶って妻と2泊3日の東京旅行をしました。
手っ取り早く、初日に上野動物園、皇居、東京タワーなどで妻と女友達のツーショット写真でアリバイ作りし、その日の夜から別れて行動しました。
この日、私は品川プリンスホテル(だったと思います)で妻の22歳の処女膜を貫通したのです。
この時の真っ新で変形も変色もない美しい妻の女陰を今でも忘れません。
太田裕美さん意似た可愛い妻の初々しい女体を思うままにできた感動は、今も忘れません。
妻が性交の快感に淫らな反応を示すことにも慣れ、クンニリングスやフェラチオにも拒否反応を示さなくなった頃、婚約しました。
私と妻の交際は社内では一部で噂があっただけだったんで、婚約時には「総務課の太田裕美」の結婚に嘆き悲しんだ社員もいて、彼らは「東京野郎に盗られた」と言っていたと聞いております。
私27歳、妻24歳で結婚、妻は会社を退社しました。
当時は、女性は結婚したら退社する習わしがあり、それを「寿退社」と言いました。
結婚後の妻は、性交の快感に喘ぎはしましたが、いつまでたっても恥じらいは消えませんでした。
フェラチオなど、私に奉仕する行為は喜んでするのですが、クンニリングスなど自分が恥ずかしい恰好で恥ずかしい女陰を舐められて、喘ぐことは恥ずかしがりました。
でも、いつの日からか、気付けば自ら女陰を剥き拡げてクンニリングスをねだり、自ら私に跨り腰を振るようになりました。
そんな妻との結婚生活は、昭和に子作り子育て、平成には子供たちは成人して巣立ち孫が生まれ、そして結婚40年には令和に突入しました。
今、64歳の妻を見ますと、やっぱり太田裕美さんに似た可愛い顔をしていますが、身体はとても卑猥です。
まだ乳房はそれほど垂れておらず、やや緩んだ体形は十分にそそります。
特に、お尻から腰にかけての肉付きは熟した女の色気を感じさせます。
40年間愛用した女陰は、40年前とは違って黒ずんで、アワビを彷彿とさせるややグロテスクな形状になりました。
そのアワビも40年以上使い込んだので、私にとっては高級な黒アワビと言えるでしょう。
妻と性交していると、とても60代には見えない可愛らしい反応で、でも、女の悦びを堪能しているのが分かってかなり淫らです。
妻は40歳を過ぎたあたりから快楽を貪るようになりました。
太田裕美さんに似た可愛い顔で大胆な喘ぎを見せるようになり、毎回逝くようになりました。
50歳を過ぎたあたりからは、妖艶さが増してきました。
3人の孫がいる64歳のお婆さんですが、乳房を揺らして喘ぎ乱れるその姿は、人生の残りをかけて燃え尽きるかのような情念を感じます。
妻が53歳で閉経して11年、もう孕む心配が無いので、熟した女陰に根元まで挿入して、奥深くに射精しています。
白髪混じりの黒い女陰からトロ~っと流れ出る白濁精液のコントラストは何度見てもいいものです。
妻も、中で出されるのが大好きです。
若い頃は、還暦過ぎた爺さん婆さんが性交しているなんて考えもしませんでしたが、実際、自分たちがその年齢になると、それが自然なんだと思います。
決して繁殖のためではない(当たり前ですが)性交、これは、夫婦を楽しんでいるのだと思っています。
私たち夫婦は、まだまだ性交を楽しみたいと思います。