約束の日の昼過ぎ…ターミナル駅のコンコースは、行き交う人々の熱気と足音でざわついていた。
その雑踏のなかで、斎藤裕二はひとり浮き足立ったように立ち尽くしていた。
スーツに身を包み、ポケットの中のスマートフォンには2,000万円という数字が刻まれた銀行口座が控えている。だが、いくら身なりを整え、口座の数字で自尊心を補強しようとしても、掌から滲み出る冷や汗を止めることはできなかった。
「斎藤裕二様でいらっしゃいますね」
不意に横から滑らかな声がかけられ、裕二の肩が跳ねた。
振り返った彼の視線に飛び込んできたのは、予想だにしない人物だった。
洗練された黒のシックなタイトスーツを纏った女性。すっきりと結い上げられた黒髪、一切の無駄がない涼やかな目元と、陶器のように白い肌。
街を行く誰もが思わず振り返るほどの美しい容姿を持った女だった。
「あ、はい。斎藤ですが……」
「お迎えに上がりました。久遠の言いつけにより、当方のアトリエまでご案内いたします」
女は静かに頭を下げると、微かな微笑みを浮かべた。その笑みには一切のスキがなく、氷のように冷ややかで隙がない。
こんな綺麗な女性を、ただの「迎えの使い」として寄こす久遠という男の底知れなさに、裕二は気押されるのを感じた。
「あの、久遠さんとは、どのような……?」
「お車はこちらです。どうぞ」
裕二の問いかけを掠めるようにかわし、女は駅前のロータリーに横付けされた黒塗りの高級セダンへと滑らかな動作で促した。
リヤシートのドアが重厚な音を立てて開く。車内には上質な革の匂いと、静寂だけが満ちていた。
後部座席に深々と身を沈めながら、裕二は必死に息を整えようとした。
バックミラー越しに映る女の整った横顔は、淡々とハンドルを握り、一切の雑談を拒んでいる。
(大丈夫だ……今の俺には金もある。ただの経過報告と見学だ……)
膝の上に置いた手が微かに震える。
滑らかに加速する車窓の外では、慣れ親しんだ街並みが瞬く間に遠ざかり、世間から孤立した未知の領域へと連れ去られていく。
静音性に優れた黒塗りのセダンは、都市部の喧噪を離れ、滑らかに郊外の幹線道路へと滑り出していた。
裕二は落ち着かない様子で何度も体勢を変え、膝の上で握りしめた拳にぐっと力を入れた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。車が緩やかなカーブをいくつか曲がり、人気のない道へと差し掛かったところで、助手席に座っていた美しい女が静かに振り返った。
「斎藤様」
細くしなやかな手が、黒いシルク地の厚手なアイマスクを取り出す。
「大変恐縮ですが、ここからはこちらをお着けいただけますでしょうか」
「え……? アイマスクですか?」
突然の要求に、裕二は動揺を隠せずに声を上ずらせた。女は表情一つ変えず、ただ完璧に整った美貌に涼やかな笑みを浮かべたままである。
「当邸の『アトリエ』の正確な所在地につきましては、厳重なセキュリティ上の理由により、すべてのお客様にお隠しいただく決まりとなっております。
久遠からの強い言いつけでもございますので」
「ですが、そこまでしなくても……」
「どうぞ、ご理解くださいませ」
拒絶を許さない澄んだ声。その慇懃無礼な態度には、抗いがたい絶対的な圧力がこもっていた。
裕二は喉をゴクリと鳴らし、渡されたアイマスクへと視線を落とした。手に取ると、滑らかな手触りとは裏腹に、光を一切通さないであろう重みがある。
(断ったら……ここで降ろされるのか?)
脳裏に浮かぶのは、メールに刻まれていた『当方の所有物として従順に美しく佇む』という冷酷な一文。ここまで来て引き返す選択肢など、端から存在しなかった。
「……わかりました」
観念した裕二がアイマスクを両手で持ち、目元へとあてがう。
視界が真っ暗闇に包まれると、車のエンジン音とタイヤが路面を擦る低い振動だけが、異常なほど鮮明に耳へと響き始める。
どこへ連れて行かれるのかもわからない不気味な暗闇のなかで、裕二の心覚のない鼓動だけが早鐘のように鳴り響いていた。
【おはようございます。裕二の話だけなので、読んでもらうだけで大丈夫です。】
※元投稿はこちら >>