今日は時間の余裕がありましたので、もう一章書かせていただきます。
先に記述しました「もっと恥ずかしい目に、、もっときつく縛って、、もっともっと辛い目に合わせて、、」
このことばの真意は40年経った今でも定かではありません。当時のこの環境の中での切実な叫びであったのではと、受け止めている次第です。
余りの激しい責め折檻に耐え忍ぶことが困難になり、苦しさから逃れたいが為の仮の姿で発した言葉であったのか?
もう一人の自分と言う人間が、その行為を甘んじて受け入れるが為に漏らした言葉なのか?
つまりは潜在的な被虐体質が備わっていたのか否かの狭間に佇んでいたのではあるまいか。
次に私の家庭環境は、母一人、娘一人の親娘二人の家族でした。母もこの男達の毒牙にかかり、這い出すことが出来ないアリ地獄に埋もれてもがいているのでした。
此処に、母が登場するには、もう少しの時間を要します。
そして、役員夫妻の一人娘とは、図らずも現在も関わっています。
か何にせよ、上司、役員夫妻、そして私の母親等々、当時の者達は、既に黄泉の者となっています。
旅館の女将が存命で有れば、現在、70歳を超えているものと思われます。
旅館の女将の名前が出て来たところで、話しは当時に戻ります。
その後、その旅館の内では、女将、仲居による厳しい調教をうけた私です。土曜日曜ともなると、
五人の男達が週を挟んで入れ替わり立ち替わり旅館を訪れて、私を嬲り抜いて楽しんで行きました。
さて、話しは変わりますが、昭和60年頃までの履歴書といった物は、今では考えられないものでした。
本人以外の家族全ての記載項目が義務付けられていたのでした。
例えば、両親の住所氏名年齢、電話番号、勤務先の住所電話番号等々、本人同様の記載項目が義務付けられていたのです。
その頃は、個人情報等といった言葉もありませんでしたから。本当に無防備な時代でした。
従って、犯罪目的を以って、その家を探し出すのは事など意図も簡単な事なのでした。
私の母は、そうした無防備な環境の中で、男達のターゲットに成らざるを得なかったのです。巧みに張り巡らされた網に掛かってしまったのでした。
これで、大凡の流れは感じ取って頂けたものと思います。
旅館での調教は、私が置かれた三か月間の調教は過酷を極めました。この旅館は一般の客は受け付けませんでした。
私のように騙されて連れてこられた女達さを調教して性奴隷にし上げることを目的としていたのでした。
私への調教の一環として、その日に宿を取った客に私を充てがうのでした。見ず知らずの男に犯されるのでした。
中には、80歳に近い老人に散々な目に合わされた事も有りました。高齢者故に、尿漏れを起こす始末。ブリーフ等と言った物は着けずに、褌を愛用していたのでした。
運悪く、その老人は「猿轡マニア」であった為。老人が思い付いた責めは、そのフンドシでのサルグツワなのでした。
先に、手拭いで固く口を塞がれていた私。残る鼻腔の上から、黄ばんだ褌を巻き付けられた私は青色吐息でした。老人の体臭と尿臭に目眩を起こしながら犯され続けたのでした。
役員夫人にしろ、老人にしても、私という女は、能く能く、そうした責めに遭わされる運命を辿る女なのだと悟らされました。
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