マサコ ~朝のひとこま
結局、夕べはろくに眠れず、朝イチで、学校に来てしまいました。
女の子といると、好きとか嫌いとかの感情とは別で、成り行き任せに進んで
しまう自分に、情けなさを感じて、小阪パパからもらったシュークリームを
食べてしまったことも自己嫌悪に陥る理由でした。
人影のまばらな校舎に入って、新校舎に向かうと、まだしんと静まりかえっ
て、教室のある三階に、児童は僕一人なのかもしれません。
灯りの消えた教室の扉を開けると、ひんやりとした空気の中、誰もいないと
思っていた教室の中に、ぽつんと、女の子が座っていました。
「坂本さん?」
僕が毎日、ドキドキしながら見つめていたその席の主は、よく見ると、机に
突っ伏して寝ているようです。
顔を覗き込むと、熟睡モードなのか、机の上にヨダレの池が出来ていました。
「寝てるとこは、可愛いよなぁ・・・」
つい、僕と坂本の置かれている状況を忘れて、頬っぺたをツンツン突ついて
しまいますが、一向に起きる気配はありません。
ひょっとして、昨日の夜から寝てるんじゃないかと思うほど、完全に寝入っ
ていて、いまなら多少のコトをやっても、起きなさそうです。
僕は、とりあえず自分の席にランドセルを置いて、いそいそと坂本の席に戻
りました。
そして、隣の席のイスを引き出して、坂本の顔がよく見える位置に座りまし
た。
「やっぱり可愛いなぁ・・・」
ハンカチを出してヨダレを拭いてやりながら、寝ている坂本を観察します。
今日の坂本からは、ほのかにお菓子のような甘い香りがして、それが彼女を
より幼く感じさせました。
「朝からホットケーキでも食べて来たんか?」
お人形さんのようなツルンとした頬っぺたにかかった髪を指先ではらって、
頭を撫でてみます。
(へぇ・・・こんなにサラサラやったんや)
指で鋤くとスルッと手の中から流れ落ちる、少し赤みがかった坂本の髪をぼ
んやりと見ながら、僕は、込み上げてくる、どうしようもない悲しさを、抑
えることができませんでした。
「なぁ、坂本さん、もう、僕には笑ってくれへんのかなぁ?」
ボトボトと流れ落ちる涙を、坂本のヨダレでぐしゃぐしゃになったハンカチ
で、拭います。
「僕の、せいやもんなぁ・・・
一旦、涙が溢れ出すと、楽しかったことばかりが思い出されて、止め処があ
りません。
「ああぁ・・・ごめん、坂本さん・・・ごめん・・・」
坂本が熟睡してるのをいいことに、僕は結構大声で泣きわめいてしまいまし
た。
「うるさいなあ・・・」
さすがに大声で泣きすぎたのか、坂本がむっくり起き上がって、僕の方を睨
みました。
「なんや、トベか・・・」
寝ぼけているとは思えない、はっきりとした、お正月の電話の声と同じ、低い
ドスの利いた声でした。
ただ、目は起抜けのせいか、死んだ魚みたいです。
「泣くな、ボケッ!誰のせいや思てんねん!」
「ごめん・・・」
坂本は、涙と鼻水でボロボロになった僕のハンカチをひったくるように取り
上げて、自分のアゴに付いたヨダレを拭いました。
「なんやこのハンカチ!汚ったねぇ・・・ベトベトやんけ!」
感情の起伏が激しいときの彼女は、かなり本気のときだと、付き合ってから
十分に知らされています。
坂本は、ズルズルと鼻をすする僕を上目で睨むと、僕の襟首を掴んで、力いっ
ぱい引き寄せ、いきなりキスをしてきました。
唇を合わせるだけの短いキスでしたが、坂本の吐息の香りにくらくらします。
彼女は、唇を離すと、僕を突き飛ばしました。
「これで、泣き止め!」
坂本は、また、机の上に手を組んで、それを枕に頭を伏せました。
「シマノ来るまで寝てるからな・・・静かにせえよ・・・」
言い終えるかどうかと言うくらい、坂本はあっという間にまた眠ってしまい
ました。
僕は、坂本の席の横で、尻餅をついた状態のまま、彼女を見上げていました。
(・・・酒臭っ・・・)
洋酒の利いた大人向けのお菓子を食べたときのような、甘い中にブランデー?
だかなんだか、そんな匂いがタップリと、坂本の吐息に感じました。
僕も昔、親戚のお土産物に、強烈なフルーツケーキがあって、食べたあと酔っ
払い状態になったことがありました。
(朝から、なに食うてんねん・・・)。
しばらくして、僕も落ち着いてきて、立ち上がると、そっと彼女の背中に手
を当てて、そのまま坂本の体温を感じていましたが、そろそろクラスの他の
子が登校してくる時間なので、自分の席に戻りました。
席に座ると、まもなくパラパラとクラスメイトが入ってきて、口々に「おは
よう。」と挨拶しています。
みんな、熟睡している坂本に驚いてはいましたが、誰も起こすことはありま
せんでした。
(坂本さん・・・)
僕の席から坂本の席を伺うと、さっきの姿勢のまま眠り続けています。
この時点で、坂本を起こして、家につれて帰ってやればよかったと、後になっ
て思いましたが、そのときはそんなに坂本が酔ってるなんて思いもよらないこ
とでした。
教室が賑わい出して、周りに人が増えてくると、「おはよう」が面倒になっ
てきて、僕も机に伏して寝たふりをしました。
ガタンという衝撃を身体に感じて驚いて身体を起こすと、目の前に藤田が
立っていました。
「ほら、一発で起きたやろ?」
後ろから声がして振り返ると、シンジが笑っています。
どうやら、藤田が僕と話をしたがっているのを察して、シンジが僕のイスを
蹴飛ばしたようです。
「トベ・・・オマエ、坂本だけには相手にされへんねんなぁ。」
シンジは、そう耳打ちして、
「しょんべん!」と言って、タエと教室を出ていきました。
「あの二人、仲いいね。」
シンジたちを見送りながら、藤田が羨むような目を見せました。
「なんか、夫婦っぽいよなあ・・・」
僕も、シンジたちの背中を追いました。
「私、かっちゃんに謝ろうって思って・・・」
藤田を見ると、坂本に視線を送っていました。
「うん・・・」
坂本の席をふりむいて、微動だにしない彼女を見つめました。
「ずっと、寝てるんやね・・・」
さっきの坂本の言葉が、頭に浮かびました。
「・・・シマノ待ってんやて・・・」
「えっ?」
シマノが教室に入ってきたのは、それからまもなくのことでした。
驚いたことに、どこかで待ち伏せでもしたのか、小阪が一緒にくっついてい
ます。
小阪は、教室に入ると、僕のほうを向いて、得意げに笑っています。
どうやら、積極的にアタックする決心がついたみたいです。
シマノのほうは小阪を気にするでもなく、教室に入ってから、寝ている坂本
を見つけて、近寄り、無遠慮に頭を揺すりました。
「おい、カズヨ!カズヨ!」
(あ~ぁ・・・またカズヨかよ・・・)
結構、ゆさゆさと揺すったので、さすがの爆睡娘も目を覚ましたようです。
「カズヨ!オマエ昨日なんで来えへんかってん!」
「行ったよ・・・」
坂本は、まだ机に突っ伏したまんま、寝ぼけた声で不機嫌そうに返事をして
います。
僕は(たぶん藤田も)耳の感度を最大にして、二人の会話に集中しました。
(行ったんか、行ってないんか、どっちや・・・)
「ウソつくな!オレ30分も待ったんやで!」
シマノは、どうも最近気が短くなったようで、結構いらだってるようです。
それに対し、坂本は、上体は起こしましたが、まだ眠いのか、肘を突いて頭
を抱えるようにして俯いたままです。
「ちゃんと、1時に駅で待ってたわ・・・」
「駅?1時にスーパーでって言うたやろ!」
待ち合わせ場所の違う坂本の答えにシマノが机を叩きました。
「誰が、オマエと遊ぶ言うた?」
坂本の声は、ヤクザ映画に出てくる姐さんのような、凄みがありました。
「えっ?」
一瞬引いた、シマノに、坂本がキッと顔をあげて、睨みつけます。
「オレが一遍でも、オマエのこと好きやて言うたことあるか!?」
スポーツのときは活発でも、話をするときは控えめに小さな声で喋る普段の
坂本しか知らないとしたら、たぶんシマノには想像もできなかったでしょう。
彼女の切った啖呵に、明らかに動揺しているようです。
「おい、カズヨ・・・」
シマノが恐る恐るといった感じで、坂本の肩に手を置いた瞬間、彼女はイス
を跳ね飛ばして立ち上がりました。
「馴れ馴れしいんじゃ!ボケェッ!」
僕のいる席からは、角度が悪くて、坂本が何をしたのか、よく見えなかった
のですが、シマノは後ろの席の机やイスを幾つも派手に跳ね飛ばして、教室
の床に倒れこみました。
「きゃあ!」と言う悲鳴は、シマノのそばにいた小阪のもので、その悲鳴と
けたたましい物音に、いままで二人の言い争いに気づいていなかった、教室
中の注目をいっせいに浴びることになりました。
小阪は心配そうにシマノに掛け寄って、助け起こそうとしています。
「一遍ぐらい、シタからって亭主気取りになんな!」
坂本は、仁王立ちになったまま、シマノを睨みつけます。
「オマエみたいなんが、ウロチョロしてるからトベのアホがフラフラすんね
ん!」
僕は、自分の名前が出て、ドキッとして身体が動きません。
坂本が、近くにあったイスを持ち上げて、投げつけようと振り上げました。
たまたま、トイレから戻ってきたシンジが、咄嗟に坂本が振り上げたイスを
掴んで奪い取り、タエが坂本の腰に手を回して引きとめようとします。
「放せっ!ボケェ!」
坂本は、肘を張ってタエを振り払おうとしながら、シマノを指差して、声を
張り上げます。
「アイツ!ぶっ殺したる!無理やりでもヤッタら言いなりなるとでも思ってん
やろ!オレを、なめんな!」
さすがに、タエ一人では抑えきれない状況でしたが、いつの間にか藤田が加
勢して、坂本を羽交い絞めにしていました。
「かっちゃん、もうやめて・・・」
藤田の声に、坂本は首だけ後ろを向きました。
「やかましい!メスブタ!ドロボウネコ!オレの男たぶらかしといて、友達
面すんな!」
いきなり矛先を向けられた藤田も、思わず声を荒げてしまいました。
「もう・・・かっちゃんかて、私がトベくんのこと前から好きやったって、
知ってたくせに!」
「トベがオレの『オメコねぶりたい』って言ってきたんやないか!」
これ以上の罵り合いを、他の連中に聞かれてはマズイと、僕も坂本を止めに
入りました。
「坂本さん、もうやめとこ・・・」
僕は坂本の正面に立って、彼女をなだめました。
「トベッ!オレと付き合いたいんやったら、こいつらブチ殺せ!」
坂本の興奮状態は、その言葉を冗談では済ませられない迫力がありました。
「もう・・・僕が悪かったんやから・・・ゴメンやから・・・」
何とか気持ちを静めてもらいたくて、僕は拝むように手を合わせました。
「そうや!オマエがいちばん悪いんやっ!」
この小さな女の子のつま先が、僕の顔にまで届くなんて、思ってもいません
でした。
あまりに綺麗な回し蹴りに、驚いた藤田とタエが坂本を掴んだ手を放してし
まいました。
坂本は、足元に崩れ落ちた僕に、馬乗りになって、襟首をねじ上げ、何度も
床に叩きつけてきます。
下から見上げる坂本は、真っ赤な顔で、目が釣りあがって完全に切れた表情
でした。
「オマエから先に殺したる!」
(怒った顔も可愛いやん・・・)
気持ちが昂ぶっているせいか、痛みを全然感じていない僕は、もう、気の済
むようにしてくれ、という状態で、後頭部を床に打ちつけられながら、坂本
を見つめていました。
その間、シマノは小阪に寄り添われたまま、呆然としていて、藤田も坂本の
攻撃が僕に集中し始めると、なぜか止めようとはせずに、横でようすを見て
います。
他にシンジやタエや周りに数人がいたように思いますが、坂本以外は視界が
ぼやけてよく分かりませんでした。
少しすると、散々暴れて、頭を揺らしたせいか、坂本が僕の上でふらつきだ
して、目が虚ろに、視線が定まらなくなってきました。
「あれぇ・・・ゴーカート思たらトベくんやんかぁ・・・」
回らない舌で意味不明のことを口走る彼女は、もう半分寝ているようにぼん
やりとしていて、僕は、そっと坂本の腰を両手で掴んで、倒れないように支
えました。
「もう・・・かっちゃんまだパンツ穿いてんでぇ・・・」
坂本は、身体を大きく揺らしながら、目をつぶって、僕に覆いかぶさるよう
に倒れこんできました。
「う・・・うぐえぇっ・・・」
ホントに、いきなりでした。
坂本は、僕の胸にたくさんの朝ご飯を並べて、血の気が引いたように震えて
います。
そのご馳走の中に、倒れこみそうになる坂本を、身体をずらして顔に付かな
いように脇に抱えてやりました。
「トベくん・・・」
はあはあと肩で息をしながら、彼女は僕の肩口で、いつもの可愛い声に戻っ
て、囁きました。
「・・・おひっこ・・・」
坂本のスースーと言う寝息と同時に、僕のお腹の辺りに生温かい液体が染み
込んできました。
(あ~あ・・・この酔っ払いが・・・)
呆れながらも、坂本のかけてくれた芳ばしい温かな液体でドロドロになった
のが少し誇らしくて、坂本を抱いてサラサラの髪を撫でてやりました。
新学期早々、一時間目が職員会議だかなんだかで自習になりましたが、僕と
坂本は、保健室にいました。
僕は坂本の朝ご飯の付いた服を脱いで、タオルで身体を拭いて、先生の出し
てくれた替えの体操服に着替えていました。
流し台でとりあえず、脱いだ服を水洗いして、固形物とヌメリを流します。
(あ~、ワカメの味噌汁や・・・これ、シャケとリンゴかな?・・・アイツ、
どんだけ食うてんねん・・・)
冬服の上着とシャツの間にかなりの量のご飯が挟まっていて、坂本家の朝食
を分析しながら、彼女が結構大食いだったのを思い出しました。
シャツに付いたヌルヌルがなかなか取れずに苦心していると、坂本が目を覚
ましたのか、カーテン越しに先生の声が聞こえました。
「目が覚めた?まだ横になってていいからね。」
僕は、水音にかき消されがちな声に、耳をそばだてます。
「もうすぐ、お母さん迎えに来てくれるからね。」
(やっぱり、お母さん呼び出されてお説教や・・・)
「ごめんなさい・・・」
たぶんそういったと思う、小さな声がしました。
「今日は、どうしたの?」
先生の問いかけに、ぽつぽつと話し始めました。
坂本は、昨日、お母さんとお菓子作りをしたときに、香り付けに使った洋酒
の小瓶が綺麗で、部屋に並べていたのを、指につけてちょっと舐めてみたら、
甘くて美味しくて、今朝、学校に来る前に、一瓶飲んでしまったとのことで
した。
量は『こんくらいの瓶』だそうで、先生はミニチュア瓶ね、と言ってました。
時々、鼻をすするような音が聞こえて、坂本が泣いているのかもしれません。
僕が服を洗い終わる頃、別の先生が小走りに入ってきました。
「葛西先生、坂本さんが来ましたけど・・・」
「ああ、すぐ行きます・・・坂本さん、お母さん来たみたいやから、ちょっと
待っててね。」
先生の立ち上がる音が聞こえて、保健室を出て行くときに、カーテンを挟ん
だこちら側を覗いていきました。
「着替え終わったら教室で待っといてね。」
パタパタと出ていく先生を見送ると、洗い終わった服をもらったスーパーの
袋に詰め込んで、カーテンの向こう側を覗きました。
「大丈夫か?」
坂本は、僕を見て、あっと驚いたように、顔を横に向けました。
「私、何かしました?」
いつもの、よそよそしさがちょっと入っています。
「えっと・・・覚えてないん?」
「・・・覚えてる・・・」
辛うじて聞き取れるほどの、小さな声です。
「そっか・・・」
僕は、坂本の枕元に寄って、横を向いている彼女の頬っぺたにキスをしよう
と唇を近づけました。
坂本は僕の顔が近づくと、慌てて蒲団を被りました。
「早よ、教室帰れ、アホ!」
彼女が鼻をすすりながら、声を上げるので、僕は蒲団の端から覗いているサ
ラサラの頭を、ポンポンと叩いて保健室を出ました。
僕が廊下に出ると、坂本のわんわん泣く声が聞こえて、足を止めて引き返そ
うかと思いましたが、先生が戻ってきそうなのと、そっとしておいたほうが
いいかとも思ったので、そのまま教室に戻りました。
自習と言っても何をするでもなく、ただ近くの友達とお喋りするだけの時間
なので、教室に戻ると廊下にまで騒々しい、話し声が聞こえてきます。
僕が教室のドアを開けたとたん、教室の中が一瞬しんと静まり返りましたが、
すぐに割れんばかりの騒ぎになりました。
酔っ払って暴れた女の子に蹴り倒された挙げ句、ゲロを浴びせられションベン
までぶっかけられたんですから、小学生にはこれ以上美味しいネタはありま
せん。
「何か、臭うぞ!」
「坂本のオメコ拭いたったんか!?」
からかいの声や、女子の妙に引いたようなヒソヒソ話が聞こえてきて、気が
重くなります。
どうやら、今回の坂本の狼藉は以前のスカート捲り事件の仕返しだと思われ
ている節もあって、その点も、僕に批判が集まる理由になっていました。
僕は席に着くと、周りの相手をするのが面倒になって、とりあえず寝ること
にしました。
心の中で耳に栓をして、机に突っ伏していたら、いつの間にか本当に寝てい
たらしくて、気が付くと教室に先生が入ってくるところで、後ろには、坂本
が付いていました。
坂本は先生に促されると、緊張して強ばった顔で、自分の席にランドセルを
取りにいきます。
先生がいるので大騒ぎにはなりませんが、それでもとんでもない言葉が坂本
に投げ掛けられました。
坂本の席の横には、床に濡れた跡があって、そこを避けるようにみんなが机
をずらすもんだから、彼女の席がぽつんと島のようになっています。
坂本は、自分に向けられる、卑猥な言葉を無視して、ランドセルを机の上に
置きました。
「アル中ちゃうん?」
坂本は、その声の主に驚いて振り向きました。
それは、藤田組の多田でした。
お調子者の多田の言うことなので、真意の程は分かりませんが、仲のいい友
達からの言葉に、悔しそうに唇を噛んでいます。
坂本はいまにも泣き出しそうな真っ赤な顔で、ランドセルから紙袋を取り出
すと、ランドセルは肩にかけて僕の席に駆け寄り、紙袋を僕の目の前にドン
と置きました。
坂本は、なにか言いたげにちらっと僕の顔を見ましたが、
「トベにションベンパンツでもやるんかぁ?」と、紙袋を見た心ないヤツの
冷やかしに、顔を伏せて、先生の方へ小走りにいってしまいました。
廊下では、坂本のお母さんが教室の中を伺っていましたが、居たたまれなく
なったのか、廊下の隅に移動しました。
子供にとって、親の前でからかわれるのは最大の屈辱なのですが、みんなも
それを知っているので、先生が静かにと注意しても、わざと大声を出すので
す。
坂本は先生と二言三言話をして、足早に教室を出ていきました。
「坂本さん!」
僕は、立ち上がって、彼女の背中に声をかけました。
「ありがとう!」
紙袋を、高く上げましたが、坂本は一瞬足を止めただけで、こちらを向くこ
となく廊下に出ると、お母さんと寄り添うように帰っていきました。
僕は、イスに腰を下ろすと、紙袋をそっと抱きしめました。
袋の中からは、今朝、坂本がくれた最後のキスとおんなじ甘い匂いがして、
僕はいつの間にか、涙を流していましたが、ハンカチは坂本がヨダレを拭っ
たまま、持っていってしまったので、机に顔を伏せました。
周りの中傷の言葉も、先生のお説教も、僕には遠くの世界の風音になってい
ました。
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