定年退職してからも、継続して5年間嘱託で勤務した会社を昨年退社した。
合計42年間お世話になった会社を去るとき、ロッカーを整理した荷物を詰めた通関箱の中に、百数十枚の写真があった。
それは昭和50年代後半に撮影された猥褻なモノクロ写真で、当時昵懇にしていた写真屋にネガにしてもらったものだ。
カラー写真はプロしか現像できなかったが、俺はモノクロ写真を現像する設備を持っていた。
しかし、フィルムをネガにするのはプロに依頼しなければならなかったので、付き合いがあって信頼できる写真屋に依頼していた。
まだデジカメが無かった時代、街にはたくさんの写真屋があり、俺はネオパンSSというモノクロフィルムで猥褻写真を撮影していた。
その猥褻写真は、半分以上が当時の社長の依頼で俺が撮影したものだ。
愛機ニコンF3で撮影したその写真は、かなりヤバイ写真だったから、現像後にはネガは処分していた。
ロッカーに残っていたものは、出来が悪くて社長に渡せなかったものだった。
それも40年近く経過して、黄ばんだりセピア色になっていた。
社長はいわゆるロリコンで、赤貧家庭のローティーン娘を金で買って、純潔を散らし、猥褻な行為に耽っていた。
その様子を若かりし俺が撮影していたのだ。
年端も行かない十代前半の女の子が、昭和の香りがプンプンするセーラー服を着せられ、やっと生え始めた陰毛の下の恥裂をめくられ、辱めを受けている写真ばかりだ。
幼くても凌辱の快感に濡れ、表情は虚ろになり、やがてまだ一筋の恥裂には社長の赤黒いイチモツがめり込み、幼膜を引きちぎられるのだ。
ファインダー越しに見ているから耐えられたが、あの悲惨な場面は直視に耐えがたいものだ。
中には、そのセーラー服でさえ大人過ぎに見える少女もいて、おそらくは小学女児だったのではないかと思う。
昭和50年代後半、金と権力のある社長が、幼さと可愛さを持つ少女を汚辱した写真。
お互いに無いものを補うために交わり合うその様子は、愛は無いがお互いに有益ではあった。
一人の少女はほぼ一年で社長の元を去った。
残っている写真でも8人の少女が社長の毒牙にかかって、幼膜を散らした。
幼い少女も社長に一年間凌辱されると、社長のイチモツの抽挿に喘ぎ、悶えるようになった。
幼いセーラー服少女が、アヘ顔晒した痴態を見せるようになると、社長の興味が失せてお払い箱になっていた。
少女折檻に淫情をたぎらせる社長との付き合いは4年、合計8人の少女を撮影した。
純真無垢な少女も、被虐快楽に染め抜かれていけば、ヨガり啼くようになった。
セーラー服姿で縄をかけられ、被虐オルガに泣き乱れる少女肉奴隷だった。
疼き濡れた恥唇を剥き広げ、発情恥穴は電振バイブさえ締め付け濡れた。
可憐な美少女は、容赦ない凌辱の嵐に、セーラー服の江梨をはためかせながら乱れ狂った。
その中でも、最も美少女だった女の子は、社長の元を去った5年後、高校を卒業して、菊池桃子のような美少女となって私の前に現れた。
セーラー服姿で屈辱の責めを耐え忍んだ精液家畜へ堕ちた美少女は、21歳で私の妻の座へ納まった。
これが、俺の妻が一回り年下の美人である所以だ。
俺はあの写真をすべて焼却処分した。
あの中には、セーラー服姿の中二の頃の妻の痴態もあった。
あの痴態は、今は俺の脳裏にだけ存在する。
十三歳の純潔を散らした妻の思い出は俺だけのものだ。