もうテレクラには行かないと思っていたが昨日また行ってしまった。
意志薄弱だね・・・・・・・。
最初にテレクラを知ったのは日本テレビの11PM(若い人はこの番組は知らな
いでしょう)司会は藤村義一だったと思う。 それまでは何気なく番組を見ていた
が、テレクラを紹介するコーナーになったら画面に釘付けになった。
さっそく次の休日の朝、2時間半かけて新宿(歌舞伎町)のアトリエキイホール
(最初に開店したテレクラ)に行った。 個室に入って30分で可愛い声の子とつ
ながった。 年を聞くと17歳の高校生で早退して来たという。
「1万円くれたらエッチしてもいいよ」と言ってきた。 援助交際という言葉が生
まれる7~8年も前だった。 トキメキながらアポを取った。
店のすぐ側のカレー屋の前で待ち合わせ、半信半疑で待っていると教えてもらった
色のブレザーの制服を着た可愛い子が、俺の顔を見ながら歩いて来た。 「電話の
人?」と声をかけてきた。 それは一生忘れられない瞬間だった。
コマ劇場の近くのホテルで初めて女子高校生を抱いた。 シャワーも浴びないでベ
ッドイン・・・パンティを脱がしながら見た黄色いオシッコのシミ・・・。
69で小便臭いオマンコとツ~ンとウンコの臭いがしたアナルを舐めまくった。
彼女は「あぁ オシリ・・・気持ちいい~」と可愛い声で言い、お返しにフェラはも
ちろんアナルまで舐めてくれた。 もちろんアナルを舐めてもらった事は何度も
あったが、シャワーも浴びず汚れたままの状態で舐めてもらった事は始めてだっ
た。
そして挿入・・・数年分の精液をイッキに射精した気分だった。
それはまさに衝撃的な大事件で、通っていた風俗店など、どこかにぶっ飛んでしま
った。
田舎の街には、テレクラはなかったので休日の歌舞伎町通いが始まった。
でも、その後はイタズラ、無言が多くアポをしてもスッポカシが多くなかなか会え
なかった。 それでも月に3から4回の歌舞伎町通いは続いた。
当時、自分は31歳で23歳の時に21歳の彼女と別れて以来、彼女が出来ず風俗
店に行き性欲を紛らわせていた。
隣のA市にテレクラが開店したのは半年後くらだったかなぁ? それからは週に2
回の常連になった。 どこの電話ボックスにもテレクラのチラシがベタベタと張っ
てあり駅前や繁華街にはティシュを配るアルバイトの学生がいた。
今では信じられないかもしれないが、新聞のチラシを出していた店もあった。
田舎とは思えないくらいのコールの数だった。
仕事の休みが平日がだったので、面白いように学校帰りの女の子をゲットできた。
県内でも名門の進学高の子からのコールも珍しくなかった。
そのほとんどがお金目当てだったが、今の高校生の様なドギツイ化粧もしていない
し金髪なんているはずも無かった。 たまに眉を細くしていた子もいたが、かなり
ヤンキーっぽい子で、ほとんどがスッピンで今の中学生の様な感じだった。
制服のスカートはかなりミニになっていたが、ルーズソックスが出現する何年も前
だった。 ポケベルは営業マンが持ち歩いているだけで、プライベートで持ってい
る人は誰もいなかった。 大金持ちの高級車に自動車電話はあったが、ケータイな
んて誰一人としてもってなかった。
時々は淫行で捕まる人(再会の為に自宅の電話番号を教えていた人が多かった)が
いたが、それほどテレクラ=少女売春という話題には、まだなって無かった。
風俗店に通っている奴等は馬鹿に思えた。
数年後・・・援助交際という言葉が生まれて、女子高校生のお金目当てのコールが
ピークになった。 この頃にポケベルを持ちルーズソックスが流行りだした。
アムロの出現で高校生のメークも大きく変わった。 茶髪にして眉を細くしガング
ロまではいかないが、日焼けした子が多くなってきた。
世論も援助という言葉に言い換えているが、立派な売春行為だと、テレクラに対し
て世間の風当たりも段々と強り社会問題になった。 この頃、ツーショットのサー
ビスが始まったがコールの数にはそれ程影響は無かったと思う。
そして数年後にテレクラ条例で公共の施設の周り(駅はOK)の営業禁止などで閉
店に追い込まれる店が出て来た。 淫行の刑罰も厳しくなった。 この頃から援助
目的のコールは減り始めたが、まだまめに通っていれば女の子をゲットできた。
一昨年の秋頃から急に援助目的のコールが激減した。 コールどころかイタズラ電
話すらかかって来ない。 シーンとした店内にBGMが静かに流れ、カチャカチャ
カチャと連打する音が空しく響く・・・・。
iモードやネットの出会い系が出現し始めたからだ。
まあ、時の流れには勝てないか。 ひとつの時代が終わった。