ところが先生がある時頭痛を訴え、とても具合が悪そうでした。
真っ直ぐに歩けないようですし、涙を流しながら授業をこなしました。
ピアノも時々間違えました。
その後、暫く先生は自宅にもいませんでした。
毎晩、通ってはみるのですが
アパートの部屋の明かりはなくカーテンが引かれたままです。
先生が入院したと知ったのは暫くたってからでした。
私には何も連絡も話もありませんでした。
『どうしたんだろう?そうとう苦しそうだったけど、病気はなんなんだろう』
とても心配でしたが、私から他の先生に聞くのはとてもできませんでした。
そのうち『突発性難聴』で入院したということが、代理の音楽の先生から
知らされました。
入院は県庁所在地の大学病院だということでした。
『突発性難聴』という聞きなれない病名は不安を一層募らせました。
やがて学校に戻ってきましたが、以前の快活さはありません。
まったくよくなっていなかったのです。
その晩、先生の自宅は久しぶりに明かりがともりました。
ノックをすると、ゆっくりと人の動く気配がしてドアが薄めに開きました。
先生の顔は泣いていたことが明らかです。
わたしは久しぶりでしたが、そんな先生が強烈にいとおしく
かわいく心から慰めてあげたいと心底から思いました。
『先生は疲れきっている』と感じました。
『突発性難聴』がどうゆう病気か、この先、音楽の教師を続けていけるか
先生は涙ながら不安を語ったのです。
現代の医療でもなかなか治せない難病だということでした。
大学病院で10日ほども検査検査で明け暮れたそうです。
この町や近くの市では専門の医者がいないというのです。
治療を続けるには県庁所在地の大学病院しかなく、この町からは
通うことは不可能だといいます。
先生はその時は言い出しませんでしたが、すでにある決意をして
いたのでしょう。
その晩
『これが最後になるかもしれないからね』といって
『一杯抱いて』と泣きながらのオマンコだったのです。
まるで気が狂ったように泣きながら、自ら上になり下になり
私を貪り尽くすよう何べんも何べんも逝き、果てることなくやり続けました。
その晩は生でした。
「先生、できたらどうするの?」
「できてもいいよ、一杯入れて」
やがてある朝、朝礼で校長から
「音楽の○○先生は病気治療で大学病院に通いながら、教師を続けるために
県庁所在地の隣の町の学校に転勤する」という話があり、
マリンブルーのスーツ姿で挨拶に立つ先生の姿を
わたしは涙をこらえぼんやりとした映像で見ていました。
先生の顔は少しはれぼったく見えました。
激しい夜のあとは全く何もなく
そして去っていったのです。
特別にメッセージもなく、ただ私に渡された何枚かのパンツと
黒い生理バンドの返却を求めるでもなく、それだけが残されました。
新しい住所もついにしらされませんでした。
『突発性難聴』は私が原因だったのかもしれません。