法事があって田舎に帰ってきました。
こちらに私の実家はもうありませんが、面識のある親族がまだこの地に住んでいます。
お寺で法事を終えて、集まってくれた親戚に挨拶しました。
子どもの頃からずっと私のことを可愛がってくれていた人たちもいます。
皆んな口々にうちに泊まっていきなよと気を遣ってくれましたが、
「明日、出勤しないといけないんです」
丁寧に断って辞去しました。
この人たちと顔を合わせられるのも、あと何回あるのでしょう。
年月とともにどんどん自分が皆から疎遠になっていく、寂しい未来を予感してしまいます。
「ありがとう」
「元気でね」
レンタカーに乗り込みました。
静かに発進します。
明日出勤なんて嘘でした。
そこから3時間近くかけてドライブです。
(夕方までには着ける)
山の景色になってからもずっと車を走らせて、やがて某キャンプ場の前を通過しました。
さらに進んでいくと横に入っていく道が見えてきます。
未舗装路も経由しながら山道を走っていました。
沿道に1軒・・・そしてもう1軒・・・
古い旅館が見えてきます。
あらかじめ予約していたそのうちのひとつにチェックインしました。
初めて泊まる宿です。
法事の疲れがどっと出て、夕食として買ってきたサンドイッチをとった後すぐに就寝しました。
泥のように眠ります。
翌朝、6時にはもう目覚めていました。
素泊まりで宿泊したので朝食はついていません。
チェックアウトの時間までは、まだだいぶんありました。
ちょっと外出してくるかたちにするか迷いましたが・・・
思い切って、荷物をまとめてチェックアウトしてしまいます。
(すごい爽やか)
建物から出ると、空気の新鮮さに心が洗われるかのようでした。
朝なので若干ひんやりしますが、
(気持ちいい)
とても居心地のいい朝陽を浴びている自分がいます。
車に乗り込みました。
発進します。
旅館の浴衣姿のおじさんが向こうに歩いていっているのが見えました。
歩きながら手にタオルをぶらぶらさせています。
この先にあるものといえば、ひとつだけでした。
おそらく行き先は私といっしょです。
(あの人も)
(行こうとしてんだな)
でも、何の感慨もありませんでした。
心が動くこともありません。
その男性を追い越して、数百メートル走っていった先にカーブが見えてきました。
横の駐車場に車を乗り入れて、いちばん奥のあたりにとめます。
トートバッグを持って車から降りました。
(懐かしい。。。)
土の匂いがしました。
いえ、土の匂いと言うよりは・・・森の匂いです。
駐車場の奥のところから入っていく森の小径を歩いていきました。
(気持ちいい)
この先には渓谷に面した野天温泉があります。
懐かしいとは言っても、去年もいちど来ていました。
あのときは、
(すごい嵐だったな)
豪雨の中を全裸で歩いた記憶が鮮明によみがえってきます。
でも、今の私は心穏やかで平らかな気持ちでした。
やましい感情は一切ありません。
実際の命日はもっとずっと後ですが、昨日は父親の三回忌の法要でした。
亡くなってから何度も季節が移ろったのに、いまだにどこか現実感がありません。
その後にすぐ母も亡くすことになるつらかったあの時期が、まるで10年も前のことのように思えていました。
ごめんね、お父さんお母さん・・・
(何の期待にも応えられずに)
(この歳まできちゃったよ)
小径をひとりで歩いていく私に心細さはありません。
でも寂寥感でいっぱいでした。
いい意味でも悪い意味でも、何かと思い出深いこの渓谷・・・
帰省ついでに訪ねようと決めてきていたのは、またここに来ることで自分の気持ちをリセットしたかったのかもしれません。
(誰もいない温泉で)
(時間を気にせずのんびりしたい)
朽ちた表示板が見えてきました。
その横から急こう配の階段道が伸びています。
崖に沿うように下りていくと、渓流沿いの野天風呂が眼下に飛び込んできました。
自分でもよくわからないけど理由もなく涙が出そうになります。
(またここに帰ってきたんだな)
悲しかったのではありません。
ぜんぜん気持ちが落ち込んでいるわけでもありませんでした。
それなのに・・・
自然と感傷的な気分になって複雑な思いがこみ上げてきます。
(いつ来ても何も変わらないな)
(この場所は)
早朝なこともあって、人の姿はまったくありません。
渓流のせせらぎが耳に鮮やかでした。
階段道をいちばん下まで降り立ったそこは、岩風呂になっている男性用の野天風呂です。
女性用のお風呂は、そのまま男性用の岩風呂の真ん中を突っ切って木戸を抜けた先でした。
石垣のようなところをまわりこんで女湯スペースに踏み入ります。
(ふう)
(誰もいない)
こちらも無人でした。
女性用露天風呂は男湯スペースのように岩風呂ではありません。
狭いスペースに小さな湯だまりがあるだけです。
(空気がきれい)
(水面が光ってる)
前方の左右に設置された目隠しのすだれの間から、正面に渓流の水面が見えます。
朝陽に輝いてきらきら水が跳ねていました。
男湯とちがってものすごく狭い女湯スペースです。
それでも開放感いっぱいでした。
対岸の山から漂う朝もやに、渓谷の奥深さが染み入ります。
手近な岩の上にトートバッグを置きました。
「ぱさっ」
着ていた服をぜんぶ脱いで全裸になります。
転がっていた手桶でかけ湯をしてから湯だまりに入りました。
「ちゃぽっ」
肩までお湯につかります。
頭の中を空っぽにして景色を眺めていました。
何も考えないようにしようと思っても・・・
誰もいない渓谷の温泉でお湯につかりながら、ついつい自分の将来のこととかを考えてしまいます。
しばらくお湯の中にいるとのぼせてきて、
「ざぼっ」
お湯の中から立ち上がりました。
そのまま後ずさるように湯だまりのふちに腰かけます。
(私はこれで)
(幸せなんだろうか)
どうせ誰もいませんでした。
両脚はお湯に下ろしたまま、背中を後ろに倒して仰向けになります。
ぐーっと背骨が伸びて、
(気持ちいい。。)
ほどよくからだがのけ反りました。
白っぽく薄い青色をした空を見上げながら、朝陽のまばゆさに心の平穏を感じます。
「ふう」
全身を脱力させました。
上半身を寝かせたまま、澄んだ朝空にゆっくりと雲が流れていくのを見上げています。
ほっと息をついて脱力しているこの状態がリラックスそのものでした。
(いいんだろうか)
(このままで)
今の私には何も誇れるものがありません。
そして孤独でした。
毎日がただ空虚に過ぎていくだけの生活を送っています。
40年近くずっと真面目に生きてきた、そのなれの果てがこんな自分でした。
人生に敗れたような虚無感でいっぱいです。
(そしてこのまま)
(歳をとっていくんだろうか)
劣等感とも違います。
ただなんとなく虚しいだけでした。
別に悩んでいるわけではないのですが・・・
せっかく温泉に来てリラックスしているのです。
そんな余計なことを『いま』考えるのが煩わしくて、頭の中を空っぽにしたくてなりませんでした。
そう・・・私は静かに頭の中を空っぽにしたいのに・・・
(ああ・・・)
左側のすだれに人のかたちが透けています。
見えた瞬間に、覗きだと察していました。
きっと、来るときに車で追い越した浴衣のあの男性でしょう。
(ああ・・・覗きだ・・・)
(なんで今なの)
普通の女性なら温泉に覗きが現れれば、悲鳴をあげるほどの非常事態です。
でもこのときの私は、
(どうでもいい)
反応することすら面倒くさくてなりませんでした。
頭の中をリセットしようとしていた自分を邪魔されるうっとうしさに・・・
気持ちがだだ下がりになっていきます。
(今日はそんな気分じゃない)
(どっか行ってよ)
何度も来たことのある私はこの野天温泉のことを熟知しています。
渓流沿いのこの温泉は、男湯も女湯もスペースのはじっこはひとつに繋がったコンクリートの護岸のようになっていました。
そこから河原には簡単に下りることができます。
いちど河原に下りてしまえば、護岸沿いに女湯スペースの前まで来るのは容易でした。
だから、悪意があれば覗くことができてしまうのです。
(ああ・・・間違いなくいるな)
(そこにいる)
前方の左右には目隠しのすだれが設置されていますが、それはあくまでも遠くからの視線を遮るものです。
すだれ自体は、束ねられた竹茎が劣化して隙間だらけでした。
近づいて目を寄せれば女湯スペースを覗き放題です。
(そのことを知ってるってことは)
(常習犯かもな・・・)
でも、この人は気づいてないようでした。
覗いている本人の後方から直射日光が差している場合は、自分自身の影がそのまますだれに落ちてしまうことを。
だからそこにいるというのがバレバレでした。
竹茎の隙間に動きがちらつくのも、こちらからわかりやすい状態です。
(知ったことか)
心底どうでもいいと思いました。
それこそ、気持ちが揺さぶられることもなければ心が動じることもありません。
覗きの被害に遭っているという事実よりも・・・
そのことに反応すること自体が面倒で動く気が起きませんでした。
(ほっといてよ)
(ひとりにして)
まるで憑き物が落ちて抜け殻になったかのような気持ちでした。
見たければ見ればいい・・・
でもその代わり、
(そっとしておいて)
私、関わりたくない・・・
組んでいた両手を枕のようにして顎を引いていた私です。
その両手を頭の下から抜いて、左右の腕をだらんと横に伸ばしました。
顔を真上に向けることで・・・
すだれが自分の視界に入らないようにします。
仰向けのまま青い空をみつめていました。
女湯スペース自体が狭いので、すだれからは3メートルほどしか離れていません。
そして、からだはちょうど真正面を向いてしまっています。
知ったことか・・・
私はお風呂に入ってるだけ・・・
覗き男にとっては、これ以上ないような光景だったかもしれません。
目の前に素っ裸の女がいました。
両脚はお湯の中に下ろしたまま、上半身だけを仰向けにして寝ています。
リラックスしたように左右の太ももが半開きで・・・
真正面から股間がまる見えでした。
きっとかぶりつくように見つめているはずです。
(どうでもいい)
私は感情が無のままでした。
演技ではありません。
自然体で、心が『無』でした。
覗かれていることを知らない女と何ら変わりありません。
背中が反ったような仰向け姿勢のまま、静かに陽射しのまばゆさに包まれていました。
覗き男の存在を意識の外に追い出します。
(関係ない)
(勝手に見ればいい)
いつしか本当に意識から消えていました。
ひとりぼっちの朝風呂で、羞恥の感情すらありません。
自然にからだが動くままでした。
両腕をばんざいするみたいに、
「んーーー」
上半身だけ仰向けのまま全身で『伸び』をします。
両脚はお湯の中に下ろしたまま、からだ全体をのけ反らせるように背筋がぐーっと伸びて・・・
骨盤が開放されるようなこの姿勢は、至極の気持ちよさでした。
(んんんんー)
そして、
「ふう」
再び脱力します。
自然と太ももが弛緩していました。
無防備に両脚を開いたまま、野天温泉の開放感にひたります。
さすがに眠りはしませんが、
(あー、もう)
ずっとこのままでいたい。。。
「ふーー」
どこも隠していませんでした。
ひんやりした朝の空気が微風となって、股間の真ん中にあたっています。
天空の雲の位置が移動して、また明るく『ぱーーっ』と陽射しに包まれました。
もし人が見ていたら(実際に見ている人がすぐそこにいるのですが)・・・
それこそあそこの割れ目がまるわかりの恥ずかしい姿です。
(関係ない)
(私は悪くない)
こんなみっともない格好でも後ろめたさはありませんでした。
渓流や森林の空気に心が洗われて、気持ちが寛容になっていきます。
あそこが露わになったまま、
「ふううー」
温泉で脱力している私・・・
「ふう」
でも、やはり完全に覗き男のことを忘れてしまっていると言えばそれは嘘になりました。
なにしろ、すだれの場所はすぐそこです。
あたりまえだけど、
(やっぱそんなとこにいられたら)
落ち着かない・・・
(なんか、もういいや・・・)
(帰ろう)
仰向けになっていた上半身を起こしました。
最後にもういちど、
「ちゃぽっ」
湯だまりに入ります。
何食わぬ顔で肩までお湯につかりました。
(わかってる)
(おじさんも悪くない)
女湯を覗けることを最初から知っている男性なら・・・
覗きたくなってあたりまえ・・・
すだれの裏側に人がいるのがありありとわかりました。
護岸の高さより上に出た頭と肩幅のシルエット・・・
滑稽なぐらいに人のかたちの影が出ています。
(すだれに近づきすぎだよ、おじさん)
不思議なぐらい平常心を保つことができていました。
車で追い越したときの浴衣姿のおじさんを思い出そうとしますが・・・
どんな顔だったかよく思い出せません。
何も知らないふりをして、
「ふうー」
対岸の遠い景色を眺めているふりをする私・・・
わずか2メートルかそこらの近さで向かい合ったまま、覗き男に自分の顔を見られまくりです。
「ざばっ」
お湯から立ち上がって、湯だまりから出ます。
何の未練もありませんでした。
荷物を置いた岩のところに歩み寄って、スポーツタオルでからだを拭きます。
トートの中から保湿用のボディクリームを取り出しました。
私にとってはお風呂のあとの普通の振る舞いだけど・・・
(このおやじにとっては)
(とんでもない眼福シーンなんだろうな)
素っ裸の女をこうやって覗けてるなんて、
(それだけだって)
大喜びしてるんだろうから・・・
だからといって、この人を喜ばせてやらなきゃいけない義理などありません。
普通にクリームを伸ばして普通に保湿ケアします。
(さよならおじさん)
過去の『自分』との決別を期するような気持ちでした。
さよならという言葉の重さが自身の心の思いと重なり合います。
何事もなかったかのように服を着ました。
平然とした顔で荷物をまとめます。
(ずっと真面目に生きてれば)
(いつかきっと、いいことあるさ)
まだすだれの裏にいる覗き男に、心の中で別れを告げました。
荷物を持ちながら、
(さよならおじさん)
石垣のような部分をまわりこんで木戸を抜けます。
さよなら、二度と会うこともない・・・
(もう女の子が)
(嫌がることしたらだめだよ)
一度も後ろを振り向くことなく階段道を上がりながら、
「さようなら」
何度もつぶやく『私』でした。
(PS)ありがとうございました。
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