⑮これで最後です
***
O駅のホームには遅延した列車を待つ大勢の人が見えた。多くの人が降り、また乗ってくるだろう。彼女は僕の袖を引いて降りるようにサインすると、平然とした装いで、電車を降りて行った。僕も別々の乗客として間隔を取って車両を後にし、数メートル先を行く彼女の後を追いかける。彼女は、人ごみをやり過ごすようなゆっくりとした速度で歩き、時々こちらを振り返って僕の姿を確認しながら、ホームを進んでいく。
彼女が出口へ続く階段を素通りすると、僕も、少し距離を取って電車に“乗る”人の流れに混ざり、ホームの先へ消えた彼女を目指す。僕たちが降りた地点とはほとんど逆側のホームの端まで来ると、人の密度もやっとまばらになってきた。自販機の影に佇む彼女がちらちらとこちらを見ている。拍子抜けする位スカスカな乗車率の後続列車が来てホームの人を飲み込んでいく。乗ることも降りることもしない僕たちだけがなんとなく不自然で、人の波が消えるのを待ってから、彼女に近づいた。
「ごめんね。びっくりした?」「すいません、出ちゃって」「ううん、いいの。すごかったよ、キミ」
すごかったのは彼女の方だ。あんな大胆なことをしておいてあっけらかんとした事を言うなと思う。僕のズボンはまだ余韻を残して突っ張ていたし、彼女の下着の中は大変なことになっていて、密閉空間なら匂いも気になるレベルのはずだった。近くには誰もいないのに、誰かに聞かれたら恥ずかしい気がして、僕たちは言葉少なく、行間を補い合いながら話をした。最初にお尻が当たった時に思ったこと、スカートのスリットのこと、性器が触れたあった時に感じたこと…
彼女の口調は終始にわたって丁寧だった。今しがた自分が犯して支配下に置いた男子を上から目線でなじる様なことはなく、起こった事の一つずつについて、恐る恐る確かめるように僕の気持ちを聞いた。それがまるで自然発生的で、すべて合意のものだったと、言い含めているようでもあった。
しかし、電車内での彼女は、間違いなく自己本位だった。自分を悦ばせるため、自分の求めている快感を手繰り寄せるため、女のカラダを使って、少しずつ僕を懐柔していった。彼女にとって僕は、僕の体は、そのペニスは、彼女のご機嫌を取るためだけに存在していた。そこに僕の意志が介入することはなく、すべての場面で彼女は先手を取って、僕の行動を教唆し、支配した。その意味で、僕は彼女のモノだった。
でも、この爽やかさはなんだろう。腕の立つ職人が用具のメンテナンスを怠らないように、彼女は僕を丁重にもてなしたとも言える。反抗的だった僕を手なずけ、磨き上げて、最高の状態に仕上げてから、使役した。その手際の鮮やかさによって、僕は彼女のモノになることに悦びを見出しすらした。
「こういうのした事ってあるの?」「ないです、ないです。初めてです」「そうだよね、やっぱり」
一瞬、痴漢行為の経験を聞かれたのかと思って焦って否定した。が、文脈を考えれば、女性の行為を受け入れた事があるのか聞いていたのだと思う。昨日まで、というかついさっきまで、セックスは、男がリードして攻め立てて快楽に至るものだという、世間の(?)考え方を、何の疑いもなく信じていた。でも、(セックスはしてないけど)彼女のそれはまったく異なっていて、彼女は自分の欲しいものを態度で表し、僕をそこへ誘い込んで、手込めにして、それを得た。
もし一般論が正しいのだとして、じゃあ世の男性はどうやって女性の性欲の深淵に触れているのだろう?世の女性はどうやって自分のしたいことを表明しているのだろう?童貞ながらに、男の欲望を解放するだけのセックスでは到達できない風景があるのは明らかだ、と彼女を見て思った。そして、もし、湧き上がる女性のエロスの核心に触れられるのなら、その瞬間自分がモノになるのも悪くないのかもな、などとも。(これがMってやつなのだろうか?)
「お姉さんは、よくしてるんですか、こういうの」「私は…私も初めてだよ、こんなの」
結果的に、僕たちの答え合わせは不発に終わった。彼女の答えは(そしてぼくの質問も)もごもごとして要領を得ず、それが計画的な犯行だったのか、突発的なアイデアと欲求の発露だったのか、分からなかった。もちろん、なぜ僕が気に入られたのか、も。ただ、ひとまず彼女が怖い世界の住人ではなさそうなことだけは、目を泳がせながら話す彼女の口ぶりでわかった。
「今日はありがとうね」
お礼の言葉をかけられて、自分が行為の客体だったのだな、と改めて思い知る。こちらこそ、と返すべきなのか迷って、自分の身に起きたことを思い返す。人倫にもとる行為は、いつから淫蕩な共犯関係に変わっていったのだろうか。そそのかされて受け入れたくせに、自分はそれが嫌だったのだろうか。素直になれたら楽になれるのに、まだ守るべきものがある気がして、僕は口をつぐんだ。
「それで…この後ちょっとだけ時間ある?」
彼女はまた、恐る恐る聞いてきた。僕に拒否権など、あるはずもなかった。
※元投稿はこちら >>