今日も書かせていただきます。
私が旅館の宴会場で裸を晒したのは、初めの頃は月に一度の土曜日と決まっていました。
裸を晒すのも恥ずかしくて惨めで好きではなかったけど、それよりも旅館の女将さんや女中さんが私に異常に気を使ってくれて、かえってそれが、私は変なことをしてる子供、と言うことを意識させるから辛かったです。
思春期の子供は男女を問わず、自分は心や体が他の人と違っておかしいんではないだろうか、と一度は思うものらしいですが、私の場合は、学校の友だちとは完全に違う、普通の大人の女の人でもしないことをやっている、と意識させられて、それが一番辛かったです。
その時の同じ学級の中には、私がいやらしい舞台に出てることを知ってからかう人もいましたが、親が地元の旅館、温泉で働いてたり、小さいお店をしている比較的貧しい家の子は、私を差別したりしないでいつも普通に遊んでくれていました。
学校の先生は私のことを知っていた筈ですが、その事について聞かれたりした記憶はありません。
多分当時の私にとっては、色々聞かれたり気を使われたりした方が辛かったと思います。
六年生の夏になると、舞台の内容が変わってきました。
舞台脇の部屋で全裸にされてから舞台に連れ出されることが二回ほどあって、その後は普通の服を着たまま舞台に連れ出されて、舞台の上で自分で服を脱ぐような内容になりました。
その頃気がついたんですが、毎月同じお客さんが来ていて、いつも舞台の直ぐ近くにいるんです。
多分お金持ちらしく、他のお客さんの殆どが旅館の浴衣なのに、いつもあか抜けたスーツを着ていまし、当時は珍しい銀縁のメガネを掛けていました。
私が舞台に出て進行役の坊主頭の男が、お母さんを助けたければ服を脱ぎなさい、と言って私が頷くところで、他のお客さんは皆シーンとして見守っているのにその人だけは、ガキの淫売、チップやるから早く脱げ、淫売の娘は淫売だろう、お前も俺が買ってやる、いえもっと酷いことを言うんです。
後で女将さんが慰めてくれようとしましたが、それの方が辛くなるので、気にしてません、と言って帰りました。
ところが、その次の月から私が舞台に出るのが月に2回になりました。
やはり同じ男が来ていて騒いでいました。
たしか11月だったと思いますが、とうとうその男が騒ぎを起こしました。
直接の始まりは、その男が舞台に手を伸ばして、私が脱いだズロースを持って行こうとしたことです。
坊主頭の進行役が停めてもますます大声で騒ぐし、他のお客さんとも喧嘩を始めるしで、主人や女将さんが来ても収まらず、最後は進行役の人がその男の胸ぐらを掴んで殴りかけ、それを主人や女将さんが必死に停めているところまできました。
私は縛られてる母が巻き込まれてはいけないと思って母の縄をほどいたんですが、手首をほどくと母は自分で口に嵌められてる布を外すと私に、ズロースをあの人にあげなさい、と言うんです。
私が良く意味が分からないまま、うん、と頷いたら母は元起こしの男に近づき、あの子のズロースは差し上げますからどうかもうお引き取りください、と言いました。
坊主頭の男は母を見て、だめだ!だめだ!って顔を振っていたけど旅館の主人が、お客様、それでよろしいですね、とその場を納めてしまいました。
私は汚ないズロースを持って行かれたことは恥ずかしいけど、それでこんな大騒ぎが収まったんだから良かった、と単純に思ってましたが、これが原因で母と私はその温泉に居られなくなりました。
後で聞いたりしたことを含めて書きます。
理由の一つは旅館でやってる猥褻な舞台に子供を出してると言う噂が表に広まったこと。
主人が警察のその係から、子供を使ってるんではないか?と直接聞かれたそうです。
もう一つが、元起こしのあの客が子供が好きな変態で、しかも裏関係にかなり顔が効く人間だったこと。
多分私を書いたかったのでしょう。
旅館の主人はあの男から圧を掛けられたみたいです。
舞台を任されていた坊主頭の進行役の男は悪い人ではなくて、むしろ私を使うのは反対したようです。
経験から変態の度合いが深い出し物をすると深みに嵌まって収拾が付かなくなるのを知っていたのでしょう。
ただ、私が裸を晒すことを最初に考えたのは誰なのか分からないままです。
私は小学校卒業を待たずに母とその温泉を離れました。友だちと一緒に卒業できなかったのは悲しかったけど、これも仕方ないと諦めました。
その温泉を離れたからと言って別のところで楽しい生活が待っていたわけではありませんでした。
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