住み慣れた温泉を離れてからも苦しいことが続きました。
母がやっと見つけた仕事はやはり旅館の女中でしたが、住み込みで私を連れていけないところでした。
私の学校の学校の関係もあり、早く住所を決めないといなのに母は大変困りました。
するとその旅館の人が世話をしてくれて、私を預かってくれる人を紹介してくれました。
役場や学校に届けた表向きでは母も私もその人の家に住むことにして、実際は母は旅館に住み込み、私はその家でやはり住み込みでお手伝いと言う別々の生活になりました。
私が預けられたのは、旦那様はは60歳くらい、奥様は50歳くらいの子供のいないご夫婦でした。
私達親子の部屋は長い廊下の外れにあった三畳のすきま風が入る寒い部屋でした。
荷物をその部屋に置くと直ぐに母は住み込みのために旅館に行ってしまい、私だけ残されました。
奥様から次の日から私がする仕事を教えられ、上下の薄い古布団を与えられて一人で寝ましたが、心細さ淋しさに布団の中で泣きました。
翌朝言われた通りに五時に起きて竈で朝ごはんを炊き大根と人参の味噌汁を作りましたが、起きてきた奥様から野菜の切り方が違う、味付けが濃い、と最初のお叱りを受けました。
お庭と表の掃き掃除と玄関、廊下の雑巾がけをしたらもう時間が無くなり、ご夫婦の食べた朝ごはんの下げて洗い物をする時にお櫃に残ってたご飯を指ですくって食べ鍋を洗う時に冷えた味噌汁を鍋に直接口を当てて飲みました。
前の温泉の旅館で忙しい時に私も手伝いに行きましたが、そこで母や女中さん達がそうしてたのを見たことがあったからです。
旦那様がお仕事に出られる時に奥様と一緒に玄関でお見送りしてから、母から持たされた書類の封筒を持って一人で新しく通う小学校に行きましたが、どうして親が来ないのかと聞かれて困りました。
授業が終わると急いで帰り奥様に挨拶すると、言葉使いから立ち振舞い、朝の仕事のこと、と厳しい口調で叱られました。
奥様は居間の畳の間に座布団を敷いていましたが、私は外の板敷きの廊下に正座して叱られました。
昔は仕う者と仕える者とそれだけ厳しく差別されるのが当たり前でした。
学校から帰ってのお説教はほぼ毎日ありましたが、その家に来て1週間目に、返事の仕方が悪い、と言われて頬を平手打ちされました。
それからは毎日のように普通に叩かれましたが、竹の長い物指しを使って叩かれる事が多かったです。
初めは脹ら脛を叩かれましたが痕が残る事があってからは服の下になって外から見えないところを打たれるようになりました。
奥様から、お脱ぎ!と言われてから服を脱ぎズロース一枚になって打たれるのですが、肘より上の腕、お腹、背中を打たれることが多かったです。
ごく希にでしたが、膨らみ始めていた胸に物指しが当たることがあり、あまりの痛みに踞ってしまったこともありました。
さらに奥様の機嫌の悪い時にはズロースも脱がされて打たれましたが、お尻を打たれる時は他の所より力を込めて打たれました。
赤く腫れるだけでなく内出血して赤黒い線が残ることもありました。
ご夫婦は平日は近所の銭湯に行き、日曜日には離れの内風呂を使っていましたが、水道のある台所からバケツで水を何往復もして運び、薪で沸かすのも子供の私にはにはけっこう大変でした。
2月の寒い日でしたが私がお風呂に水を運んでいる時によろめいてバケツの水をこぼし、着ていた服がびしょ濡れになりました。
着替えようと思ったら奥様からぐずぐずするなと厳しく叱られ、濡れた服を脱いでズロース一枚で水運びをさせられました。
その後に裸のままで風呂焚きもしたんですが火の粉が飛んで肌に当たって熱い思いもしました。
辛くても奥様の前で泣いてはいけないとずっと我慢して夜に布団に入ってから小さな声で、母の名を呼び泣きました。
ここから逃げたいし母に会いたいけど仕方ないと諦めるしか仕方なかったんです。
このように書くと奥様は酷いだけの人のように思われるでしょうが、後になって知った別の面もありました。
私が中学に上がるのに制服を買うお金もなくてどうしようと母が住み込み先の旅館の仕事をしながら悩んでいたら奥様が、私がくれたとは本人に言うな、と言ってどこからか貰ってきた中学の制服をくれたんです。
他にも私には母が私に渡すように言った、と言いながら、毎月少しではありますがお小遣いをくれていたのですが、実はそれは奥様が自分の懐から下さっていたものでした。
今の人には理解しにくいことだと思います。
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