全部読みました。
投稿者さんの話で興奮する事は正直出来ないし、私が励ましたところで投稿者さんの考えが変わるとも思えないので、あえて別の角度の意見を言わせてもらいたいのおもいます。
本来ならフェラという性行為は
『相手に喜んでもらうための行為』
であるにもかかわらず、苦痛の行為となってしまっている事。
その価値観の違いをまず正さない事には、気持ちが変わる事は出来ないのだと思います。
次に、最低の彼をSと呼び、自分が従うだけのMであったとのような事をおっしゃっていましたが、これも本来SMという行為は
『信頼しあってこその行為』
なのです。軽々しくいじめる事が好きだからSとか、言うこと聞くことしか出来ないからMだ、と思う発想がそもそも間違いなのです。
Sとは、「相手が望む事をしてあげてる」
Mとは、「相手が望む事をさせてあげる」
の服従関係があってこそのSMなのです。
嫌がる事を望んで自分独りが楽しむものは、SMなんて言葉でくくってはいけない、むしろそんな奴は悪魔といってもいいかもしれません。
悪魔の話が出たので、次はこの世に『神』なるものはいないけど、『悪魔』はいます。広辞苑などで調べてもいいですが、神は人間が作り出した想像上でしか存在せず、悪魔のみが存在するのです。
それはなぜかというと
『相対性理論』
という言葉があります。必ず物事には相反するものがあるという事から、悪魔がこの世界にいるのならきっとどこかに相反する神なるものがいてもいいじゃないかと人間の頼りどころを作ったに過ぎないのです。地獄はあっても天国なんてない。
そして人間は欲を持つ生き物。そしてこの『欲』こそが悪の根源になりうるのです。
他の生き物には無い人間である象徴とも言えるべき本能の筈が、悪魔に変えるのです。しかし、同じくしていたわる、助ける、といった行動も人間本来の本能である事には間違いない。
嫌な事といっても、その事(行為)自体は誰かの喜びに変わるということ。そして、それを『誰にしてあげたいと思うか』が大事になってくるのです。
トラウマや、コンプレックスといった本来マイナスの、要素であるはずのものが考えを変えただけでプラスになる事も決して少なくありません。幼いころは胸が大きくて嫌だとか、チンチンがズル剥けで嫌だとか、結果的にプラスになる要素であるはずなのに、その時は価値がわからなくてコンプレックスになりうる事などはしょうがない事なのです。
クレームを入れられるのを好む人はいません。しかし、そのクレームをもらってしっかりした対応をすると、クレームを言った本人が常連になる事や、初めは嫌いだったのに嫌いを意識し過ぎて好きになるなんて恋愛話しはもはや王道とも言えるでしょう。
最低最悪だと思える事も時が解決するときもあれば、大概アレがあったから今の私がいる、と思えるようになる事も珍しくもないのです。
あと、「幸せになりたい」という人がいますが『幸せ』とはなるものではなく『感じる』ものなのです。
あの日あの時あんな事があったから幸せになれない、などと思う事自体が間違いであって、自分は何をした時に『幸せ』を感じるかを経験する事によってそれがたくさん出来る環境を作り出す事で、人生をより楽しく生きる事が出来るのです。
やりたくない事をやったら、やりたい事を同じくらいやる。そこで初めて自分の存在意義を見出すのです。存在意義など、人に決められるものでは無く、自分で見出すものなのです。
人とは信頼無しでは生きていけません。『人間』なのです。人と人の間柄という意味です。他の生き物と区別する象徴こそがその間柄、信頼という行為。嘘つく理由も、騙すのも、愛するのも全て信頼の上に成り立っているのです。
自分をまず信用して、信頼を他人と築いていつかあなたの経験が報われる事を祈っております。
※元投稿はこちら >>