ーまえがきー
最初は、このサイトに投稿しようかどうか迷った。投稿するなら、もっとタイトルに沿ったサイトに投稿するべきかとも思った。しかし、実際のところはこの俺の体験談の半分は、「性がらみ」であるので、やっぱりこのサイトに投稿する事にした。この話は俺が小さな新興宗教団体の末端会員としてから、幹部になり、脱会するまでの7年間で体験した、とある宗教団体の、「表沙汰にならない程度ではあるが、確実に異常な実態」の記録である。
俺が23歳の時、かなり精神的に参っていた時があった。大学を卒業して1年間はブラブラし、やっと就職の決まった会社が、いわゆるブラック企業。給料は支払われるからよかったものの、パワハラというものに特化した会社だった。
ある日、俺はその会社にいつも通りに通勤しようとバス停に立っていた時、バス停の囲いである古びれたフェンスに、ハガキ大くらいの大きさの小冊子が、雨対策かビニール袋に入れられてかかっていた。
俺は暇つぶしに、その小冊子「やすらぎのみち」(仮称)を手に取り、バスの中で読んでみた。(なんだ、やはり宗教冊子か)と思いながらページをペラペラめくっていると、内容はキリスト教と仏教を融合したような教義が書かれており、最後のページに「あなたの現実は必ず変わります。一度、会館にお越しください」みたいな言葉が書いていた。
バス停を降りたら捨てようと、持っていたビジネスバッグの中にそれを収納し、その日も上司からパワハラされるなか、なんとか仕事をこなして家路についた。そしてふと・・・(あなたの現実は必ず変わります)といった、あの小冊子の言葉が頭の中をよぎった。
そして俺は、小冊子をもう一度見てみると、「やすらぎ会館」なるものの住所と電話番号が裏表紙に張り付けていた。精神的に参っていた俺は、日曜日の休日、そのやすらぎ会館とやらに足を運んでいたのだった。(俺の人生を帰れるような、そんなヒントがあるのかもしれない)と、藁にもすがる思いで。
会館は小さな雑居ビルの中にあった。もともと兵庫県の〇〇市という、決して都会とは言えない地域ではあったので、はっきりといえば(怪しいな・・・)が第一印象だった。小冊子には、毎週日曜の11:00~2時間、なにか説法(ミサ)のようなものがあるとの事だった。精神的に追い詰められていた俺は、その怪しい会合に救いを求めて参加をしようとしていた。
その雑居ビルのドアを開けると、中は広々としていた。壁側の妙な祭壇の前には、神父か牧師か、(特定されないよう、役職はボヤカしております)黒に金の細工が施された司祭服のようなものを着た男が何か話しており、この男の目はぐりぐりと異常に大きく、異質なまでにギラギラ輝いていた。
代表者は新参者の俺を見つけると、わざわざ説教壇から降りてきて、末端の席に腰かけた俺に対し、「ようこそ。」とだけいって握手をし、代表者はまた説教壇に帰って説法を続けていた。
話自体は聖書の話とか、原始仏教ではそれに対してなにを言ってるか。等の、よく聞いてて分からない事ばかりだった。参加者は35名くらいで、その内5名が老人。そのほか20人が主婦(20代後半から30代くらい)か、そしてその主婦の子なのか、3歳~5歳前後の子供の5人。残りの5人が主婦連中の旦那か、独身かは知らないが30代~40代くらいの男がいた。
最初の前半部が終わり、10分の休憩が入ると、その場にいた会員は全員、老人以外は席を立って、「ようこそ」 「ようこそ!」と男から握手を求められ、主婦連中からは「よくお越しになりました」と、街中では見かけないような、(宗教がもたらす力というのか)朗らかさ、清楚さというのか、そんなイメージを全面的に醸し出した主婦連中に歓迎の言葉をいただいた。また、説教をしていた代表者も壇上から降りてきて、改めての挨拶をされた。
俺はその日、残りの1時間の説法を聞いて、中の数名と連絡先を交換してからその日は家に帰った。するとメールで「今日はお疲れ様でした。どうだった?」等と、主婦からのメールが入り、平日はまた別の主婦から「今週もこれますか?」等の誘いのメールも入っていた。
俺はそれらのメールを無視していた。(やっぱ宗教宗教していたなww 想像どおりだったわ・・。というか、何で俺、あんなとこ行ったんだろ)くらいに思ってた。
そして俺は翌日、何事もなく仕事に行くつもりだったが、なぜかその時は、どうしても会社に行きたくなくて、結果、無断欠勤してしまった。無断欠勤した事ある人ならわかると思うが、9:05分くらいに、会社に来てない。ということでかかってくる携帯へのあのイヤな電話。そして、携帯を無視していたら、今度は家の電話が鳴って(ドキ!!!!!)とするあの最悪な心境。結果、一緒に暮らしている母親が出て、あっけなく俺の無断欠勤は親の知るところとなり、その日はその日で風邪をひいて寝込んでいた。等とウソをついた。
翌日、一回の無断欠勤してしまったことによって、火曜日の行きずらかった。どうせ会社にいってもパワハラ部長からどやしまくられるのは目に見えている。結果、、、火曜日も行くこともなかった。
水曜も行かなかった。結果、解雇となった。
なんだか、一瞬だった。今まではパワハラに耐えながらも、なんとか仕事だけは行っていたので一定のリズムで生活できていたが、いきなりこの数日で仕事を簡単に失ってしまい、と同時に鬱状態になった。
(また日曜、あそこ行って話くらい聞いてもらうか)なんて気になっていた。そして俺は、メールが来ていた主婦連中に、「また今週も行かせてもらいます」等と返事をした。すると「待ってますね。わぁ~嬉しい(喜び顔)みたいな返事が来ていた。
それから俺はそのやすらぎ会館に毎週、日曜になれば足早に通うことになり、キリスト教と仏教と、その代表者の個人的な我見を付け加えた胡散臭い信仰教義を学んでいくことになる。しかし当時の俺は、周囲のあの親切さ、朗らかさに心を動かされてしまっていて、(こんな場所に俺の居場所があっただなんて・・)と洗脳が完了しかけていた。
そして、その宗教団体の「やすらぎの家」(仮称)信仰教義の中にある、この1項目が、これから話していく性体験の根幹となる部分なのだが、「人間をダメにするのは、長期にわたって蝕む悪魔の誘惑と、果たすことの出来ない己の欲望である」というのがある。
しかし、宗教を信じようと、信じまいと、悪魔の誘惑や、欲望っていうのは誰もがいいものでは無いのはわかっている。変なのはこの部分ではない。
変なのは、この「悪魔の誘惑」と「己の欲望」との向き合い方なのだが、このやすらぎの家では、「人間は一生涯、この誘惑と欲望を克服する事はできない。だからこそ、誘惑が長引かないように、また、欲求が蓄積され、判断が鈍らないうちに、これらをさっさと解消してしまうべきだ」という教義があるのだった。
さらに、「これら悪の所業や、己の欲望は一人で戦う事が難しい時もある。その時は、同志に打ち明けなさい。そして打ち明けられた同志は、それを手伝ってあげなさい」というものがあったのだ。
つまり言い換えれば、極端な例だけど(これは例ではなく実際に起こった事だけど)俺が「最近、女性の事ばかり考えて・・・ちゃんと信仰の事を学んでいこうっていう意思を阻害されるのです」と主婦に打ち明けたとする。するとその主婦は「それははやく解消しなければいけないわ。。。私にできる事あるかしら?」となる。俺が「でも、そんなこと頼めません!!><」とでもいえば、その主婦は「私にできる事は限られているけど、、努力する。いつ会おうか・・?」となる。そしてあった時に何をしているのか。っていえば、フェラチオ。という構図。
前置きが長くなったが、この構図で俺は、7年間の中で異常な人生経験をする事になった。これはその経験の中の記録、特に性がらみの体験を抜粋したものです。たぶん、この先も長くなります。興味関心のある方だけ読んでください。そしてここまで読んだが、どうしてもつまらなかった。という方は、つたない文章、ここまで読んでいただいてありがとうございました。