昭和40年代で私が20歳過ぎの時に山奥のダム建設の現場で1年ほど無理やり働かされていました。
中学を卒業してからあまりまともな仕事につかず、家出同然で飲み屋やパチンコ屋などの住み込みをしていましたが、恐い人から借りた金を返さなかったために無理やり連れて行かれました。
本当は売春をさせられる筈だったようですが、私の顔形が不細工で身体だけは丈夫だったから山奥のダムを作っている現場の人夫が寝泊まりする飯場の賄いとして働かされる事になりました。
自分の荷物は着ている物以外は全て取り上げられ、近くの町から人夫を乗せた幌付きのトラックの荷台に乗せられて、全く家の無い谷間の崖っぷちのでこぼこした細い道を一時間以上かけて連れていかれました。
そのトラックの中でも荒々しい恐い人夫達からいやらしい言葉をかけられたり、身体を触られました。
突いた飯場はすきま風が吹き込む板張りのバラックで、床もホコリだらけの不潔なところで奥の寝る場所だけ汚い破れた畳が敷かれていました。
私はそこで飯場の責任者で親方と呼ばれていた50代の身体の大きな男に引き渡され、前からいた50代の女の人から仕事を教えられました。
一度に40人分の飯を炊き、人夫達の汚れ物の洗濯などの仕事ですが、電気も無く水道もない場所で朝一番に谷川から大きなバケツで水を汲んだり、重い米袋を担いだりと慣れない重労働をさせられただけでなく、夜は前からいたおばちゃんと二人で人夫達からおもちゃにされました。
おばちゃんから教えられて、みんなの前で裸踊りをさせられたり、チンポを立たせて並んでいる人夫達を次々と尺八していったりした挙げ句、最後は親方から言われた相手から抱かれなくてはいけませんでした。
土曜も日曜もなく毎日働かされ、着ていた服も下着もすぐに破れてしまい、私は普段は腰にぼろ切れを巻いただけの格好で働かされていました。
寒くなるとさすがに男用のシャツと作業服の上着を与えられましたが、おばちゃんが汚いながらも女物の服を着ているのがとても羨ましく思いました。
おばちゃんも普段はそんなに恐くないけど、私が大きな失敗をしたり仕事をさぼったりした時や親方から言われた時とかは私を激しく折檻しました。
飯場に連れて来られてすぐですが、私が仕事をさぼった事でみんなの飯が遅れた時、私は泥だらけの地面に両手両足を拡げて引っ張られた大の字に寝かされて、人夫達全員から小便を全身にかけられるリンチを受けました。
その時はおばちゃんも私の顔を跨いで私に小便を掛けました。
月に一度だけ、人夫全員が町に遊びに行く休みの日がありましたが、私とおばちゃんは外から鍵をかけられたバラックに閉じ込められたままでした。
そんな時はおばちゃんは言葉は優しかったのですが、女同士のレズビアンの相手をさせられました。
その日の朝まで何人もの男を相手にしていたおばちゃんのおまんこを舐めさせられました。
夕方になると人夫達が酒を飲んで帰ってきて、私もおばちゃんもいつもより激しく乱暴に弄ばれ、おまんこも尻も口もめちゃくちゃに使われました。
それでも翌朝は真っ暗なうちに起きて働かされたんです。
1年してその飯場が解散になった時、私は男物のシャツを着ただけの姿で町でトラックから降ろされました。
わずかなお金は持たされていましたが、着る物を買って1年ぶりに銭湯でお風呂に入って食堂で親子丼を食べたらもう残っていませんでした。
仕方なく町役場に行ったら私の捜索願が出ていたそうで、警察と一緒に叔父さんが迎えに来てくれましたが、1年で痩せてやつれてしまった私を叔父さんも直ぐには分からないようでした。
今でも性の商品とされる人身売買はあると思いますが、さすがにあの頃のような事は残ってないのではないかと思います。
60年近く経っても忘れられない辛い事でした。