C (犯行現場の部屋の提供者)
1972年12月生
JR常磐線綾瀬駅から北へ15分ほど歩いた住宅街。玄関と二階ベランダが南欧風、3DKの建て売り住宅。約百平方メートルの敷地いっぱいに建っていて、両隣の家とは人がやっと入れるほどの狭さ。近くに小さな公園有り。事件の13年前、一家は同じ足立区内から引っ越してきた。
・父親=(当時48歳)…東京湾近く、隅田川沿いに近い町工場が密集した一角にある診療所にて事務長。入院設備は無いが七つの診療科目を備えた大きな診療所。
・母親=(当時47歳)…父親と同じ診療所にて看護婦主任を勤める。
・この両親が共産党員であったため、警察はマスコミを恐れてなかなか家に踏み込めなかった。
C少年は家庭内暴力が激しかった。
この事件が発覚した際、別件で既に栃木の少年院に送られていた。東京に呼び戻し逮捕。
・Cの兄=(当時17歳)…少年B(サブリーダー)と中学の同級生。
ほとんど一部始終を目撃し、時には食事を運んでいたにも関わらず事件発覚まで沈黙を守る。
Cの両親は2人とも共産党幹部。 警察が逮捕状を持っていった段階で、速攻で弁護士を用意し、 家宅捜索も弁護士立ち会いの元で行われた。
党は、事件後すぐの段階で湊の両親を除名し、 「共産党とは一切関係がありません」と発表。
そして、「監禁という認識がなかった」「少女は帰る気がなかった」
等のCの母親の自己弁護的記事を赤旗によって 、1989年5月20日~27日まで連載コラムでバックアップ。 Cの両親への援護記事文。
◆共産党・橋本敦議員(参議院)の発言
さまざまな少年事件は、社会全体の構造の歪みや、受験戦争などの教育の歪みといった背景の中で
おきてくるものです。・・・
被害者による報復主義には反対ですし、20歳未満の少年は、まだまだ未熟ですから、教育し、更生させていく必要が あるんです。(インタビューより)
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