わたしは いま ひじょうに いんうつなる こころもちで そふぁーに
よこたわっている。 わたしは どこかで まだ こころのすみに にんげんとしてのあつかいを すてきれず、 そのため ちょうきょうだの ふくじゅうだの
くだらない こまかい こころの あやに とらわれている。
それによって あいてにたいして どこか えんりょがちに なり、
めすだ、 けだものだ などの ののしっても さいごの いちまつに にんげんと
して みている こころの めめしさに きづきはじめたのであった。
これは おそらく わたしの うまれそだった かていかんきょうが おおきく
わたしの じんかくけいせいに えいきょうしてるのであろう。
わたしの やばんせいなどは にせものである。 どこか こちらへの
へつらいや しんりてき つながりを もとめている。
あまいのだ。 わたしは どこか めめしさ とともに ひとに たいして
せいぜんせつや やさしさを もとめてるのだ。
それは わたしが みたされなかった ものであろう。
わたしは もう このような ちまちました こころの あやというのに
つかれきっている。 まったく あいての きもちなど いっさい
こうりょしない ぼうりょくせい りょうじょくこそ かんぺきな あいてへの
しはいになる。 ちから すなわち ぼうりょくで あいてを くっぷくさせる
ほうほうが もっとも たんじゅんで ぴゅあな あいてへの ただしい
あつかいなのだ。 それに やっと わたしは いま きづいたのであった。
なのだ。
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