二日間呼び出しがなかった。
ハルのバラック内で子供の発熱者が連続して出た。
伝染性のビオンの風土病で、子供がかかると生命が危ないこともある。
それまで魂が抜けたようになっていたハルだが、目の前で可愛くいたいけな女の子が苦しんでいるのを見て、バラック係の兵卒を呼んだ。
3日ぶりに士官と会った。
「薬か?」
既に伝染病の情報は届いているようだった。
「まさか、子供を助けたいから貴方と奴隷になります、なんて安っぽい売り出しじゃないだろうな。
見え透いた安物を買う気はないよ。」
士官はハルの顔も見ずに忙しそうに書類に目を通している。
「何なら、買ってくださいますか?」
ハルの問いに、士官は初めて会った時と同様、軽い口調で言った。
「どちらかの乳首。焼いた大型ペンチで引き千切れるか?」
後ろで待っていた若い兵卒が、口を押さえて吐き気を堪えようとした。
「それで、買ってくださるなら...」
一時間後、ハルはまた大の字に両手両足を引き伸ばされた立ち姿で拷問室にいた。
ペンチは両手で扱う大型で、先端部は既に赤く熱せられていた。
耐熱手袋を嵌めてペンチを握る士官には、これまでハルに拷問をした時のような軽さが感じられなかった。
目が真剣だった。
それに対して、ハルの目は虚ろなままだった。
それまでの、絶対に耐え抜くと言う気迫も感じられない。
士官の持つペンチが、ハルの右乳首に近づいた。
「やめてください!」
いきなり若い兵卒が二人の間に飛び込んできた。
先ほど吐いてしまった兵卒だ。
兵卒は片手の拳銃を士官に向けて構え、片手でハルを拘束している鎖を解こうとした。
鎖を解くことには成功したが、その直後僅かに隙を見せた瞬間、士官の足が信じられないほど伸びて兵卒の拳銃を蹴り飛ばした。
続いて首筋に手刀を一撃。
兵卒は床に倒れた。
駆けつけた下士官に対して簡単に「こいつは営倉へ。処分は後で決める。」と言って連れていかせた。
ハルは拘束を解かれたまま、その場でじっと立ったままだった。
「なんだ?逃げるふりくらいするかと思った。」
と士官が言うと、ハルは、「商談は終わってますから..」と呟くように言った。
士官が床に落としたペンチを拾い上げると、ハルの方が「もう、冷めてます」と言った。
士官は苦笑して、また焼き直すことを下士官に命じた。
再び焼かれたペンチが持ち込まれ、士官はハルに近づいた。
士官は今一度ハルの目を覗き込み、「買わねばならんのか..」と言うと、ペンチを握り直した。
ジューッ!
肉が焼ける音が約5秒。
その後、士官は力任せにペンチを捻り引っ張った。
男の力でも、なかなか人間の体組織を引き千切るのは難しい。
刃物で切断するのより、大変な困難なことなのだ。
ハルの乳首やその付近の体組織が完全に焼けてしまっていても、千切るのは難しいだろう。
厚いステーキはナイフで切るものであって、たとえ十分に焼けていても、引き千切ることは難しい。
しかも、ハルの小さな乳首や乳頭部分は、急速に熱せられて生体反応も消滅したが、その下層組織はまだ生きている。
それを一緒に引きちぎるのだから、現場は惨悲を極めたものになった。
あの冷静だった士官がはっと気がつくと、自分は床に倒れたハルの胸に片足を掛け、手には黒く焼かれた肉、赤い生肉、もともとのハルの白い皮膚、鮮血が混ざってぐちゃぐちゃしたものを挟んだペンチを握っていた。
ペンチを持つ角度を変えると、白い皮膚が明らかに皮下組織から剥ぎ取られた様子がはっきりと分かった。
私は..、これ程のことをしたのか..?
確かに自分は、他の人間とは違うから何でも出来るはず、それを試したい、とは思っていたが..。
「ご満足..いただけましたか..?」
ハルの声が聞こえた。
うそだ!これ程のことをされて、あんな口調で話せるはず無い!
士官が恐る恐る下を見ると、拷問前と同じ虚ろな目をしたハルの顔があった。
士官は成人となって初めての恐怖を感じた。
しかしあっさりと負けを認めるわけにはいかない。
自分も冷静であることを見せつけようと、落ち着いた声で下士官に対し、ハルの手当てとバラックへの薬の配布を命じた。
一時間後、右胸全体を包帯で覆ったハルは、椅子に座らされて再び士官に会わされた。
「お薬をありがとうございます..」
ああ、こいつの感謝の言葉、以前と違ったな。
以前は本当に、感情が込み上げてくるようだったのに、今では虚ろだ。
しかし、心の折れてる今のうちなら私の物になるのでは...。
「ハル、書類に記されたお前の元の主人が死んだと言う情報、あれは本当だ..」
ハルはもう泣きわめかなかった。
ただ涙が一筋流れただけだった。
「お前の元の主人の遺品が欲しいか?」
無表情だったハルが、ぴくっと身動ぎしたようだった。
「私は情報関係組織に顔が効く。何か遺品を手に入れることは可能だ。」
「もう現実世界に存在しない人を頼るな。
私もお前から思い出まで奪おうとは思わん。
元の主人は記憶の中に仕舞ってしまえ。」
しばらくの沈黙の後、ハルは椅子から立ち上がって、士官の方を向いた。
この人に...、死なせてもらおう..。
そのために..、自分の心を売ろう..。
ハルの気持ちはほぼ決まった。
士官は目的を達する直前だった。
その時、ハルは士官の後方に立っているあの優しい下士官に気がついた。
目を怒らせて顔を一度だけ横に振った。
ハルは瞬間に悟った。
危なかった。この士官は情報操作で私を騙そうとしてる!
しかし、それに気がついたのを相手に知らせるのは不利だ。
とにかく今は、私の乳首を薬で買ってくれたことを感謝しなくては。
ハルは士官の目を真っ直ぐ見ると、再び深く礼をした。
「本当に、本当にお薬をありがとうございます。」
これは、おかしい!
ほんの数十秒前と別人ではないか?
目も言葉も、以前に戻ってる!
しかし士官はそれ以上追及出来なかった。
ハルが恐くなったのだ。
※元投稿はこちら >>