今の女子が愚かになっているのは、男子と同じ教育を施し、男と同じ仕事をさせているせいだ。
それはある意味女子の不幸せなのかもしれない。
なぜならば、心身を男子に捧げることができないからである。
だから、愚かな今の女子たちは一瞬の性欲に任せて見知らぬ男子に裸で性交をするのである。
今の女子は、野良犬と同じになり下がったと言っていい。
しかも、今の若い娘ときたら「パパ活」などと称した「売春行為」を平気で行っている。
パパ活女子は、昔風に言えば「パンパン:だ。
パンパンと呼んで、思い切りそんな女子達を、見下してやったほうがいい。
いや、むしろパンパン以下だろう。
昔の娼婦は、両親や子供達の生活を支えるために、身を売って立派に働いていたからだ。
そういう自己犠牲の精神がパパ活女子にはない。
女子の教育は、せいぜい小学校だけ施していれば十分だ。
せめて中学校まで通わせても、女子には保健体育と家庭科だけ教えて、立派に家事をこなし多くの子供を産む健康な肉体に育ててやるこそが大切なのだ。
そんな実態は具体的にこのようになる。
中学校では、男子が快適な教室で勉学に勤しむ中、女子達は猛暑の校庭でひたすら走らされたり筋力トレーニングを課されている。
休まず働きたくさん子供を産む肉体を育てるために、全員全裸で…
「ほらっ!もっと死ぬ気で速く走れっ!そんな身体じゃ使えない女になるぞ!」
そんな罵声を全裸女子達に浴びせかける男性教師。
全裸女子達の肉体に竹刀による愛の鞭が打ち込まれる。
「ありがとうございますっ!」
愛の鞭を入れられた全裸女子は次々と感謝の言葉を発する。
「感謝と奉仕」
その精神を体で教え込む、本来の女子の強さを引き出す大切な教育である。
赤筋の持久力と子宮から溢れ出す忍耐力を育てる女子の教育は、とても尊い。
努力という字は「女の又に力」と書く。
まさに女子こそ努力が必要なのだ。
女子中学生達の登校は、早朝3時の校舎清掃と校庭整備から始まる。
男子生徒が快適な環境で学習できるため、全裸の女子達が校舎や校庭を清めるのである。
校舎清掃をする女子達は、清掃をすべて素手と舌で行わなければならない。
廊下や床、黒板や窓ガラス、そしてトイレに至るまで、全裸女子達はまず舌で塵一つなくなるまで舐め、そして素手で磨くのである。
校庭整備をする女子達は、細かい草一本まで抜き、校庭の枯葉や小石まですべて拾わなければならない。
まだ夜も明けぬうちから働くことを身を以って躾けられる全裸女子達の姿は、実に健気で美しい。
一生懸命膨らんだ乳肉を揺らしながら、己の舌と素手で清める姿も美しさを感じる。
女子は強いので、こういうことにも心細やかに奉仕できるのである。
午前7時頃になると、徐々に男性教師達が出勤してくる。
全員の全裸女子達は、校門前で土下座をして「おはようございます!」と大きな黄色い声で挨拶をして出迎えなければならない。
人として挨拶は基本である。
そして全裸で男性に土下座することは、やがて子供を孕むために男性の精液を自らの子宮に求めるための奉仕の精神を躾けるためである。
「おい、俺の靴を磨け。」
ある教師が土下座する全裸女子に命ずる。
「はいっ!かしこまりました!」
そう全裸女子が大きな声で答えると、男性教師の革靴を舌で舐めて綺麗に磨くのである。
「ほら。ベロだけじゃなく、体全体で磨かなきゃダメだろ!」
そう全裸女子に伝える男性教師。
そうすると、全裸女子は舌で清めた男性教師の革靴を、素手や乳や股を使って土埃一つないように綺麗に磨くのである。
この身を挺した全裸女子こそ美しい。
己の身を穢してこそ、女子の奉仕の精神が美しく映るのである。
全裸女子も男性教師に忍耐しつつも尽くすことで、陰部を濡らしながら喜びを感じている。
こういう日常を過ごすことで、精神的にも忍耐する女子の強さが育てられるのである。
女子も中学3年生にもなると、十分子供を産める体に育つ。
女子は肉体的にも精神的にも過大な負荷を与えると、女性ホルモンの分泌が促されるからである。
女性ホルモンが分泌されると、産みの苦しみに十分耐えられる肉体となる。
日々休むことなく体育の授業を受け、愛の鞭を受けている全裸中学3年女子達の肉体は、大きくて張りのある乳房と丸く張った尻に育ち上がっている。
しかも男子への感謝と奉仕の精神も、子宮の底から湧き上がり、己から心身を犠牲にして必死に奉仕しようとしている。
女子はやはり体で教えないと分からない生き物である。
だから今の女子教育は誤りなのである。
現在の教育者達は、女子の肉体と精神を理解していない。
女子に地獄の深淵を見せないと、女子は育たないのである。
※元投稿はこちら >>