後記
この小説を通じて、私はむしろ女子の強さをリスペクトしていることを伝えたかった。
なぜならば、女子は命を育む尊い存在だからだ。
女子は初潮を迎え、苦痛を伴う性交の初体験をする。名の下に
ホルモンバランスも不安定になり、生理痛に悩まされた上、「男女平等」の名の下に男性と同じ労働までこなさなければならない。
社会的に「男女平等」であっても、肉体面で「男女平等」は女子にとってむしろ負担が多過ぎる。
だから女子たちはその精神的ストレスを、くだらない見栄の張り合いや陰湿ないじめで発散するようになってしまったのである。
言い換えれば、肉体的なハンディーを抱えながらも、男子と同じになるように背伸びして、精神的に過剰な負荷がかかっているのである。
昔の女子はおおらかであった。
女子達はともに助け合い、男子にも子供にも女性本来の母性で優しく強く献身的に接していた。
男子も、女子は尊い命を産み育てる存在として、ときに厳しく接することもあっても、ときに女子の心を優しく支えていた。
理屈ではなく、本能的に男女ともが互いに慈しみ、認め合い、助け合うという、人間らしい世の中だったのである。
だから、女子の肉体から溢れる本能を強みとして尊重しやすかった、というのが昔の社会だったのだろう。
今は、そういう女子にしかない強みを発揮しにくい社会になっている。
女子の肉体的な強みを考慮せず、見た目だけの形式的な「平等」になってしまったのである。
それは、むしろ女子にとって不幸なのではないか。
私は強くこう言いたい。
男子は、女子の身体と心をよく知り、大切にしよう。
女子は、男子を母性的に慈しもう。
そのために、まず女子は己の母性に敏感にならなければならない。
社会的に男子と平等になると、女子は男性と同化しようとして、本来生理的に秘めた母性を忘れてしまうのである。
その結果、女子自身が自分らしさを見失い、精神的ストレスを抱えるようになる。
形式的「男女平等」は女性にとって不幸だというのは、このような理由である。
本当に女性を大切にしたいのなら、お互いに身体の底から溢れ出る本能に正直になるべきだ。
そうすれば、お互いに慈しみ合い、お互いに幸せになれるのである。
自分の身体に正直に生きよう。
そして、異性の身体を正直に受け容れよう。
それこそが真の愛なのではないか。
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