扉が閉まると、いつもは視界の下にあるはずの階段が、俊雄の目の前いっぱいに広がった。
カツン、カツン、と陽子のヒールがコンクリートの段を打つ音だけが、階段室に響く。
俊雄は、その音に合わせるように手を伸ばしていく。
触れた段の冷たさが、自分が何も身につけていないことを改めて思い知らせた。
階段の向こうから、かすかな笑い声のようなものがした気がして、俊雄は思わず動きを止める。
陽子は振り返らない。ただ、リードをひと引きして歩調を崩させなかった。
階段の踊り場までくると壁の「4F」を見て陽子が、
「まだ経理部の人達残ってるみたいね」
ドアノブに手をかけて少しだけ開いてみると、話し声やコピー機の音が階段まで聞こえてくる。
「どうします部長さん?少し寄って行きますか?」
陽子が不安そうに首を垂れている俊雄を見下ろしながら囁いた。
「あ、い、いえ、こ、ここは、、」
俊雄も流石に人の居るフロアに入りたいとは言えない。
「ふふふ、そう、まあいいわ。でも、上に行けば行くほど帰りも遠くなるわよ。」
俊雄はこのとき、服を残してきたフロアのことなど、すっかり頭から抜け落ちていたことに気づいた。
(そうだ、まだ戻らなければならないんだ。もし陽子に置き去りにされたら、何も身につけないまま会社の中を彷徨うことになる。それも、首輪をつけたまま……)
首輪なら、自分で外してしまえばそれで済むはずだ。
けれど、そんな単純なことさえ思いつかないほど、胸の中は不安でいっぱいになっていた。
俊雄のそんな気持ちを見透かしたように、
ちらりと下を見下ろしてから、ゆっくりと俊雄に視線を落とす。
「その格好で、ひとりで自分の席まで戻ってみる?」
俊雄は喉が固まったように声が出ない。
(ひとりで戻るなんて……。陽子のリードから、離れたくない)
「5階は営業部のフロアよ。もちろん、まだ残ってるはずだけど……。そうすると、6階まで行かないとね。役員たちはもう帰ってるでしょうし」
陽子に引き返す気がないことを、俊雄は思い知らされた。
このまま付いていくしかない。
陽子のそばにいることだけが、今の不安を少しだけ和らげてくれる気がした。
5階の踊り場で、陽子は一度足を止める。
ドアの向こう側の様子をうかがうように、しばらく耳を澄ませた。
電話の応対の声や、途切れ途切れの話し声がかすかに漏れてくる。
「ふふふ、やっぱりまだいるわよ」
ドアに耳を当てたまま、四つん這いでうつむいている俊雄に声をかける。
「さあ、もう一つ上がりましょ」
陽子は何事もなかったかのように階段を踏み出し、リードを軽く引いて6階へと歩き出した。
6階の踊り場まで来ると陽子は、再びドア越しに耳を傾けた。今度は静まりかえって物音は聞こえてこない。
ドアノブに手をかけるとゆっくりと回して様子を伺いながらドアを開けた。
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