第一章
単身赴任先の部屋に戻ってきても、陽子の声は頭の中から消えなかった。
「忘れたなら思い出させてあげるわよ」
帰り際に浴びせられたその言葉が、何度も反芻される。
それでも翌日からの陽子は、何事もなかったように淡々と仕事をこなしていた。
会議でも、廊下ですれ違うときも、部下としての距離を崩さない。
触れられないままに過ぎていく時間が、かえって俊雄の胸のざわめきを大きくしていく。
そんな日々が数日続いて、週末を迎えた。金曜の午後、定時を少し回ったころ、パソコンの画面右下に新着メールの通知が灯る。
差出人は「柊木陽子」。
件名はなく、本文には一行だけ。
「今日、残ってもらえますか。」
パソコンの画面から顔を上げると、斜め向かいの席で、陽子が表情ひとつ変えずにパソコンに向かっていた。
まるで何も送っていないかのような横顔に、胸の鼓動が一段と速くなる。
俊雄は、高鳴る気持ちを押さえきれないまま、キーボードを叩いた。
「わかりました。」
定時を過ぎると、一人、また一人と席を立っていく。
「部長、お先に失礼します」
「ああ、お疲れさま」
俊雄は、次々と帰っていく部下たちを見送りながら、自分の席に座り続けていた。
キーボードを叩くふりをしながら、画面の文字はほとんど頭に入ってこない。
そして、とうとうフロアには陽子と俊雄だけが残った。
「じゃあ、始めましょうか」
パソコンから顔を上げた陽子が、静かにそう告げる。
たった一言なのに、その意味を俊雄は痛いほどよく分かっていた。
「……はい、陽子様」
自分の口からこぼれた呼び方に、俊雄は一瞬だけ息を呑む。
二十年前の会議室で何度も繰り返したその言葉が、何の違和感もなく舌の上に戻ってきた。
陽子は立ち上がると、振り返りもせずに言った。
「会議室、空いているかしら。一緒に来て」
返事をする代わりに、俊雄も無言で席を立つ。
夜のフロアを抜けて、見慣れた廊下を進む。
二十年前と同じ会議室だったが、中の様子はすっかり変わっていた。
壁際のホワイトボードは大きなモニターに替わり、椅子や机も最新のモデルに入れ替わっている。
その違いが、ここを離れていた年月の長さを静かに物語っていた。
それでも、入口近くに立つ陽子の位置だけは、あの夜と変わらない。
部屋に足を踏み入れた俊雄を、まっすぐに射抜く視線も同じだった。
新しい机と椅子に囲まれていても、その眼差しだけが、二十年前の会議室をそのまま連れ戻してくる。
「私の前では、どうするんだっけ?」
会議室のドアが静かに閉まったあと、陽子がそう問いかけた。
命令ではなく、ただ決まりごとを確かめるような口調だった。
「……はい、陽子様」
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